ケー・ドルセー41番地

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毎月月末、館より届く鈍色の便り

第17書簡「幾度目かの最初」

 乙訓の久子へ。

 君に うして手翰てがみ を書くのは初めてだ。いや、書く事自体は実のところ 初めてでない、 まで 何度も浅猿あさま しい情念パッシオン に駆られ便箋を乱筆で汚しては、否、僕の心情此様こん な易しいものではない、本当の最後の仕事を一段もっと 真剣になって綴らねばならぬと臆して送れず、幾月も過ぎてしまった。

 だが今囘こんど こそは確信する、此の便りは必然きっと 君の手元もと に届くだろう。明日一日の朝零時に、友人の河野と八坂に初詣に行く口約束をしている。どうせ晦日を口実に四股しこたま 酒を呑んで ているであろう僕の為に、下宿の玄関口まで迎えに来て れるという手筈になっている。叱言こごと は云われたが、點頭うなずいて呉れた彼は い奴だ。

 半纏はんてんを羽織って玄関先の河野を睥睨へいげいしたお主婦かみ さんは、階下から僕の名を呼ぶだろう。そして返辞がない事に、 の皺の刻まれた眉間に更に皺を寄せ、檜木の階段をみしゝゝ云わせながら僕の部屋へと上がってくるだろう。腰高障子を開けた目先さき に在るのは最後まで放棄うッちゃ れなかった書匣ほんばこ 赤毛あかげっと に、少しの調度など 、そして悉皆すっかり 片付けた文机の上に置かれた此の書状だ。封筒の表に、此れを河野に渡す様明確はっきり 記しておく。 うでなければお主婦かみ さんが読み兼ねない。後は河野が如何どうべきか解っているから、随分迷惑を掛けて仕舞う事を申し訳無く思うが、総て任せたい。

 う云う訳で、河野という名前から届いた君宛への書翰しょかん に此れが同封されて居た事を、何卒どうかいぶからないで欲しい。彼は い奴だ。

 

 

 

 今、夜の九時二十分だ。此処ここしばらく裏の竹林を強く揺さぶって居た空風も、今日は寂然しんとして凪いでいる。此の四帖一間に聞える物────火鉢の楢炭の小さく爆ぜる音、咥えているPeaceの火先ほさき くすぶる音、うして用箋にPILOTの万年筆を滑らせる音────其れが総て。十一時迄には書き上げたい。眠剤ねむりぐすり は充分にある。此れを片手に、河野が来る前に、終電で保津の峡谷に向かう心算こころづもりで居る。

 君は今、急度きっと嘲笑わらっただろう。過日いつか僕が其の様な決行を批判したから。彼時あれは確か三月、僕たちは瓦斯ガスストーヴを挟んで対坐むかいあい煙草を吸っていた。君は先日こないだ三原山で女学生が心中騒動を起こして以来、追随者が跡を絶たない事にいて、

「私も女学生がくせいの内に三原山のような処で心中したいわ」

 と云ったのだった。「三原山の灰色に立ち上る噴煙が位牌だなんて、恨みがましくって不貞ゝゝふてぶてしくて素敵ね」と。

 僕は其れに大人気おとなげもなく勃然むッとなって、「自殺と云うのは人間のもっとも意識的な自由選択で在るのに、幼稚な憧憬インスパイア他人ひとの猿真似に終るなんて世話が無いぢゃないか。華厳滝で藤村の後を追う奴輩と同等おなじ位軽蔑する」と云う様な事を口走った。すると君は莞爾にっこりとして斯う云ったね。

 自殺とは生涯最後の仕事だが、其の大仕事を、今迄奴何どれ程の人間が成し遂げて来たと思うか。自殺であろうとうで無かろうと、肉体存在が消滅すると云う結果が同等おなじである事を考えれば、此の世に死んだ事が無い人なぞ独りも居ないのだから、死という仕事を成し遂げられ無かった人も又独りも居ない。つまり貴方があたかも未だ開拓されていない自由選択の最前線フロンティアだと錯覚しおもっている其れは、既に創意工夫され、あらゆる人間がとうに語り尽くして居り、何処に着地しようと決して普遍を超越しえ得ないのだ。と。

 君は三、四年前に死んだという或る仏蘭西フランス人の話を持ち出した。弾丸が確実に心臓を貫通する様に定規で念入りに計測し、三十歳で拳銃自殺をした醒めたヒル伊達男ダンディ。彼が特別なのは、命を絶つ道具に拳銃を選んだ事でも、燃える銃口から熱い臓器までの距離を計った事でもない。決行に至るまでに為された十年分の周到な準備よういに就いて、興奮と反する葛藤とを大いに綴った筆跡エクリチュールを遺したからだ。此の身体をくびる手段の選択などほんの些末な事象に過ぎない。其処そこに至る迄の軌跡が重要だいじなのだと。

 其時そのとき僕は首肯せず、嚴乎きツとなって彼是あれこれ云い返したが、其れに就いての弁明いいわけは最早此処ここでは致すまい。只、今晩の決行を君に納得して貰う為には、君の云う軌跡の控書メモが必要だと思ったのが、今斯うして早急に筆を走らせている理由わけなのだ。君は、三原山の投身に追従オベイするのは先人の仕事に敬意リスペクトしめす事だと云った。先学に倣う大切さは、く勉強している貴方なら熟く解るでしょうと、皮肉もえられて居たけれど。

 然々ああ、熟く解るとも。だから、此の手記が僕の巖頭之感である。

 

 

 

 君のカーラーで膨らませた耳横の黒髪の色沢つやが、まぶたの裏に揺れている。年末も年始も君は凝然ぢッとして過ごすと云うから、て独りでインキを散らしている。階下の柱時計が鐘を打っている。十時だ。風が出て来た。隙間風が薄ら寒い。世てを決意しても寒い物は寒い。西行が其様な歌を詠んでいた。すてはてて身はなきものと思へども。

 寒い事は不幸だ。不幸者と呼ばれる事には、何処か変った安心が、幸福が在る。幸福者とされる事は不幸だ。貴方の優越は其様そんな処にしか無いのかと云われれば、然うだと応える。幸福の為に行われる挙動しぐさは愚かだ。否、幸福で在る事を目的パーパスにしている内は何も彼も駄目だ。

 斯うも書いてみよう。誰何だれかにとって何者かで在りたいという願望デザイアが人を人たらしめるので在るが、其様な低処ひくみに囚われている限り、僕は僕に成れない、と。君にとって僕は一体何だったか。爾う考えれば考える程、とても苦しい。自責の念にられる。

 自罰は自傷ってしか満たされないで在ろうし、自傷は陶酔にってしか成功しないだろう。して成功は信念を持ってこそ成し得るに相違ちがいない。信念とは人生を賭すると決意した、殉死を宿命付けられた、万有への心意気だと思う。其れで、手段はたとえ如何様であろうと、僕は前述の決意に到った訳だが、此の強烈な自意識エゴがもうちッたァばかり僕の精神こゝろ火室ボイラーを燃やす石炭コークに成ればかった。神経があまりに悲痛に痙攣し、幾ら甘美な死を渇望ほっしても、遂に其れ等が真なる道理ことわりを見出す糧と成り得なかった事を、僕は容認みとめられなかった。しか)しし、正しく苦しみもしなかった。惨憺みじめだ。自分で自分を惨憺みじめにしている。

 昨晩は好くねむれなかった。僕は血走った眼で、此のペン先が最早望ましい言葉を綴って呉れなく成った様子を眺めている。手がかじかんでいる。とうの昔に十一時の鐘は鳴り終わっている。拒んでも明日は来る。耐え難い。結局此れも又、凡庸な嘆きに満足している白痴たわけを晒すための診療録カルテ終始しおわってしまった気がする。今囘こんど こそ気持は静寂しずかになる物だと思っていたが、書けば書くほど何ひとつ書き切れていない気持になってくる。何という業の深いやつ。僕は未だ地獄に行けない。河野が来る。お主婦かみ さんが玄関の引戸を開ける音がする。もう幾度目だろう、又手翰てがみ を出せなかった。

 君の、花を活けた部屋を思い出す。懐古なつかしい部屋。後日あとで新年の挨拶に行く。

 

十二月三十一日

午後十一時五十分

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第16書簡「母殺しのドグマ」

 先日このようなツイートをした。


 母親と適切な関係性を築くことに失敗した私が、近年のフレンドリーな母子関係を見て感じたことを何気なく綴っただけのツイートではあったが、「分かる」という共感のレスポンスが予想以上に多く、経験者は決して少なくないのだな、ということを実感した。一方で勿論、母親を殺さなければならない理由が分からないという反応もあった。
 興味深かったのは、前者の反応を示した多くは女性の(と思われる)Twitterアカウントであり、後者の反応を示した多くは男性の(と思われる)アカウントであったことだ。母子関係は子供の性別によって大きく実体が異なることを、Twitterの反応を見ても否応なしに感じさせられた。

 

 

 文字数の関係で言葉足らずなところがあったので、先に上記のツイート及びそれに連なるツリーの中で私が何を言いたかったのか、もう少し明確にしておこう。

 「母殺し」とは勿論、現実に母親を殺害することを意味してはいない。そんなことを容易くできたなら、世の中の大半の人間はもっと心穏やかに生きている。ここにおける「母殺し」とは、とうの昔に母子分離を経てなお自我同一性を脅かしてくる怨霊と決別することだ。寄生虫のように心に巣食う支配者の影を抹殺することだ。

 ユング心理学では「母殺し」という用語は、「母離れ」というニュアンスで用いられている。人間は誰しも初めは母親と一体であり、出生してからもしばらくは母親の絶対的な庇護に依存している。が、いつかはそこから心理的な離乳を果たさねばならない。何故なら母親は子供を包み込み、守り育てる一方で、抱え込みすぎたあまり子供を縛り殺してしまう側面も持っているからだ。このような二面性を持ったイメージ像をユング太母グレートマザー と称したが、子は母親の引力に呑み込まれまいと、反抗してみせたり、自由意志に突き動かされた冒険を繰り返し試みる。そうして支配者⇔従者としての母子関係が瓦解し対等なものへと変化してゆくことで、子は主体性や社会性を獲得してゆく────この母親からの精神的な自立を、ユング心理学では「母殺し」と呼んでいる。 

 しかしそうして太母グレートマザー との殺し合いによって主体的な「わたし」を一度獲得したとしても、母親と関わり続ける限り、それは何度も脅かされることになる────特に、その「わたし」が女性であった場合に。

 母と娘の関係は拗れやすい。娘は常に現在の母の鏡像であり、また時に、母親がかつて理想とした女性像の仮託先であるからだ。

 

 ちょっぴり話が逸れるのだが、この文章をJ.A.シーザーを聞きながら書いていたところ、『越後つついし親知らず』の「女の悲劇は渓谷へ……」というフレーズを耳にして思わず手を止めてしまった。太母グレートマザー のイメージは、物語の中で様々な象徴物として立ち現れることがある。それは例えば『白雪姫』やヘンゼルとグレーテル』における魔女だったり、日本神話における八岐大蛇ヤマタノオロチ だったりするのだが、大地の割れ目や暗い洞窟として描かれることもあるらしい。これまで何とはなしに聞き流していた「女の悲劇は渓谷へ……」というフレーズは、渓谷────つまり子供を殺しかねない母親のネガティブな側面が、女の悲劇────ここでは子によって母親が姨捨山に捨てられるという情景が歌われている────母殺しによって克服されるという暗喩になっているのだ。シーザー氏がそこまで考えて作詞したかは不明だが、偶然の産物だとすればあまりに邪悪で美しい。
 

 

 母親は娘に熾烈である。口調は熾烈でなくても、そこに悪意が微塵もなくても、娘には熾烈に聞こえてしまう。

 例えば母親が娘と息子に対して、その身嗜みや言動についてこういう叱り方をしたとしよう。
「きちんとしなさい」
 これを「行為に対する注意」と受け取れる人は、男性であるか、人間が社会的動物として機能するために必要な「他者の内在化」という心理プロセスを何らかの理由によって踏めない(踏もうとしない)人である。

 娘にとってこの「きちんとしなさい」という言葉は、確かに行為に対する注意でもありながら、往々にしてそれを超えた、人格にジワジワと侵食してくる蟲毒になりうる。何故ならそこには、「そうでなければ嫁に行けないぞ」というような脅迫や(これは現代では希薄だろうが)、「そうしてくれなければ私という女性の格が下がる」という、無言の強制が含まれるからだ。仮に母親が如何に優しく、諭すように娘を叱ったとしても、その言葉はいつでも娘────生物学上の天敵である同性に対する牽制と娘に捉えられかねない危うさを孕んでいる。そして同時に、生物学上の同一種だからこそ、母親は息子以上に娘に自己投影をし、その傀儡を無意識にジャッジし思い通りにコントロールしようとする。

ラファエロ・サンティ《小椅子の聖母》(1513~1514年頃)
この絵を見ると、マリアに抱きしめられたキリストこそ息子の偶像であり、右端の暗がりでマリアを見上げるヨハネの不安げな、しかし決して逸らされない視線、こわばった口元こそ娘のそれであると感じることがある。

 

 母親の鏡像とされることは、娘にとっては不快で、また寂寥を誘うものだ。その不快感はよく「母親によって娘の自己が否定されているから」と説明されるが、間違ってはいないものの、まだ解像度が低いと感じる。

 母親の娘への接触は、娘という鏡に向かって、母親が化粧をめかし込んでいるような光景に近い。母親の視線は娘を通過する。母親が見ているのは鏡そのものではなく、鏡に映っている自分だからだ。娘はこの母親が鏡に対して行っている自己投影に自己が否定されるような虚しさを覚え、一方で凄まじい嫌悪感を催す。何故なら透明な自分は、物も言えぬまま、延々と母親という他人の化粧の様子を見せ付けられ、「こう着飾るのよ」とでも言うような無言の威圧に晒され続けるからである。基本的に人は他者が化粧している様子を見たくないものだ。化粧とは煽情の仕掛けギミック であり、仕掛けギミック は本来内密にしておくべきものだからだ。顔を引き伸ばしたりしか めたり、滑稽な表情を作りながら身繕いに余念のない母親を見て、娘は女の卑しさを知り、同時に自身もいつかそうして繕って生きていかねばならないことに絶望する。

 そうして「女」は、娘と言う鏡台の前で「母親」に変身した。娘は期待する。「女」としての自意識を化粧の下におおい隠したこの「母親」が、ようやく私を鏡ではなく意思のある他者として扱うのではないかと。しかし母親は満足したかのように、鏡台の前から立ち去ってさっさと出かけてしまう。化粧の見せ甲斐があるのは、家の外にいる男に他ならないのだから────そうして息子は、いつも化粧の下にある「女」ではなく、化粧したことで顕現した「母親」を目にすることになる。それは私欲を知らない、いつも僕を受け入れてくれる、厳しくも優しい聖母である。

 多くの(これまでの)男性は、物心付いた時から見ている「母親」を、まさか化粧した姿だとは考えていない。母はどこまでも母であると思っている。しかし女性にとって、「女」の顔と「母親」の顔は同一のものではない、どこかでスイッチングする仮面ペルソナ だ。そのグロテスクさを、同性である娘は否応がなしに見せつけられ、自身もまた同類の生物であることに恐怖する。

エゴン・シーレ《死せる母Ⅰ》(1910)
太母グレートマザー の両義的な側面がよく描き出されている一枚だと思う。

 毎日毎日鏡として自省と忍耐を強いられる娘にとって、「母殺し」とは成長の一過程においてたった一度のみ経験するイベントではありえない。いくら精神的な自立を計っても際限なく自我同一性を脅かしてくる影を、日々追い返し殺し続けることなのだ。ツイートに「女性の人生は母殺しの物語・・ である」と書いたのは、そういうワケにある。「母殺し」は、通過儀礼と呼ぶにはあまりに長い歳月を要する。それはもっと激しく殺伐としていて、なかなか乾こうとしない生傷から「わたし」が流血し失われ続けることを恐れて、心の刃を振り回し続ける苦行だ。

♪ 我は不幸の子なりけり

 死んでくださいお母さん 死んでくださいお母さん!

────J.A.シーザー『桜暗黒方丈記

 

 

 「エディプス・コンプレックス」や「エーレクトラー・コンプレックス」と称されたフロイトの指摘があるように、同性の親子関係が憎悪とコンプレックスの温床になりやすいことはとうの昔に明らかにされていることだ。すべての女性の人生は母殺しの物語であるのだから、同時にすべての男性の人生は父殺しの物語でもあるだろう。古今東西あらゆる父子、母子の合間に潜在する普遍的な宿命カルマ だ。仕方ない。

 とまァ特にその中でも母と娘の関係について、ここまで個人的な所感を綴ってみたが、以上はあくまで現在20代後半に差し掛かっている私くらいの世代まで(Z世代の手前、Y世代まで)の体感であって、現在はその限りではないともまた思っている。母親が娘を自らの鏡像としてジャッジングする惨劇が全く起こらなくなったワケではないが、しかしそのジャッジングの中に、幸福な家庭、模範的な母親像を獲得すべきだという項目は現代では重要視されないようになりつつあるだろう。かの萩尾望都先生は、デビュー50周年を記念した日本経済新聞によるインタビューの中で、この母親と娘の関係性の変化をこう表現している。

 デビューから半世紀、少年たちの夢を具現化した少年漫画は変わらないのに、少女漫画は変わったと考えている。「かつて少女たちは『行方不明のお母さん』を探していた。でも今は、自分を探している」。

www.nikkei.com

 

 「行方不明のお母さん」とは、娘のの自己同一性アイデンティティ を混乱させる旧来の母親ではなく、当時はまだ稀有だった、娘を息子と同等に扱うような、そして家庭的であることを強制しない新しい母親像と看做すことができる。特に「花の24年組」世代の漫画家たちが描いた少女は、往々にして少年の姿で家出をし、性差の区別なく無条件に自己肯定をしてくれる母親────それは少女たちの新しい生き方を承認してくれる漠然とした母性────を探していたと、私も先述のツイートに連なるツリーの中で書いた

三原順はみだしっ子』より

 しかし、もはやそうして母を殺し家出をする必要は、今の娘たちには殆どない。核家族化が進んでいった中で、母の神聖を崇め、一方でその強大と理不尽を畏れるような母性信仰は消滅した。現代家庭においての母親は、一族を生み育て支える「家庭の守り人」ではなく、「家庭を運営する家族構成員のひとり」でしかない。故に今の娘たちは、家を支える「仲間同士」であるからこそ、母親とフラットで対等な関係を築いているように思われるのだ。

 そうして私は冒頭のツイートの中で、母親を殺さない未来の少女たちの、自立のための殺意の行く末に想像を巡らせたのだった。

 

 

 しかしこれまで人類の歴史の中で延々と繰り返されてきたであろう陰惨な「母殺し」の物語が、現代に至ってついに一件落着を迎えられるのかというと、多分そうでもない。母親はもうひとつ、娘に憎まれうる立派な原因を持っている。それは娘が上述したような母子関係の葛藤コンプレックス の中で、あるいは個人的な経験の中で抱えるようになった自己否定の念が、出生の恨みと呼応する時である

 「きみの父親はきみの母親を抱いたとき、きみの意思を訊ねただろうか。彼はきみにこの今の時代を見たいか、あるいは別の時代まで待つかときみに訊ねただろうか。またきみが愚か者の子に生まれても我慢するか、あるいは立派な人物の子に生まれたいという野心があるのかと。なんたることだ。きみこそが、このことに関わりのある唯一の人間関係だのに、きみだけが意見を聞いてもらえなかった唯一の人間なのだ。」

────シラノ・ド・ベルジュラック『日月両世界旅行記』赤木昭三訳

 

 出生というのは親のエゴイズムの結果であり、出生した当人(赤ん坊)の自由意志は介されない。故に何らかの理由によって自らの出生を呪うようになった子は、その苦しみが発生した諸悪の根源である母親を憎むことになる。「貴方が私を母胎で生成しなければ今この不幸も存在しなかったのだ」という言い分だ。ちなみにこれに対して「しかし生まれなければ幸福もまた存在しない」という反論が成り立たないことについては、デイヴィッド・ベネターが自著『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』の中で図式をもって説明しているので、ここでは割愛しておく。息子よりも娘の方が、元来母親と複雑な関係にあるからこそ、この憎悪は煮詰まりやすい傾向にあるように思う。

 家族の形が、世の中における女性の立ち位置がどう変化しようと、娘にとっての母親はいつかはくび らねばならない亡霊であることに変わりはないのではないか。「母殺し」とはその発端の内実はさておき、いつか必ず向き合い殉じることになる人類の教理ドグマ なのではないか。母親を憎まずして、一体何を憎むのだろうと、常々疑問に思う。何かを憎みきらずして、どうやって魂の呼吸をするというのだろう。

 母を殺せ。この愚かな「わたし」をこの愚かな世に生んだ罪深き人を。哀れな人を。

 さもなくば、そうでなくとも生きられる方法を後世の若い人たちにどうにかして教わりたいと、ここ最近思っている。

 

「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」

────川上未映子『夏物語』

第15書簡「呪われたハロウィン」

 本日10月31日は、ハロウィン祭 Halloween である

 もとは古代アイルランドケルト人の祝祭であったハロウィンは、アメリカでは19世紀にアイルランド人やスコットランド人が移住して以来民間行事として定着したが、すでに現代においては宗教的意味合いを失っている。それはこの祭りを無礼講のコスプレイベントとして受容した日本においても例外ではない。渋谷を筆頭にした繁華街で湧き起こる騒動は、治安維持という側面から見れば確かに問題視されるべきものだが、社会人類学的な観点から見ると、頭ごなしに非難する気にもなれないなァ等と最近何となく思ったりする。

 かつてクロード・レヴィ=ストロースは、「冷たい社会」と「熱い社会」という比喩表現を用いて、未開社会と近代社会を比較した。私はこの概念をレヴィ=ストロース本人の著作ではなく、浅田彰の『構造と力』から孫引き的に知ったのではあるが、「冷たい社会」とは変化を拒む硬直した原始的社会を、「熱い社会」とは絶えず発展してゆく加速主義的な文明社会を指しているらしい。

 「冷たい社会」と「熱い社会」では、安寧秩序を破壊しかねない人間の原始的衝動(これは「呪われた部分」と形容されているが)を、それぞれの方法で対処しようとする。

 「冷たい社会」では、非日常ハレ としての「祭り」を周期的に行うことで解消を試みる。そこでは多少の乱暴だったり性的な逸脱であったり、常軌を逸した放蕩が許されている。今尚残る様々な祭りのルーツを辿っていくと異様グロテスク な実態が見えてくることがよくあるのは、それがかつて日常生活 の鬱積の「ガス抜き」として機能していたからだ。

 一方の「熱い社会」では、鬱憤を解消するのではなく、それさえ飲み込んで社会変革のエネルギーへと変換していく。我々の欲望は飽くことを知らない。それはつまり、我々を突き動かす「呪われた部分」────原始的欲求は、文明発展を煽り立てる永久機関となりうるということでもある。

 こうした説明を受けた時、近年のハロウィンが従来の子供向けイベントではなく大人の大規模な乱痴気騒ぎへと転じた背景に、ふたつの要素を見出すことができる。ひとつは、ハロウィン騒乱に乗じる者たちが「冷たい社会」的価値観に従属しているかもしれない、という可能性だ。彼らの世界は閉鎖的で、変わらない構造と規則に律されている。「渋谷で騒ぐ若者に東京在住者は殆どいない」と、いつかどこかで聞かされたことがある。

 ふたつめは、「熱い社会」であるはずの現代社会が、彼らにとって「冷たい社会」的なそれだと見做されている可能性である。我々の社会は今現在も進行形で前進し続けているはずであるが、それが彼らには殆ど停滞したものだと捉えられている。科学の進歩を、経済の発展を、生産の加速を────未来への期待を、目を輝かせて語る人が今の時代、この国にどれほどいるだろう。

 そこまで考えてみると、昨今の「日本的ハロウィン」は、閉塞感漂う現代の若者によって自主的に編み出されていった「ガス抜き」の浅知恵なのかもしれない、という気がして来るのだ。彼らは恒常的に公序良俗を脅かすわけでも、社会や国家を転覆するワケでもない。たった1日2日羽目を外してみるだけだ。意図せずして巻き込まれた方は堪ったものではないが、我々の理性的でない部分を処理する冷却システムなる「祭り」として考えれば、まだ随分と良心的(?)な範疇に留まっているのではないかと思わなくもない。勿論このような屁理屈を押し通し「ハロウィン騒ぎは肯定すべきだ」と主張するワケではないが(繰り返すが秩序維持の側面から見れば規制せざるをえないのである)、ただここで私が言いたかったのは、「日本的ハロウィン」が全くもって社会的な意味を成していないと嘲笑する態度に対しては懐疑的な立場を取りたい、ということだ。

 全き道徳倫理に則った安全かつ健全な祭りこそ執り行われるべきだというのなら、それは「祭り」を全く誤解している。それは「祭り」の歴史を、社会的意義を理解していない人の短慮にすぎない。

 

 

 

 ハロウィンは本来アイルランドの祭りであった、ということは冒頭で書いた通りだ。その祝祭の名を「サーウィン Samhainと言う。

それはケルト人たちの宗教的リーダーであった「ドルイド」僧の下、執り行われた。

 古代ケルト人の1年の終わりは、現在の10月31日に相当していた。新年は11月1日から始まったワケだ。実りある季節の終焉を「年末」とし、暗く厳しい冬の幕開けを「年始」としていたケルトこよみ は、真冬の最中に突然年が繰り越されてしまう現在のグレゴリオ暦よりも非常に自然で、体感的に分かりやすいと個人的には感じている。ケルト人たちは11月1日の「正月」に、夏の収穫に感謝し、余剰生産物を分かち合い、篝火かがりび の周りで踊り明かした。このサーウィンの祭りの前日10月31日に行われた前夜祭こそ、現在の「ハロウィン」の原型であるとされている。

 1年を光(夏)と闇(冬)に分けて捉えていたケルトの人々にとって、大晦日は光と闇が交わる片時であった。そしてそれは、現世うつしよ 幽世かくりよ の境界が曖昧になる時をも意味した。先祖の霊が帰ってくるというのは日本の「盆」にも似た宗教観ではあるが、ケルトの世界ではこの祖霊と一緒になって、良からぬ有象無象の悪霊までもやって来ると考えられていた。そのためケルト人は、祖霊をもてなすと同時に、悪霊に大人しく家から出て行ってもらうために食事を用意したという。これが後に、いたずら小僧たちに菓子をやって家から追い払う「トリック・オア・トリート Trick or Treat」の風習に繋がっていったのだが、もうひとつ悪霊対策として人々が行ったのが「仮装」であった。

死を運ぶ首無しの騎士「デュラハン」も、アイルランドで信じられていた悪しき精霊のひとつである。
ワシントン・アーウィング『スリーピーホロウの伝説』より、アーサー・I・ケラーの挿絵(1906)

 当時の仮装は、顔を黒く塗ったりヴェールで覆い、身体には白装束やわら を纏ったようなものが多かったという。これは勿論幽霊をイメージしてのことで、理由は様々言われているのだが、その内の一つに「悪霊退散のため」というものがあった。先祖の霊と共に俗界に紛れ込んだ悪い「シー Aos síアイルランド圏における精霊。女性型は「バンシー」)」は、人々に災いをもたらし、子供を黄泉の世界へ攫って行ってしまうとされた。ケルト人は悪しきシーのような恰好をすることで、シーを脅かし、あるいは同族であるように見せかけて、身を守ろうとしたのだ。

 彼らにとってハロウィンで仮装するということは、決してポジティブなコスプレ衣装を着ることではなかった。それは自然崇拝の中で生きたケルト人たちの、死者に対する鎧────ネガティブな防具を纏うことであった。

 

 

 

 だが一方で、死者に対してポジティブな仮装をする祭りも健在している。毎年11月1日と2日、メキシコを中心としたヒスパニック諸国で祝われる「死者の日 The Day of the Dead」だ。

「死者の日」に先祖へ捧げられる祭壇は色鮮やかに飾り付けられる。
Wikipediaより引用

 もともと古くからアステカの先住民たちの間では、夏に祖霊の来訪を迎える盆の習慣があったらしい。が、16世紀にスペイン人が入植して、聖人や殉教者を記念する「諸聖人の日(毎年11月1日に執り行われる。「万聖節とも)」というカトリックの祝祭が持ち込まれる。この「諸聖人の日」が、メキシコ土着の盆と融合して成立した祭りが「死者の日」だ。

 日付が近いためハロウィンの関連行事だと誤解されがちだが、ハロウィンがもともとアイルランドの土着信仰ドルイド教の行事であったのに対して、死者の日はアステカの伝統とカトリック教会が交雑した結果である。ルーツとなる信仰が全く違うことには留意したい。キリスト教側から見てみれば、ハロウィンは元は「邪教の祭り」であり、死者の日は「異教を吸収した結果」なのである。

 

 

 

 「死者の日」の華やかさは、日本の慎ましやかな盆の風景とは真逆のものだ。

 家々や墓地や公園は色とりどりの切紙に綾取られ、食べ物や蝋燭を捧げた豪奢な祭壇オフレンダ が据え置かれる。祖霊を家族の下へ導く道標になるとされているセンパスチル cempasúchil ────通称マリーゴールドの橙の花が街中を埋め尽くすが如く飾られ、そこに無数の頭蓋骨カラベラ が添えられる。人々は顔を髑髏しゃれこうべ のようにペイントし、思い思いの華美な衣装に身を包み、踊り、食べ呑み、家族と団欒の時を過ごし、故人を偲ぶ。

仮装の一例。これはまだシンプルな方。
Wikipediaより引用

 こうした仮装の背景には、メソアメリカの達観した死生観が関係している。アステカの時代からこの地では、死とは永遠に続く生の一部にすぎず、より幸福な次の時代に転生するための必要なステップと見做されていた。彼らにとって死とは忌むべき不吉なものではなく、嘆くものでも恐れるものでもない。誰にしも平等に、どこにでも現れる普遍的な事象でしかない。

 メキシコの街を歩くと、ポップな髑髏のオブジェや女神像サンタ・ムエルテと呼ばれる。スペイン語で「死の聖母」の意)が数多売られていることに驚くことだろう。髑髏というモチーフがカジュアルに日常に取り入れられているのは、それが死の象徴シンボル だからであり、そして住民が死に対して否定的な感情を抱いていない証左である。

メキシコの「魔女市場」ことソノラ市場で撮った写真(2018)
招き猫やカーリー(?)と一緒に骸骨頭のサンタ・ムエルテ像も陳列されていることから、これが不吉な死神などではなく、御利益をもたらしてくれる神だと見做されていることが分かる。

 「死者の日」における髑髏に扮した仮装も、喪に服すためでも、隣人を脅かすための悪戯でもないのだ。それは帰って来た死者を迎え入れ、共に楽しく一時を過ごすための、ポジティブな正装であった。元来のハロウィンにおけるネガティブな鎧としての仮装とは、あまりに対照的ではないだろうか

 

 

 

 この生者が死者のような姿に扮し、死者と時空を共有して踊ろうとする「死者の日」の光景にこそ、私は実写版「死の舞踏」の景色を見たのだった。

 その昔、中世末期の西洋社会では「死の舞踏」と呼ばれる絵画様式が流行していた。

ミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』(1493)

 黒死病ペスト による死者や百年戦争による犠牲者が後を絶たなかった当時、それは「死を想えメメント・モリ Memento mori」の表象としてあちこちの教会や墓地に掲げられていた。何故「舞踏」なのかと言えば、当時あまりに卑近すぎる死に恐怖した人々が半狂乱になり失神するまで踊り続けたという集団ヒステリーが実際に起っていたそうで、その狂騒がイメージの源流になっているからだという。

 「死の舞踏」では、屍体や骸骨が踊りながら生者を死の国へといざな っている様子が描かれる。そこでは教皇や皇帝から狂人まで、あらゆる人間が死者に等しく手を引かれている。いくら現世で巨万の富を得ようが神に届かんばかりの地位を築こうが、死を前には何も意味をなさないという「すべては虚しいヴァニタス Vanitas」の寓意だ。困惑し、抵抗し、泣き叫んでいる生者の姿が多数描かれていることから、当時の西洋人にとって死者の来訪はネガティブな恐れるべきものであり、その骨張った手はできれば取りたくないものだったであろうことは容易に想像できる。

ハンス・ホルバイン『死の舞踏』

 だが一方メキシコの「死者の日」においては、人々は「死の舞踏」の如く死者に無理矢理踊らされてはいない。むしろ死者と踊るために、古代のアイルランドの人々とは対照的な意図を持って黄泉の国の姿に扮し、亡き者たちの再来を心待ちにしている。ここでは積極的に手を差し伸べているのは死者ではなく、生者の方なのである

 私はこれこそ、メキシコの死生観こそ、本当の意味での「死を想えメメント・モリ」だという気がしてならない。そもそも西洋社会においてさえ、「死を想えメメント・モリ」という慣用句フレーズ が栄枯盛衰的な訓戒と虚無主義ニヒリズム のニュアンスを持つようになったのは、黒死病ペスト 猖獗しょうけつ を極めていた中世以降の話だ。この警句はもともと、キリスト教が浸透する以前の古代ローマの時代から使われていたものだった。そしてその時の意味するところとは、「いつか死ぬのだから今を楽しめ」というものだったのだ。

 死を拒絶せず、むしろ死者と一緒になって生を謳歌するメソアメリカの祝祭こそ、今尚残る最も原義的な「死を想えメメント・モリ」の核心だと思われてならない。そして元来祝祭とはまさに斯くが如く、「熱い社会」の搾取よって有耶無耶にされ続けてきた生の衝動を最も開放できる稀有な機会であるはずなのだ。「祭り」の荒くれた熱気を否定する者は、死についてまるで深く考えた試しのない、しかし生を無自覚に否定している者であろう。その生は暗く冷たい鉄格子の中、黙することこそが理性だと取り違えたまま終わりを迎えるだろう。

 理性なき・・・・ハロウィン騒動とは、我々の無意識の暗部から再び蘇った、現代の生の讃歌である。その衝動は「呪われた」ものであるに違いない。しかしかのシオランは、かつて「人間は、自分が呪われた存在だということをたやすく忘れてしまう。世の始まりからして、呪われているせいである」と看破した。人間そのものがハナから祝福された存在でないのだ。ならば別段、我々の「呪われた部分」を特別憎み抑圧する必要などどこにもあるまい。ただ死者と手を取り合って、今この瞬間の生を高笑いするのみである。今日だけは。

 

「飲みかつ食べよう、明日には死ぬのだから」

────旧約聖書イザヤ書』22章13節

 

第14書簡「トリップ・オン・ミー」

 自己理解を提唱するノウハウ本、性格診断や適性分析、SNSに投稿されるあけすけな内心吐露への共感、自分探しの旅……。

 「自分」という暗部をどうにか言語によって定義し、さもしい類型パターン の何れかへ分類し、それが確かに形を持って存在するものだと信じて白日の下に引きずり出そうとする試みが、日々ほうぼうで行われている。それは確かにヒトが自己意識を獲得する重要なプロセスではあるだろうし、世間でも成長過程における一種の通過儀礼だと見做されている。私自身も、かつてはそんな「自分探し」に躍起になっていたひとりだ。その幼稚で不毛な足掻きの有様は、過去の第9書簡「無個性の欺瞞」第13書簡「不良の美学」などで告白した通りである。

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 自分と他者の間にどう個人の境界線バウンダリー を引くかは、個々のガイドラインに則っている。例えば、

 「とても明るい性格をしている『陽キャ』に対して、私は暗い『陰キャ』だ」

 「人前で巧みに話す『コミュ強』に対して、私は口下手な『コミュ障』だ」

 という具合に。「陰キャ」で「コミュ障」という例を出したのは何を隠そう、私自身がかつて自らをそう評価していたからだが、そうした既成の属性を利用して自分を説明しきろうという怠惰も含めて、そんなものは何の意味もなさないとここ数年考えるようになった。

 それは「自らを卑下したところで何の糧にもならないのだから、ではどうするかという生産的なことを考えるべきだ」というような殊勝な理屈ではない。そもそも卑下という判定ジャッジ の対象になりうる「自分」なんて、殆ど存在しないようなものだと思うようになったからだ。

 

 

 

 きっかけは鬱の経験だった。往々にして「気分の問題」と見做されてしまう鬱病ではあるが、患者の身に起こっているのはセロトニンオキシントンノルアドレナリン等の減少やコルチゾール等の増加であり、つまりは副腎皮質ホルモンが適切に分泌されていないと言うことだ。鬱を克服するためには、この内分泌の調節に異常を来たしている視床下部をどうにかせんとイカンのであって、それは気の持ちよう次第で何とかなるモンではない……ということは、ここまで読まれた方なら容易に解していただけることだと思う。

 従って鬱病患者には、再吸収を阻害することで神経細胞間のセロトニンノルアドレナリンの量を増やしたりSSRI、それらの放出を促進させる(NaSSA)薬がしばしば処方される。文章で読んでもワケワカメな御仁は下記Wikipediaの図解を参照されたし。

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 しかし、だ。これは逆に言えば、副腎皮質ホルモンが常時バランス良く分泌されていれば、永遠に抑鬱状態になんかならないということでもある。如何に悲惨で重大で解決困難な悩みを抱えていようが、例え地獄の底にいようが、アドレナリンだのドーパミンだのが脳内に湯水の如く湧き出ていれば、我々はそこを愉快な楽天パライゾ だと錯覚することができる。興奮性の神経伝達物質の投与ひとつで、内気な「陰キャ」も無口な「コミュ障」も、溌剌ハツラツ とした饒舌家へと一変する。

 「自分」なぞ所詮、視床下部の身勝手に振り回されている操り人形パペット にすぎない。生命活動を続ける困難さに首をくく られかけていた私は、それまでの苦痛との戦いはただの徒労であり、全くもって解決の糸口になっていなかったという虚しさの前に放り出された。そして同時に、そこに救いをも見た。

 自身を理解するために性格だの行動傾向だのを言語化してみようとする試みは、全くもって無意味だ。そんなものは、化学物質ひとつでいくらでも矯正できるからだ

 

 

 

 ふざけるのが苦手で、言いたいことも言えず、新しい取り組みには尻込みしてばかり────どうやら自分は心のブレーキが過剰なタイプらしい(←こういう分析が無駄なんである)と当時の私は自分自身のことを決めてかかっていたのだが、ならば化学物質を用いてそのストッパーを人為的に外せば宜しい。私は酒を呑むようになった。

 酒に含まれる酒精エチルアルコール は、ドラッグにカウントされる化学物質だが、日本では合法とされている「合法的な薬物リーガル・ドラッグ 」だ。一応補足しておくが、ドラッグとは非合法的イリーガル な化学物質だけを指す言葉ではない。中枢神経に働きかける化学物質を医療ではなく嗜好目的で用いた時、それは「ドラッグ」と呼ばれる。勿論世界にはアフガニスタンイラクなど、エチルアルコールを「非合法的な薬物イリーガル・ドラッグ 」としている国も存在するのはご存知の通り。

 「酒が人間を駄目にするのではない。(酒は)人間は元々駄目だということを教えてくれるものだ

 とは落語家・立川談志の言葉だそうだが(本当か?)エチルアルコールは中脳辺縁系などに働きかけてドーパミンを放出させ、集中力の低下を招いたり気を大きくさせてしまう作用がある。結果、理性のたが が外れて、余計なことを口にしたり粗相を働いてしまう。「心のブレーキ」なんてちゃちな妄想は、エチルアルコールの圧倒的な暴力の前にたちまち破壊される。

「ある種の夜を経験した後では、人は名前を変えてしかるべきだ。なぜなら、ともあれ人はもう同じ人間ではないのだから。」

────E・M・シオラン 『悪しき造物主』 金井裕訳

 

 私のヤケクソな考えは、中島らもの『アマニタ・パンセリナ』を読んで更に血肉を得ることになる。これは著者自らが体験したり見聞きしたドラッグについて綴った、相当「ラリパッパな」エッセイなのだが、その中に記されたあるエピソードが、当時の私には随分と刺さったのだった。

 中島らもは黒猫と白兎を飼っていたが、2匹は仲が良く、猫は兎が傍に来るといつもペロペロと舐めてやるような気の優しい奴だった。ある日中島は、自宅に居候している仲間たちと画策して、この黒猫に砕いた睡眠薬を飲ませてみる。猫はフラついて腰を抜かし、中島はそれを面白おかしく笑ってその日は眠りに就いたのだが、事件は翌朝に起こる。居間に兎の首が1個、転がっていたのだ。傍で舌なめずりをしている猫を見て、何が起こったのかが理解できた。猫は、親友の兎の首から下までを、一晩の内にすっかり食べ尽くしてしまったのである。中島は、

睡眠薬は、脳の表皮の後天的にたくわえられた情報をこそげ取ってしまう」

「僕は今までにたくさんのラリ公を見てきたが、例外なくこの現象は起こる。(中略)人間が意志の力の下におおい隠しているものの膨大さに唖然とする」

 と記している。本書では「睡眠薬」としか書かれていないため、猫にどのような化学物質が作用したかは不明だが、行動脱抑制(感情的で衝動的な行為が抑制できなくなること)らしき顛末が起こっているから、ハルシオンデパスソラナックスサイレースなどに代表されるようなベンゾジアゼピン系の向精神薬を飲まされたのではないかと想像する。ベンゾジアゼピンは本来GABA(γ-アミノ酪酸。血圧を下げたりストレスを和らげる神経伝達物質の作用を強め、不安を和らげ眠りに落ちやすくする効果があるが、一方で攻撃的で暴力的になるという奇異反応を引き起こすこともある。

 猫を例にヒトを語るのも何だが、「後天的にたくわえられた情報」────意志という防波堤、良識というブレーキなど、化学物質を前にすればいとも簡単に取り払われてしまうということだ。

 

 

 しかし以上を「アブナイ」思い出話として読まれていたら、それは私の意図するところではない。ここで書いているのは、中枢神経に作用する物質について関心を持つようになった、その経緯にすぎない。化学物質を頭から「アブナイ」ものと決めてかかって否定したら、様々な食品は勿論、珈琲も茶も飲めないことになる。

 大体、覚醒剤だって────正確に言うとアンフェタミンメタンフェタミンは現在の日本では違法だが、それは1951年に覚せい剤取締法が制定されてからの話であって、戦前は戦闘機の搭乗員を中心に使用され、戦後もしばらく公然と一般流通していたというのは有名すぎる史実だ。長谷川町子の漫画『サザエさん』や『似たもの一家』にも、しばしばメタンフェタミンの錠剤である「ヒロポン」が登場する。アンフェタミンメタンフェタミンドーパミン濃度を向上させて神経の興奮を起こすので、摂取すると眠気や疲れが綺麗サッパリ消えてしまう(ように錯覚する)

疲労」が「ポン」と治るからヒロポンというのは俗説で、本当の由来はギリシア語「philopons:仕事を愛する」らしい。

 

 

 1960年代、アメリカに登場したヒッピーたちは「ラブ&ピース」のスローガンの下、ドラッグを自己実現の手段として用い、そして失敗した。私はそれから50年も経ってから、独力で彼らと瓜二つな発想に辿り着き、同じ穴の狢と化していた。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは鉄血宰相、オットー・ビスマルクの言葉だったろうか。

 しかし私は別段、ドラッグをいたずらに持ち上げ、そこに特権性や信仰を見出していたのではなかった。ただ「自分」という虚像なぞ化学物質ひとつでいくらでも変幻するものであり、その人格に作用する化学物質を摂取する手段は、合法的リーガル なものもあれば非合法的イリーガル なものもある、ということに思い当たっただけである。

 例えば市販の咳止め薬には大抵コデインが入っているが、コデインは別名をメチルモルヒネと言い、麻薬及び向精神薬取締法において麻薬と指定されているモルヒネと極めて近い化学構造と薬理作用を持っている。モルヒネよりも作用は弱いが、大量摂取するなら話は別になってくる。咳止め薬の乱用者がいるのは、それが「合法的リーガル に有効な化学物質を摂取する手段」だからだ。

我が家の咳止め薬と風邪薬。
多幸感を錯覚させるコデインや覚醒効果のあるメチルエフェドリンといった成分が配合されている。

 だがコデインを一定量摂取するに、咳止め薬はコスパが悪すぎる。依存性と増強していく副作用も懸念される。よって私は咳止め薬を乱用しない。得られる薬効や費用対効果、副作用や社会的制裁のリスクを天秤に掛け、その結果摂取したりしなかったりする……ドラッグとはただそれだけのモノである。合法だから100%安全なんて有り得ないし、違法ならできれば手を出さない方が良い。奇異反応・・・・ を起こしていない人なら、法的罰則を受けるリスクについては充分熟考できるはずだ。そうして考えた上で、合法だろうが違法だろうがやはり個人にとって摂取する価値があると判断したならば、あとは自己責任である。

 ただついでに付け加えておくなれば、私はドラッグの摂取を無暗に推奨しない一方で、十把一絡げに「アブナイ」とされているものたちの正体をきちんを把握しておいた方が良い、とは思っている。自分の身を本当に守るのは、無知による脊髄反射的な嫌悪感や恐怖ではなく、確かな知識に他ならないからだ。

 一言に「ドラッグ」と言ってもその効果は千差万別なワケで、どのような種類があるのか、人体にどう作用し、時に如何なる悪影響を及ぼすのかという基礎情報は、危険を察知したり、市販薬や処方箋を正しく使うために知っておいて損はないはずだ。私は青山正明の『危ない薬』やデータハウスから出ていた『危ない1号』のドラッグ特集、ステュディオ・パラボリカから出ていた『2マイナス』のドラッグ特集などをかつて入門書としていた。もののついでに紹介しておく。

 

 

 自分という虚像への期待を一度全部破壊せねばならない、と躍起になっていた。しかしジャンキーは皆、いつか気が付くことになる。ドラッグは新世界への切符ではない、新世界を刹那夢見させてくれるだけの、その内掻き消える煙霧のようなとばり にすぎないということに。

 第13書簡「不良の美学」で綴ったように、かつて貧しい労働者の息子であったテディ・ボーイやモッズたちは、自身を蔑ろにする社会に中指を立てるが如く、アンフェタミンを食らって一晩中踊り明かし、存在意義レゾンデートル を見出していた。しかし彼らはいつかうらぶれた路地に消えていった。アンフェタミンは、彼らに永遠の居場所を与えなかったからだ。先述したヒッピーも然りだ。彼らは愛と自由を求めて原始共産制にも似た理想郷ユートピア を目指したが、LSD大麻マリファナ マジックマッシュルームも、理想郷ユートピア の門を開ける黄金の鍵にはなってくれなかった。彼らは一度捨てた都会へと、ふたたび帰って行った。

 魔法がいつか解けるのはお約束事だ。解けた後に残ったのは、かつて自らの意志で突き放したはずの、しかしそのせいで未だ何の形も成していない、自己意識の残滓だけである。自分という暗部に考えあぐねてトリップ・オン 、自己を超越しようとドラッグに手を出してトリップ も、結局最後に、未だ何の救いも得られない自分という存在であるにつまずいてトリップ・オン転ぶ。

 頭の中にジョイントの紫煙の如く、『ラスベガスをやっつけろ』のラウルの独白が浮かんだ。

 

「現代を生き抜くトリップ に60年代のスピードはない。ティモシー・リアリーの教えには欠陥がある。彼は意識の拡大を説いて回ったが、彼を信じた人々を襲う現実を考えなかった。

 平和と理解をドラッグで買えると信じた哀れな信者たち。彼らの喪失と失敗は我々のものである。

 リアリーは、自身が創造した幻の世界と共に消えた。誤って彼を信じた者たちも同じだ。

 彼らはドラッグ文化の本質的な誤りに気づかず、トンネルの向こうで誰かが光を与えてくれるという、絶望的な希望と共に生きていた。」

(田辺佳子訳)

 

第13書簡「不良の美学」

 高校生の頃、同級生らとコピーバンドを組んでいた。目の周りを真っ黒に塗り潰して、髪を逆立てて、マイクに噛みついて狂犬病患者のように喚いていた。

 反抗的パンク であることに憧れていた。窓硝子を割ったこともない、バイクを盗んだこともない、家出する気概も万引きをする勇気も、喧嘩をする度胸もシンナーを吸う覚悟もなかった気弱な青二ガキ の、唯一「ワル」ぶれる手段がバンドをやることだった。『理由なき反抗』なんてできなかった。反抗するための理由が私には必要だった。両親が寝静まってから、家族で共有していたオンボロのノートパソコンを隠れ開いて、アレックス・コックスの『シド・アンド・ナンシー 』や石井聰亙の『爆裂都市 BURST CITY』なんかを、目を輝かせながら観ていた。陰気で冴えない自分も、ステージの上でなら、世界一の不良になれる気がしていた。

 ある時、他校のバンドと「対バン」することになり、私はいつも以上に身嗜み・・・ に気合いを入れて、地元のライブハウスに乗り込んだ。銀鋲スタッズ 鎖紐チェーン で身を包んだ私に対して、ラフに制服を気崩しただけの他校の生徒たちに、何だか拍子抜けしたのを覚えている。

 しかし、確かライブの後だった────そんな気負わないナリをしていた彼らが、楽屋の前で煙草を吸っている光景にバッタリ出くわしたのだった。動揺しなかった、と言えば嘘になる。確かに映画の中の青少年たちは何の躊躇いもなく煙草を咥えていたけれど、それを実際に目にしたのは初めてだったからだ。

 灰皿を取り囲む彼らに一言二言、何か話しかけられたのだと思う。私は意気がった恰好をしているのにその輪に混ざらないのが急に恥ずかしくなって、持って来るのを忘れたと嘘をついて、煙草を1本分けてもらった。さっきまでステージで叫んで暴れていた興奮は、その時にはすっかり冷めてしまっていた。私が煙草をぎこちなくふかすことしかできなかったことに、彼らは気が付いていただろう。初めて吸った煙草は、あまりに、あまりに苦かった。

「この世を燃やしたって、一番ダメな自分は残るぜ!」

────大槻ケンヂ『踊るダメ人間』

 

 

 当時の愛読雑誌は『KERA!』と『SHOXX』で、紙面で輝いているモデルやバンドマンたちの、世間に迎合することを真正面から拒絶するような在り方に強い憧れを抱いてはいたけれど、真似できたのはせいぜい服装くらいで、髑髏がプリントされたジャケットや黒光りするレザー パンツを脱げば、そこに残るのはただの根暗な「イイ子ちゃん」だった。ある意味、パンクらしかったと言えばらしかったかもしれない。パンクという言葉が音楽ジャンルを指していない時、それは「悪ぶってるけど弱い奴」というような蔑称を意味する。

 パンクファッションやゴシックファッションに傾倒し、心理的挫折を経験した過去については、すでに 第九書簡「無個性の欺瞞」で綴っているのでそちらを参照いただきたいが、未だにこんな年齢になっても私が派手な格好を辞められないのは、それを最もやりたかった時期に思う存分できなかったからだろう、と自嘲することがある。それはまるで、青春時代に「モテ」なかったコンプレックスを燻らせて、いつまでも若い女性の尻を追いかけている中年男性のように。若い時に望む不良になれないと、私のように永遠に滑稽な「不良ごっこ」をし続けることになる。

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 反抗的パンク であることへの漠然とした憧憬がサブカルチャー全般への具体的な興味へと転じたのは大学生になってからだが、ようやく自身を臆病な大人として認めざるを得ないという心境に至りかけたその頃、私の目の前には再び「不良」という大きな存在が立ちはだかるようになる。不良とは、体制や慣習という権威に対して反発している(と見做されている)人のことだ。サブカルチャーとは、主流メイン から逸脱したり、零れ落ちた文化のことだ。つまりサブカルチャーとは時に不良が作った文化であり、不良の美学を学ばなければ、サブカルチャーの系譜や精神性まで理解できないことが往々にして起こりうるのだった。

 例として、こんな話を持ち出してみよう。

「1980年代の日本の不良のリーゼントヘアは、1950年代のイギリスの不良の髪型だった」

 この一文を読んで驚かない人は、相当な音楽好きか、あるいはその昔相当な「ワル」だった人だ。

 「氣志團」といったロックバンドや『ビー・パップ・ハイスクール』といった漫画作品によって、未だ多くの人に「ヤンキー」の髪型として連想されるリーゼントヘア。「リーゼント」とは和製英語で、あのボリュームのある前髪は正確には「クイッフ」「ポンパドール」、撫でつけた後頭部は「ダックテイル」なんて言うのだけれど、日本で不良の髪型と周知されるより30年も前、このヘアスタイルはイギリスですでに「不良の髪型」として確立していた。

 1950年代にリーゼント────敢えてそう呼ぼう────をキメたイギリスの不良たちを、「テディ・ボーイズ Teddy boysと言う。

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 1940年代後半。二次大戦の戦場から帰ってきた士官たちに向けて、サヴィル・ロウ Savile Row(ロンドンの高級紳士服の店が集まっている通り。日本の「背広」の語源は、この「サヴィル」が訛ったものだとする者もあるが俗説らしいテーラーたちは、新しいスーツスタイルを考案した。丈が長いドレープジャケット、ブロケードシルクで仕立てられたベスト、ハイウエストでツープリーツの細身のパンツ……ファッションリーダーとして名を馳せていたエドワード7世(在位:1901~1910)の時代をオマージュした、古風クラシカル 優雅エレガント な「ニュースタイル」だった。

 が、これはテーラーたちの予想に反して全くウケなかった。価格が高すぎたのだ。かくして売れ残ったスーツは格下の店舗に廉価で並ぶ。これに手を伸ばしたのが、新しい刺激に飢えていた、貧しい労働者の若者たちであった。

80年代のネオ・ロカビリーの文脈で登場したバンド「Teencats」のレコードジャケット。
50年代のテディ・ボーイズのファッションをオマージュしている。

 

 彼らは上流階級の象徴であった3ピーススーツに身を包み、ポケットに剃刀を忍ばせ、映画館や路上で暴動を起こした。エディ・コクランやビル・ヘイリーなど、遠くのアメリカで興っていたロリカビリーやロックンロールに憧れ、その魅惑の8ビートに乗ってクラブで踊り狂った。そしてロックの帝王、エルヴィス・プレスリーの強い影響を受け、彼のヘアスタイルを真似て、髪をポマードで撫でつけリーゼントスタイルに固めたのだった。エドワード7世の愛称が「テディ」だったので、このリーゼントヘアに身分不相応なスーツを着こなした不良たちは、次第に「テディ・ボーイズ(略称:テッズ)」と呼ばれるようになる。

 

 ジョージ・コックス GEORGE COX 「ブローセル・クリーパーズ brothel creepersを好んで履いたのもテディ・ボーイズたちだった。日本では「ラバーソール」と呼ばれている、チェック柄の爪先とボリューミーな形状フォルム が特徴的なあの靴だ。それまで靴底までレザー だった革靴と比べて、ブローセル・クリーパーズは世界で初めて靴底にゴムを採用し、足音が圧倒的に響きにくかった。だから何ともブラックな、ブリティッシュ・ジョークの効いた名称────「売春宿を這う者ブローセル・クリーパーズ 」と呼ばれ、そして不良少年であるテディ・ボーイズたちがバレずに悪事を働くために、この奇抜な新種の靴を履いたのだった。上述のレコードジャケットでも、右の3人はブローセル・クリーパーズを履いているのが見て取れる。

 今ではパンクスの履物というイメージが強いブローセル・クリーパーズだが、それは50年代以降一度廃れたテディ・ボーイズが70年代に「ネオ・テディボーイズ(ネオテッズ)としてリバイバルして、当時のパンクスたちと混合したからだ。かのマルコム・マクラーレンヴィヴィアン・ウエストウッドのブティック「レット・イット・ロック Let it Rock」にも、商品としてブローセル・クリーパーズが並んでいたが、それは元はパンクスたちではなく、初期の顧客のメイン層であったネオ・テディボーイズに向けて売っていたものだった。

 

 

 テディ・ボーイズの説明が長くなったが、これが何故80年代の日本の「ヤンキー」に繋がっていくのか?

 今でこそ目新しくも何ともない光景だが、

 ● 若者たちが自らを「ティーンズ」として大人と区別し、

 ● 服装や趣味指向という記号を共有することで仲間意識を育み、

 ● 独自のカルチャームーブメントに乗じる

 という在り方は、このテディ・ボーイズが初めて行ったことであった。それは貧富も階級も関係なく、「趣味がイカした奴」が認められるという、革命的な世界の誕生だった。テディ・ボーイズは、まさに「若者のサブカルチャー」の元祖とも言っても良い。この偉大なる始祖から、様々なサブカルチャーが枝分かれしていく。

 50年代も後半になるとテディ・ボーイズは、「タンナップボーイズ Ton-up boys」を経て、よりアメリカ文化に強い影響を受けた革ジャンにリーゼント頭のロッカーズ Rockersと、彼らへのアンチテーゼとして発生した「モッズ Modsに枝分かれしていく。このロッカーズとモッズの生態については、青春映画の金字塔『さらば青春の光』が詳しいのでそちらを参照いただきたいが、ここで重要なのが、このロッカーズやモッズの登場によって不良文化とバイク文化が融合していることだ。スーツが汚れるのを嫌厭してスクーターに乗っていたモッズは、その後バイク文化と決別し「スキンヘッズ Skinheads」や「ヒッピー Hippie」などに分裂していくが、オートバイに乗っていたロッカーズは、バイカー文化へと直結していった。

 話題は日本に移る。テディ・ボーイズがロンドンの路上で徒党を組んでいた1950年代、日本は高度経済成長期を迎え、当時まだ高価であったオートバイを騒音と共に乗り回す「カミナリ族」が出現していた。時代が下りオートバイが安価になるにつれて、彼らは低年齢化、非行化し、70年代には今現在「暴走族」として知られている姿かたちになってゆくワケだが、そんな日本の若いバイク乗りたちがスタイルの参考にしたのが他でもない、一足先の60年代にアメリカやイギリスで成立していた若いバイカースタイル、「ロッカーズ」の姿だった。「レザーボーイズ Leather boys」という別称は伊達ではない、レザー パンツに革ジャンを着けたロッカーズたちの髪型は、勿論リーゼントヘア。日本でバイクを乗り回す若者は、こぞってこの新鮮なヘアスタイルの真似をした。そうしてリーゼントヘアは日本の不良の髪型になっていった……というワケ。

 

 

 

 不良を学ぶと、サブカルチャーが見えて来る、とつくづく思う。不良たちが何に反抗し、何を「カッコイイ」ことだとしたのか────彼らの「美学」が、音楽にファッションに当時の流行ブーム に社会情勢、一見てんでバラバラに見える諸要素をひと繋ぎに見通す鍵になりうることがある。

 民族色の強いフォークロア 服に長髪、フォークソング幻覚剤サイケデリック・ドラッグ 反戦運動と自然回帰主義─……これらは「ヒッピー」というキーワードを通すと理解しやすくなる。

 サーファーファッションに茶髪、テクノやトランス、携帯電話の普及とそれに伴う援助交際や麻薬取引のアングラ化……これらは「ギャル」の存在を持ち出すことで連続性を見出しやすくなるだろう。

 最近で言うなれば、「地雷系」や「量産系」と言われるコーディネート、ホストやアイドルに入れ込む「推し」文化、SNSの台頭による精神疾患パパ活のポップ化、長らく続く経済不振────これらを「トー横キッズ」等に代表される、繁華街におけるストリートチルドレンの生態を理解することで分析できるのではないか、なんてと考えている。勿論、近年はインターネットの普及によって不良も多様化、細分化しているので、かつてのテディ・ボーイズのように安易に一括りにできるものだとは思っていないけれど。

 

 

 

 嗚呼、ここに来てまた私の前に立ちはだかる不良という特権!

 一度振り切ったはずの「ワル」への憧憬が、胸の内で再び発火スパーク する。『下妻物語』のラスト(※小説版)のように白百合イチゴの後ろに掴まって、『狂い咲きサンダーロード』のジンさんの後ろでも構わない、バイクでどこまでもかっ飛ばして、夏の影法師のように付き纏う暗い青春を振り払えたら!

 勿論そんな日は永遠に来ない。私は今日もパソコンの青白いライトを浴びながら、サブカルチャーとは何であるか、なんて頭でっかちなことばかり書き殴っている。本質的にそうであれなかった者に、不良の美学など語る資格もないというのに。

 調べ物をした先には、いつも不良の背中があった。それはバイクの後部座席に飛び乗って、ついぞしがみつけなかった背中だった。

 キーボードを打つ手を止めて、Peace Lightに火を付ける。喫煙者になった今でも、時々、煙草の苦さにふと俯きたくなることがある。

 

第12書簡「貧しさと洗練」

 日本は貧しくなったという。

 フムなるほど、と俗な価値観で卑近な駄菓子を思い浮かべてみる。永らくずっとお札型のイメージだったキットカットは、そういやハンケチのような正方形型に似てきた気がするし、雪見だいふくは気が付けば昔の半分ほどのサイズになっていた。値段は変わらないのに内容量が減っている────支払った金額に対してのリターンが年々目減りしているということなんだろう。

  最近酒屋に行くたび、「すいません、値上げしまして」と申し訳なさげに声を掛けられる。あァまたウヰスキーが値上がりしたと、軽い財布をぎゅっと握りしめる。穀物の不作、戦争による物流ストップ、要因は色々あるだろうが、海外の富裕層による買占めも相当大きいと聞く。日本の良い樽が、続々と海外に流出している。結果、もともと生産地ではなかったのに関わらず世界に名を響かせるようになった旨いジャパニーズウヰスキーを、日本人は今、気軽に吞むことができない。

 そういえば煙草も毎年狂ったように値上がりするし……これは関係ないか……。

 上海に行った時も、香港に行った時も、ムンバイに行った時もバンコクに行った時も、昼を喰らい夜闇を切り裂くような、都会の未来感に立ち眩みがした。自分が30年も昔からタイムスリップしてきた人間であるかのように錯覚した。日本の東京は、もはやアジアの「懐かしい場所」になりつつあるのだな、と思った。

ヴィクトリアピークから撮影した「香港100万ドルの夜景」(2018)。

 大体、上記↑のシンフォニー・オブ・ライツの光景を「100万ドルの夜景」と称するのだって、その昔(当時のレートで)月に100万ドルも電気代がかかるという意味で煌びやかな夜景をそう表現したことに由来するが、もともとは六甲山から見下ろした神戸の、つまり日本の夜景を形容する言葉だったのだ。

 でもまァ、独り立ちしてからと言うものずっとその日暮らしをしてきた私にとっては、やれ国の経済がどうだ国民の生活がどうだと言われても、浮草デラシネ のような生活が今後も続くことは変わりないので、何だかすべて別世界の時事を聞いているような錯覚に陥る。金がないならないなりに、金があればあるなりに暮らすだけで、やりたいこともやれることもきっとそこまで変わらない。これまでの無頓着な人生が、現にそうであった。

 ただそんな私でも唯一、「貧しさ」を感じることがある。私たちの感性のそれである。

 

 

 

 根っから出不精な自身の関心事は、もっぱら部屋の居心地を改善することに向きがちだ。人見廣介ひとみひろすけ としてパノラマ島という広大な理想郷を作るより、デ・ゼッサントとして密室の人工楽園を作る方が余程我が使命であると心得る。

 しかし悲しいかな、我々日本人には土地スペース がない。メルカトル図法の歪みを直せば日本列島は案外デカイということに気が付くが、土地の面積=住める土地ではない、という残酷な現実がある。

意外とデカイ、日本。(https://bit.ly/3JjBoxj)

 例えばイギリスやドイツは日本より国土は小さいが、可住地は日本の約2倍もあるという。日本は国土の大半を山地や森林に侵食されているので、私たちは残った3割にも満たないわずかな可住地を取り合って生きるしかない。当然、家々はひしめき並び、住居は狭く陰鬱になる。こんな住宅状況でどうしてカバラや秘教哲学、神秘思想の装幀本から象徴主義ロマン主義銅版画エッチング 蝕刻凹板アクアチント まで、錬鉄製の寝台からナイトテーブル代わりの祈祷台まで置けるというのだろう!

 ここで金にものを言わせて広大な土地に移住する、などという建設的で現実的な選択肢はない。こちとら伊達に怠惰には生きていない。怠惰こそ芸術と高貴な美徳の母だ、とかのポール・ラファルグも『怠ける権利』の中で言っている。委縮した脳髄が、「ものぐさに、しかして同時に病的で神経質な拘りを強行せよ」と謳う。結果私は、「狭い居住空間で如何に創意工夫をするか」というみじめったらしい足掻きに着手し始める。

一切合財怠けよう、恋するときと、飲むときと、怠けるときをのぞいては。

───レッシング

 YouTubeで部屋の紹介動画を見漁ってみる。何畳一間で如何に自己演出をするか、というけなげ努力に、しみじみと日本人の宿命を感じて涙ぐむ。しかしそこに置かれるのは大抵、無地のベッド、合板のローテーブル、DIYの小棚に、そして空間に対してあまりに似つかわしくないバカでかいテレビ。私はパソコンの前で万歳と両手を上げる。

 私はそこに2mの本棚ふたつと、巨大な両袖机を収める方法が知りたいのだ!

 どうやら「オシャレ」と文化資本は、彼らの中では両立しなければならないものではないようだ。

 

 

 優秀なAIのお陰で、YouTubeのオススメ欄はどんどん「良き生活のためのハウツー」へとカスタマイズされていく。なるほど目指すべきは「ていねいな暮らし」というものらしい。生活に根源的な意義を感じ、家事にささやかな充足感を見出すその姿勢には、修道士のような敬虔ささえ感じて、自堕落から抜け出せない自身にとっては尊敬以外の言葉が見つからない。

 背伸びをしたり見栄を張ることなく、ありのままの生活に誠実に向き合うライフスタイル。もはや一種の自然主義だなと感心しながらYouTube画面をスクロールしてふと気が付くのは、並んだ動画のサムネイルがどれもこれも画一的であることだった。部屋の色合いも、インテリアも、投稿者が心がけていると語るポイントも、何となく全部同じに見える。人の生活の在り方は、人それぞれ違うはずなのだけど。

ミレー《パンを焼く女》
バルビゾン派のミレーでさえパンを焼く様を「自然的」として描いたのだから、「ていねいな暮らし」で自然派を志す人々がパンを自作し始める理由もよく分かる。

 

 空間やインテリアのデザインには、「インダストリアル」だとか「ホテルライク」だとか、「北欧風」だとか「モダン」だとか色々あるけれど、「ていねいな暮らし」はもしかするとここに並ぶジャンルなのだろうか、と思った。そして「ていねいな暮らし」というのは、所作を丁寧にして暮らすことを言うのではなく、「丁寧とされている所作」をこなす暮らしなのかもしれない、とも思った。彼らが目指すのは、自分の生活を実直に見つめ直し再構築することではなく、「ていねいな暮らし」という名前のファッションスタイルに準ずることなのかもしれない。

 そのジャンルの中では、自然派であること、ミニマリストであることがしばしば「洗練」として持て囃される。なるほど確かに生活を見つめ直せば、自分にとって不要な無駄も見えてくるだろう。そうして断捨離を繰り返して、最後に何が残されるかというと、やっぱり装飾性の欠けたベッドとローテーブル、小棚とバカでかいテレビ(時にバカでかいプロジェクター)だけの生活空間なのだった。人にとって必要なもの、不要なものは、それぞれ違うはずなのだけれど。

「ていねいな暮らし」では自然派であることがしばしば重要視され、それはアナログな手仕事や挿花や観葉植物の設置、装飾性の排除、化学嫌悪という形で現れる。(写真はイメージ)

 

 

 そして私は初めてここに、日本の貧しさというものを見たのだった。洗練されていることと、文化と知性を欠いていることが別物だということに、私たちは気が付けないのだ

 洗練とはあらゆる試行実験の結果、自然に余剰が削ぎ落とされてゆくことを言うと認識している。しかしその削ぎ落すべき「余剰」とは決して、物が多いことや装飾過多であることと同義ではないはずだ。

 例えば普段あまり本を読む機会がない人なら、意味もなく場所を占領するだけの本棚を部屋に置く必要はないだろうが、熱心な読書家は勿論、そうではなくとも私のように動画を作ったり文章を書くためにそれなりの蔵書が必要な人間は、そこそこの大きさの本棚と書籍の数がなければ日常に支障が出る。その瀟洒な背表紙が並んでいるワケでも、小洒落たオブジェをバランス良く配置したワケでもない、実用性しかない本棚のある風景なぞは、「ていねいな暮らし」の目指す「洗練」とはかけ離れたものとして扱われるのだろう。「ていねいな暮らし」は、打ちっぱなしのコンクリートやウッドカラーの壁に囲まれた、物の少ない空間にしか存在しないのだろうか。(勿論、本棚にアレもコレも無造作に突っ込んでどこに何が入っているか定期的に分からなくなる私が「ていねいな暮らし」をしているなどとは口が裂けても言うつもりはない)

 「オシャレは我慢」とよく言う。プロポーションを維持するためには欲のまま食べてはいけないし、細いウエストのためにはコルセットの苦しさにも、長い脚のためにはヒールの靴擦れにも耐えねばならない……というような、オシャレには自己犠牲が要されるという言い回しだ。

 ならば「ていねいな暮らし」というオシャレには、文化資本の犠牲が要されるのかもしれない

↑1年前の本棚。今はもっと「オシャレ」とはかけ離れた有様になっている。youtu.be

 

 

 ミニマリズムは物量を減らすのみならず、視界の情報を減らす努力にまで及ぶ。

 「ていねいな暮らし」系動画の中で頻繁に目にするのが、「ユニクロ」と「無印良品」という企業名だ。私がまだ幼い頃は、ユニクロは「デザインを施さない代わりに価格を抑えた安かろう悪かろうな服」というイメージだったし、無印良品も「ブランドによるデザイン性はないけれど使用に耐えるもの」を扱っている印象だった。実際、ユニクロ無印良品で商品を購入したことは、あまり口外するようなものではなかった。安物を買ったことをわざわざひけらかす人はいないだろう。安く買えたことを自慢する人はいるけども……大阪のオバチャンとか。

 しかし今や、ユニクロ無印良品は、「チェーン」から「ブランド」へと変身を遂げた。これは企業努力と言う他ない。両者とも、「その商品を用いた生活スタイル」まで演出することで、商品価値の付与とイメージの向上というブランディングに成功した。

 形状や色遣いを見る限り、両者の商品は決して「洗練」されているとは言い難い。正直、野暮ったい印象を受けることの方が多い。しかし、あの気兼ねなく使えるシンプルなデザインは多くの人に好まれるであろうし、シンプルなデザインが好きなことも何ら悪いことではない。ただ私がひとつだけどうしても首肯できないのは、「ていねいな暮らし」の中で、それらが「洗練」されたものとして扱われている感性だ。

 ここに私は、もうひとつの「貧しさ」を見た。私たちは「シンプル」なものと「洗練」されたものの見分けがつかない。 シンプルであることと殺風景であることを、混同しているのだ

 もののついでにもうひとつ企業名を出してしまえば、Appleにも似たようなにおいを感じることがある。私はAppleユーザーではないので大きな口は叩けないが、蚊帳の外から見る限り、洗練の極みのような美しい製品もある一方で、ただ地味なだけの製品もあるように思われるのが実情だ。しかしその区別が我々にはできない。私たちができるのは「Appleの商品を用いた生活スタイル」という漠然としたブランド演出を盲信することだけだ。勿論、デザインに関係なく利便性の面からデバイスApple製品で統一している人の是非は、また別の話。

 

 

 

 色は黒か銀、柄は曲線的で有機的な植物紋様、拷問のように締め上げられ、夏の腐りかけの果実のように爛熟した、優雅で邪悪な、教会の祭壇に据えられるような聖性と、苦行僧の鞭のような厳しさを併せ持つものが好ましい────自身がそんな過剰装飾なものが好きだからこそ、色々屁理屈を言いたくなるのだろう。

 しかし悪趣味だと知りながらも今尚そうした嗜好でいるのは、私は装飾を削ぎ落とし自然体であることが「洗練」のすべてだとはどうしても思えないからだ。先ほど「洗練とはあらゆる試行実験の結果、自然に余剰が削ぎ落とされてゆくこと」だと書いたが、例え装飾過多であろうと、無骨で野暮だった装飾が、熟考され直した末に美しく雅やかな装飾に進化することもまた「洗練」と呼べる。

 余剰過剰をただ機械的に削ぎ落としていった先にあるのは、「デザインがもたらす精神的豊かさ」の喪失だけではないか?

 

 

 

 「昔はどんな小皿にも1輪の花が描き付けてあった」というのは、かの美輪明宏氏の発言だったと記憶している。手元にある『天声美語』を読み返してみたが、どうも本書の記述ではないらしい……出典が曖昧なので話半分に読んでいただきたいのだが、まァつまりは戦後の貧しく物資のない時代でも、皿に花一輪を描き付けるような情緒を我々は忘れなかった、というようなニュアンスだ。如何に劣悪な生活環境の中の粗悪な皿であろうと、花一輪描くだけで心が華やぐことを私たちは知っていた、と言い換えても良い。

 そういう貧しい中の心の豊かさを考えた時、目に見えるノイズを片っ端から排除していくような「ていねいな暮らし」流「洗練」の在り方に、言いようのないわびしさを感じたりもした。手仕事の喜びを思い出せ、とはかつて19世紀末イギリスでアーツ&クラフツを牽引したウィリアム・モリスも主張していたことだが、「ていねいな暮らし」にあるのはクラフツの部分だけで、アーツの部分がどうにもすっぽり抜け落ちているように思う。のちにアールヌーヴォーに引き継がれてゆくアーツ&クラフツの精神性や装飾性は、次のモダンの時代に突入した途端「金を食うだけの俗悪なデザイン」と批判されるようになるが、心華やぐ創造に金をかけないで、一体何に金を使うというのだろう。

 その問いに、歴史はすでに答えを出している。モダンが浪費に敏感だったのは、何を隠そう、その時代に戦争が起こっていたからである。

ウィリアム・モリスと彼がデザインした壁紙

 「丁寧とされている所作」を労働者の如くこなすだけで、その他の余剰を一切排する生活を、洗練された「清貧」と呼ぶことはどうしてもできない。それは自らの魂で感じ入る余裕がないだけの「貧しさ」ではないか。そこにある人の心は、戦時のそれと大差ないのではないか。

 

 

 

 金がなくても工夫次第で心は豊かになる、などと綺麗事を言うつもりはない。まず金がなければ、豊かさを楽しむための心の余裕も生まれない。しかし一方で金を得たところで、豊かな感性がなければ、どうせくだらないことに浪費して終わることもまた事実だろう。

 日本は貧しくなったという。でも経済が回復したところで、懐に転がり込んだ小銭を、本当に心理的な豊かさのために有効活用できるだろうか。私たちの金銭的な貧しさは、私たちが持ちうる感性の身の丈に、案外合ってるのかもしれない。なるほどここが沈みゆく国ならば、「ていねいな暮らし」を試みるのも悪くないだろう、とふと思った。それはちょうど、落城の前に自刃する王のように。

第11書簡「老舗喫茶ランデヴー」

 初めて「老舗喫茶」という空間に足を運んだのは、高校生の頃だったと思う。

 当時の私は低俗凡庸な日常風景を嫌悪し、梶井基次郎の『檸檬』の主人公の如く、連日街をそぞろ歩きしていた。その精神的苦痛に満ちた逃避行の顛末は前回の記事で書いた通りだが、そんなアテもない徘徊の最中に、ある店に出逢った。

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 それは商店街を脇に逸れた、細い路地にぽつねんとあった。

 店内は和洋の骨董アンティー で所狭しと埋め尽くされ、硝子戸の箪笥キャビネット やスタンド洋灯ランプ の合間、帆船模型やセルロイド人形が見下ろす先に、これまた大層な年代物である椅子と机が据えられていた。壁中に掛けられた古時計が、定時でもないのに鐘を鳴らしていた。珈琲を頼むと、必ずフランク・ロイド・ライトがデザインした「インペリアル カップ&ソーサー」に淹れられて出てきた。

 制服姿で入るには、そこは少し敷居が高い場所ではあった。ましてや「コミュ障」だった自身にとって、店員と客の距離の近い空間でくつろぐことはなかなか難しく、どれだけ隅の席に座っても、丸めることのできない背筋にずっと緊張がわだかまっていた。

 それでも日常に心休まる居場所を見出せなかった私にとって、そこは生まれて初めて、飢えた感性の空腹を満たせる空間だった。1杯500円の珈琲は、アルバイトもしていなかった当時の私にとっては決して安くはなかったけれど、少ない小遣いを工面して、私はそこに何度も何度も足を運んだ。

 レジの奥の壁に、「百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」と素朴な字で書かれた色紙が掛けられていたのを、今でも覚えている。それが寺山修司が書いたものだったと知るのは、もう少し後になってからだ。

数年前にその喫茶店で撮って貰った写真。今も帰郷するたびに立ち寄っている。

 

 店の名前は、2021年のロフトプラスワンWestトークショーではお話したが、ここでは一先ず出さないでおく。ちょうど高校時に愛読していた嶽本野ばらも、大昔その喫茶店に通っていたことがあったらしい。つまりは名前を明かさずとも、多分、似たような魂の持ち主ならば、いつかはきっと辿り着く場所なのだろうと思っている。

 

 

 

 その喫茶店との出会いをきっかけに私は、いくら没趣味で醜悪な現実に辟易しようと、美しい喫茶店は束の間の心の平穏を与えてくれるのだ、ということを覚えた。

 年を重ねてのちに酒を嗜むようにもなったが、呑み屋が人生の精算場なら、さしずめ喫茶店は人生の借入先と言えるだろう。呑み屋では、酒精アルコールであたためられた呼気と共に日々の鬱屈を吐き出して、グラスの結露に見えない涙を溶かす。そうして琥珀色の酒で洗い流して空っぽになった魂の器に、今度は喫茶店珈琲色のブラックな活力を注いでやる。

「嗚呼こんな俗悪な世界で、いよいよ生きてゆかれない!」

 そう心が悲鳴を上げるたび、古い喫茶店に駆け込んでは人生を借り入れる。人々の物語が沁み込んだ茶けた壁にもたれ掛かって、くらい珈琲を幼稚な感傷で見つめる時間が、今世への絶望を幾何か癒す。

 時折、そのカップの中に、とぷんと入水自殺する夢を見る。

1983年創業、池袋「皇琲亭」にて。
タイから帰国したばかりの頃の写真。タイの煙草を吸っている。

 

 

 そんなワケで、良い喫茶店との出逢いは、良い金貸しとの出逢いと同じ意味合いを持つ

 新しい街に出掛けるたびに、私は「○○(町名)+老舗喫茶」の文言で検索をかける。そうして出てきた店を、ひとつひとつGoogleマップのリストに登録して、時に数軒ハシゴしながら少しずつ制覇していくことを、もう何年も続けている。これまでに訪れた喫茶店をまとめてみると、そこそこの厚みがある本が出来そうだ。

 それはちょうど、あちらで借りられなくなった人生を今度はこちらで借り入れているようなものだ。ますます膨らむ生き恥という名の利子を始末しようと、多重債務をくり返して、気づけば借金地獄ならぬ借「生」地獄に陥っている。それは、生きることは骨が折れるが、死ぬことはもっと骨が折れるので、成仏できるまでは兎にも角にもまだまだ生きるしかないという地獄である。けれどまァ、普段からYouTube上で自身の生誕を「堕獄」と呼称しているように、この世はハナから地獄じゃわい、というのが私の見解であるから、これ以上地獄極まっても大した問題ではない。

 

 借金を返すために借金をするというのは、かの内田百閒大先生の偉大な教えでもある。貧者が金貸しを股に掛けるのなら、魂の窮民は老舗喫茶を渡り歩く。私が推奨する多重債務法の良いところは、金を借りれば間貫一はざまかんいち(『金色夜叉』に登場する高利貸し)が冷酷に追いかけて来るけれども、喫茶店で精力を借りても、何者にも追い立てられることがない点だ。せいぜい「嗚呼、今日も生きてしまった……」という自己陶酔ナルシシズムに胸を痛めてみる(フリをする)のがオチである。

 誰も彼も「金がない」とはよくボヤくが、「俗世の煩わしさに感性の泉が枯れ果てている!」と、そんなおセンチな嘆きも時にはしてみるべきじゃあないでしょうか。

 

 「老舗喫茶」に必ず求めるワケではないけれど、あると嬉しいという、必要条件ではない十分条件のようなものがある。

 まずは30年以上の歴史があること。肌感覚にすぎないが、90年代以降にできた喫茶店と、80年代以前にできた喫茶店では、何となく風格に違いがあるように感じている。特に「名曲喫茶」や「ジャズ喫茶」と銘打たれた喫茶店は、それが必要とされていた時代────まだ音楽がどこでも気軽に聴けなかった時代に開業したものが多いから、あまりハズレがない。勿論歴史があるからといって、代替わりしていたり、店内が改装されていたりして、趣がすっかり変わっていることもしばしばだけれど。

1970年創業、京都左京区のジャズ喫茶「ヤマトヤ」にて。
2013年にリニューアルしたため店内は小綺麗だが、レコードの所蔵を見ればその歴史は一望できる。

 

 次に店内にシノワズリ趣味の調度品または磁器があること。あまりクラシカルな店作りをしていない喫茶店にはないが、そしてそんな店も勿論好きなのだが(「古い」というより「ボロい」喫茶店にもそれはそれで矜持がある)、カウンター奥に磁器コレクションを並べているような店ならば中国趣味は欠かせない。主観的な経験にすぎないが、いくらカップ&ソーサーに拘っていても、西洋モノしか置いていないところは、上辺だけレトロに小洒落ただけの店が多いような気がしている。外見だけでなく歴史の重みをも脈々と継いでいる店には、何故だかどこかに必ず、シノワズリ趣味が覗いている。

1987年創業、千住宿「珈琲物語」にて。
ここは粋な有田焼のソーサーが出て来る。

 

 あとは煙草が吸えるかどうか。自身が喫煙者である以上に、古色蒼然とした店内で燐寸マッチを擦って、リンの残り香の中で紫煙を燻らせる────その一連の動作とポーズが、私にとって、歪んだ魂を整えるための準備運動のようなものだからだ。それは隠者が瞑想に入る前に決まって行う所作に似る。立ちのぼる細い煙を微睡まどろんだ目で追う時、その中にすうっと、どす黒く煮凝ったルサンチマンが溶けて消えていく様子を錯覚することがある。

 昨今は米国の影響か日本でも禁煙運動が盛んで、時にヒステリーを疑うほどの拒絶反応を目撃することもあるが、それは「文化」は「健全」なものであるに違いなく、「健全」と「健康」は同義であり、「健康」であるためには「無害」を心がけねばならない、と思い違いを重ねた人の主張クレームだと感じる。勿論そのような言説も否定はしないし、喫煙者がマナーやルールに従って喫煙すべきなのは当たり前の話だが、一方で喫煙可能の喫茶店では喫煙可能なのだから喫煙する……それくらいは流石にお見逃しいただきたい。

 それをとやかく言われても、寿司屋に来て「何故魚の臭いがするのか!」と怒鳴り散らされているような矛盾を感じる。

1974年創業、沖縄那覇「イシャラー」にて。
喧噪を離れた別世界である老舗喫茶では、ささくれた精神もその内凪いでしまう。

 

 

 老舗喫茶を巡る利点は、実はもうひとつある。それは茶店を探して街歩きができる、いうことだ。知らない街に降り立った時は、先述の通り必ず「○○(町名)+老舗喫茶」で検索をかけ未踏の喫茶店に向かうのだけれども、それまでの道中もなかなかロマンチックな刺激になることが多い。

 ちなみに誤解のないよう先に書いておくが、あくまでこれは精神メンタルの健康の話をしているので悪しからず。間違っても「ウォーキングができて良い」などと頭の悪い身体フィジカルの健康の話をしているのではない。

 かつては日本の街並みを心底軽蔑していた私も、例の耽美の師匠のお陰で、荒涼とした日常風景の中に隠れた美の地下水脈を見出すことができるようになり第十書簡「我が師匠──或る耽美主義者の面影」参照)、何でもない光景はこれから何かを見つけ書き付けるためのまっさらな白地図であると思えるようになった。そしてその地図には、老舗喫茶という名のオアシスが、すでに、確かに点々と記されているのである。

 無風流なコンクリート砂漠に、雑然とした都会のジャングルに、静かにクラシックの流れる、べっこう色の老舗喫茶がシンと佇んでいる様子を想像して欲しい。社会の野蛮なイザコザにいくら揉まれようと、自身にはいつでも立ち返って魂を労わることのできる喫茶店がある────その安心感、至福は筆舌に尽くしがたい。

 初めて降り立った街を楽しむためには、ただ一軒、貴方が優雅な心持ちになれる喫茶店を探すだけで良いのだ。知らないことに大金を叩いたり、安い遊びしか詰まっていない商業施設に彷徨う必要は微塵もない。浪漫ちっくな喫茶店で束の間、茶を啜り、実りあるひと時を過ごすだけで、未知の土地は愛する既知の街になる。

 

 

 

 もう大層な大人になったというのに、未だに幼児の意地っ張りの如く、スターバックスドトールタリーズといったチェーン店には頑なに行かないでいるコメダは粋と気概を感じるのでちょっと好き)。別段それらを嫌悪しているワケではなく、自分は自分の好きな空間にできる限り金銭を落としたい、という単純シンプルな理由からだ。

 消費行動は文化の支援に他ならない。チェーン店ばかり使っていれば、街はコピー&ペーストしたような店舗でその内埋め尽くされるようになるだろうし、老舗喫茶を大いに利用していれば、都会の幻惑のオアシスは永遠に滅びることはないだろう。文化とは一朝一夕で出来るものではないはずだ。人々が毎日繰り返す僅かな、小さな取捨選択が少しずつ少しずつ蓄積して、徐々に大きな潮流ブームとなってゆくのだ。たった一日「これくらいは」と諦めた怠惰な選択さえ、未来の社会の在り方を確実に方向付けている。

 稀にどうしても老舗喫茶が見つからなくて、原稿作業したさにチェーン系の喫茶店で妥協することがある。すると効率の前に己の美学を穢した自身がどんどん情けなく恥ずかしく恨めしくなってゆき、3日は精神のどん底を彷徨うことになる。

 これをただの意固地だと笑う人もいるかもしれない。しかしそれは、文化の欠片もない粗末な日常に押し込まれ続ける息苦しさを、世俗の煩わしさが日々魂を堕落させてゆく虚しさを、美への切望と生きる切実さを知らない人だろう。

 私にとってチェーン店で妥協することは、野蛮草昧な現実に屈することと同義なのである。

1962年創業、恵比寿「喫茶 銀座」にて。
店が高貴である必要はない。求めるのは、そこに居て自身が高貴な気分になれることだ。

 

 

 また一方で、「日々触れているものが少しずつ自分を形作っていく」とも思っている。この「外部要因から自分を整形していく」思考については、自身の苦い経験をもとに第九書簡「無個性の欺瞞」に書いているので是非参照いただきたいが、「どう在るか」という内的なものから発露する言動以上に、「どういうものに囲まれているか」という外的な諸要素が、案外人間を形作るものだと私は思っている。

 粗野な生活空間に埋もれていれば、何となく冴えない風貌になっていくだろうし、豊かな文化に触れていれば、どことなく潤った雰囲気が纏わっていくものだ。オーラと言い換えても良いが、そうしたスピリチュアル臭のする感覚的でしかない話以前に、些細な所作に、ほんのわずかな言葉遣いに、人の奥ゆかしさは覗いてくる。

 それは決してお上品であるか否かという話ではない。品は良いが脳味噌は空っぽな空気人形のような人もいるし、品はなくても見識と機智で輝かんばかりのディオゲネスのような人もいる。その違いを説明していると貴方の珈琲がすっかり冷めてしまうだろうからここでは割愛しておくが、老舗喫茶通いは、どんな人でも手軽に摂取できる美しい「外部要因」だと思っている。

 自身の生活空間を思い通りに演出しようとすると、スペースの問題、金銭の問題、ライフスタイルの問題……様々な障害が立ちふさがる。しかし老舗喫茶は、誰もが行くことができて、束の間、優雅な気分に浸ることのできるサロンだ。その豊かな時間を持つ人と持たない人では、形成される人格もまた異なってゆくのではないだろうか。

dilettantegenet.hatenablog.com

 

 老舗喫茶で愛する誰かと逢引きランデヴーするためではなく、愛する老舗喫茶と相まみえるランデヴーするために、今日も老舗喫茶を渡り歩く。

 そもそもフランス語由来のランデヴー rendez-vousという単語は、動詞 rendre(行く)の命令形 rendez(行け)と、人称代名詞 vous(貴方)が合体して rendez-vous と名詞化したものだ。情熱の美しい出逢いを果たすためには、いつ何時も自身で文化的な取捨選択をして、自身の脚で赴かねばならない。

 それは全くもって難しいことではない。私達はすでに、老舗喫茶という最も手軽で最も美しい選択肢を、このカップ&ソーサーの中に持っている。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》(1877)

 

第十書簡「我が師匠──或る耽美主義者の面影」

 これは今から約10年ほど前の話だ。

 

 まだ10代だった私は、無味乾燥な日常にうんざりして、心安らぐ箱庭欲しさに夢遊病者のように街を徘徊する日々を送っていた。どこを歩いても、ルートヴィヒ2世の狂気のノイシュヴァンシュタイン城は現れないし、デ・ゼッサントの美と退廃のヴンダーカンマーは見つからない。ヴェルレーヌは詩作と堕落の旅に攫ってくれないし、美少年ジルベールにも美少女メリーベルにも出会えない。退屈で発狂しそうなのに、流薔園(中井英夫が描いたサナトリウムからの招待は永遠に来ない。

 「日本の街並みは世界で一番醜い」と言ったのは、果たして誰だったか。

 コピー&ペーストしたようなビルと住宅の羅列。バグ増殖したような無数の看板。文化と完全に断絶された、まるで安い書き割りのような没趣味な街で、私は感性の飢えに耐えかねていた。そうした日本の猥雑な都市風景が、むしろ『ブレードランナー』を初めとするサイバーパンク作品のビジュアルイメージに多大な影響を与えたと知るのはもう少し後になってからだ。梶井基次郎の『檸檬』に多大に感化されていた私は、こんな低俗で薄っぺらい街なんか爆破してやると、空想の檸檬片手に毎日苛立っていた。

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさ えつけていた。」

────梶井基次郎檸檬

 

 

 

 どこを歩いても真に感性に訴え掛けてくるようなものがひとつもない苦痛は、際限のない厭世観を呼ぶ。暇さえあれば骨董屋アンティークショップ や古い喫茶店に駆け込んで、何とか心の平穏を保っていた私は、徐々に東京に憧れを抱くようになる。それは地元での色々に行き詰まってしまったせいでもあるが(詳しくは第八書簡「遥かなるかな、故郷」を参照)、一番はアングラ文化に親しんだ影響が大きい。1960年代の学生運動で荒れ狂う東京で、社会や芸術の革命を叫んで息巻いていた、貧しく泥臭い若者たちの姿が、僻地で燻っていた私にとっては途方もなくカッコ良く見えたのだった(当時を大変に美化しすぎたド偏見なのだけれど)dilettantegenet.hatenablog.com

 特に新宿は聖地アジール だった。決して歌舞伎町で遊びたかったワケでも、トー横キッズに憧れたワケでもない。私はそこに、デモ隊と機動隊が衝突した新宿騒乱を、新宿駅西口で開かれたフォークゲリラを、花園神社のテント芝居を、ゴールデン街で安酒片手に喧嘩する文化人の背中を夢見ていた。新宿は日本のカウンターカルチャーの出発点だ。そして今なお玉石混淆の文化が入り乱れ、凄まじい混沌カオス のエネルギーとなって渦巻いている魔窟だ。乗降客数が世界中で最も多い駅も、世界最大のゲイタウンも、新宿にある。愛する寺山修司唐十郎も、滝口修造も、岡本太郎も、若松孝二も、みんな新宿の風月堂で茶を飲んでいた。

 そういえば新宿のそんな独自の文化を考察した、2016年の早稲田大学演劇博物館の「あゝ新宿―スペクタクルとしての都市」という展示はなかなか良かった。60年代の新宿は、血気盛んな才能たちの熱気で爆発せんばかりだったという体感を肌身で感じられる、気鋭の企画だった。

www.waseda.jp

 と新宿語りが少し長くなってしまったが、何はともあれ汽車しか存在しない時代でも田舎育ちでもあるまいに、私の東京への憧れは異常なもので、その内アルバイトで小銭を稼いでは東京に出奔するようになった。深夜バスに揺られ続けた、長い長い夜の暗いあたたかさを、今でも忘れないでいる。

東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京

書けば書くほど恋しくなる

────寺山修司『誰か故郷を想はざる』

 

 

 

 それは、2、3回目かの東京逃避行でのことだった。

 その日はちょうど気になる展示をやっていたというので、京橋のパラボリカ・ビスに向かっていた。このギャラリーは今は閉館してしまったが、雑誌『夜想』等の編集長である今野裕一氏が経営されていて、耽美というか幻想的というか、サブカルチャーと呼ぶにはちょっと高度ハイソ 衒学的ペダンチック な企画をしていた空間で、『夜想』に多大な影響を受けた自身としては一度は行っておかなければと、足を運んだのだった。目当ては1階の展示だったのだが、2階では別の展示の初日を祝うパーティーが開かれていて、どういうワケだか覚えていないが、何故か私もそのパーティーに混ぜていただいたのだった。余程飢えた目をしていたのかもしれない。

 勿論知り合いなどひとりもいない空間だ。誰かに話しかける勇気がなかなか出ずにオドオドと周りを見回していた矢先、窓際に一人で腰かけている人物を見つけた。

 縒れたチューリップハットを被り、ロマンスグレーの髪を肩まで伸ばし、サングラスを掛け膝の破けたパンタロンを履いたその男性は、私の憧れる60年代からそのまま抜け出して来たような姿をしていた。そしてここからが思い返しただけで赤面しそうになる記憶なのだが、私は彼を見て何を思ったか、「この人物こそ今野氏ではないか?」と勘違いしたのだった。お恥ずかしい話だが、当時の私は今野氏の容姿について、「髪が長い50代くらいの男性」ということしか知らなかった。

 「今野さんですか?」と声を掛けた。「え?」という戸惑いの返事があった。

 彼はパーティーの参加者の誰某と知り合いでその場にいたということだったが、その口からは美術と音楽の用語が無限に飛び出すので、私はいたく感動して熱心に聞き入り、自身が求めていたのは卑しい世間話ではなくまさにこういう高尚な会話なのだと、ロクな文化も教養もない生活空間で如何に精神を気高く持ち続けるか、それこそが人生を掛けた問題なのだと……そんなことを偉そうに捲し立てた。

 何て大袈裟な、と貴方は笑うかもしれない。しかし当時の私にとって、美の欠片もない日常で息をし続けることの困難さは、初対面の人に噴火した火山の如く撒き散らしてしまうほどに切実だった。

 彼はマニエリスムの絵画を愛し、美術と数学の共鳴を信じ、ロックとクラシックの間に彷徨う霊的な関係を察知していた。インド煙草のビディをくゆらせながら、極色のモディリアーニのような油絵を描き、自宅を日本で唯一のヨーロッパの美術館にするという計画に燃えていた。彼は「生活におわれている人ばかりで、耽美的な人に出遭えない」「毎日現実に吐き気を催す」というようなことを言って、幼稚な私を高く評価してくれた。すっかり舞い上がってしまった私は、彼を「先生」と呼ぶことを許してもらった。耽美を恋う者として如何に在るべきか、彼を師と仰いだ瞬間だった。

 

 

 

 東京に出奔した時は師匠に会い、会えない時は文通をするという日々が始まった。

 と言っても、対話をしても難易度が高く「ええ」だの「はあ」だの曖昧な相槌しか打てなかったし、離れていても彼の論文(と言う名の詩文)が大量に送られて来て、意気込んで読んではみるものの逆立ちしてもよく分からん、という毎日であった。けれど、ふけ る生活に憧れていた私にとっては、それは春の洪水に飲み込まれるような、夢見た理想の時間だった。

 例として、師匠の教え(?)をここに少し共有してみよう。

 例えば、ベルギー象徴主義の代表するひとりであるジャン・デルヴィル Jean Delvilleは「精神の美」「造形の美」「技術の美」を唱えていたという。しかし師匠に言わせれば、昨今の世の中には「精神の美」を欠いた画家が多すぎる。正しく美しく壊れた絵が描けるのは、やはりデルヴィルに限るという。ちなみにこの「壊れた絵」というのが一体何かと言えば、エラン・ヴィタール(生の躍動)とフラン・ヴィタール(生の制御)のふたつのベクトルが直交して内積ゼロを奏でた時に生まれる絵画である、とのこと。

 師匠は何十年も前にベルギーのブルージュのグルーニング美術館に行き、デルヴィルの《人神》という作品を生で見て、真理の認識の光を学び得たと語った。そして安藤忠雄の「光の教会」はこの《人神》のパクりなのだと看破した。

ジャン・デルヴィル《人神》

 また、ブレヒトデューラーの作品にメランコリア Ⅰ》という銅版画があるが、これは、ヴェルヴェットアンダーグラウンドの『ジ・エンド』のレコードに針を落とした瞬間に立ち現れる光景そのものだという。この《メランコリア Ⅰ》には右上に四次方陣が描かれていて、16の枡目からなる各々の数字の和は34なのだが、これはダンテの《神曲》の地獄編34曲であり、『イザヤ書』の中でリリス(宿命の女の原型でアダムの陰の妻)について書かれた第34章であり、イエス・キリストの死んだ年齢であり、そしてニコが『ジ・エンド』を発表した年齢であるという。ロックとは最初の一音で決まってしまう音楽だが、その一音の瞬間に『ジ・エンド』から《メランコリア Ⅰ》の絵画風景が顕現するのは、まさに《メランコリア Ⅰ》に描かれた天使デーヴァガン 的世界の投影なんである、みたいなことも聞かされた。

アルブレヒト・デューラーメランコリア


 それは何の学説的根拠もない、傲岸不遜な連想ゲームのようなものであった。しかし次々と浮かんでは消えるドラッグの幻覚に身を委ねるように、止めどないイメージの連続に陶酔することで一種のトランス状態に陥ることも可能で、それは耽美なる遊戯の愉悦であった。梶井基次郎の『檸檬』にだって、心地良い錯覚の中に現実の自身を見失うことを楽しむ描写がある。現にそうしたトレーニングを積んだことで、私は荒涼とした日常風景の中に、隠れた美の地下水脈を見出すことが可能になった。その技術は私を、幾何かこの世に生きやすくした。

 

 

 

 師匠はよく「魂の連鎖」という言葉を使った。真に美に生きれば、真に美なるものに呼ばれ導かれる、というようなニュアンスだった。

 ある日、神保町に連れられて共に各々の目当てのものを渉猟していた折、師匠はベルギーのロップス美術館で開催されたことがあるというデルヴィルの大回顧展の画集を探していたのだが、とある古本屋の軒先に、タイミングを見計らったが如くそれが堂々と出ていたのだった。目にした時は、思わず鳥肌が立った。聖書の「求めよさらば与えられん」という文言の発現に立ち会ったくらいの衝撃だった。

 それをただの偶然だと片付けることなら、誰にだってできる。実際、ただの偶然であっただろう。しかし何もかもを偶然と切り捨ててしまう抒情の無さ、感性の枯渇と無縁で居続けることは、誰にでもできることではない。視界に映る無秩序の中から一本の美の鉱脈を見つけ出そうという耽美的努力を24時間365日続けることは、決して平易ではない。そうして浮世の卑しさに吐き気を催しながらも切実な尽力を続けた先に、「魂の連鎖」は起りうる。

 これは別段スピリチュアルの話ではない。もっと卑近な話で説明することができる。例えば何かのアニメキャラクターが好きなAさんがいたとして、本気であればあるほど熱意は自然と周囲にも伝わることだろう。ある時、景品だったりオマケだったりとふとしたことでそのキャラクターグッズを手に入れた人は、(そう言えばAさんがこのキャラクター好きだと言ってたな……今度会った時にあげよう……)と思い付く。そうして、Aさんは一言もそれが欲しいと言いふらしていないのに、ある日突然キャラクターグッズが手に入るというワケだ。

 本当に求めていると、磁石が引かれ合うような出来事が不思議と起こる。この「求めていたものが向こうから来る」という現象は、趣味の世界では割とよくあることだ。逆に言えば、「来ない」時は、裏返せばまだまだ本当に求められていないという証左でもあるかもしれない。

 

 

 

 しかし、耽美主義者の背中に学んだ美しい季節は、1年足らずであっけなく終わりを迎えることとなった。

 師匠がとある小さなギャラリーで個展を開催することになり、私はオープニングセレモニーにご招待いただいた。だが様々な事情で開催時間に間に合わず、花の一本も持って行くことができなかった。師匠はそれに大変失望し、魂の矜持を失ってして見る絵などこの世にはないと、私は破門されてしまったのだった

 これを些細な出来事だと笑う人は、生きる切実さを知らない人だ。野暮な世間に辟易し、それが日々魂を堕落させてゆく虚しさに震え、いかづち に打たれるが如き痛烈な美との邂逅を救いとして待ち望んでしまう────それはこの地球という荒廃した流刑地に誤って生まれてしまったが故の、受難の苦しみだった。私と師匠は少なからずその苦しみを共有したはずだし、そんな中で我々が何かを作品として創り出すということは、美を要求するばかりではなく自らも美を創造できまいかという、自己救済のための必死の足掻きであった。師匠は卑しい肉体ではなく崇高な魂を生存させるためのその死闘に、常に敬意と共に一輪の薔薇を捧げられる精神を忘れてはならないと言ったのだった。そして私はオープニングセレモニーで、その精神を忘れてしまったのだった。

 私に、耽美主義者である資格は、きっとなかったのだろう。

ジャン・デルヴィル《オルフェウスの死》

 

 

 

 古傷が痛むように、今でも師匠の面影をふと思い出すことがある。まるで通り過ぎる嵐のようだったあの交感は、本当に現実だったのだろうかと。タルティーニの『悪魔のトリル』のように、それは私が眠っている間に悪魔から施された美のレッスンだったのではないか、と。しかし私の手元には実際、楽譜を書くようにのたうつ字で綴られた大量の手紙と、詩文と論文を印刷した大量のコピー紙がある。

 10代の後半から20代の前半にかけて、私は人生の方向性を決めてくれた先生と呼ぶべき大人に有難くも何人か出遭うことができた。その内のひとりについてはロフトプラスワンWestのトークショーで以前お話した通りだが、もうひとりは、このたった数か月の間、火花を散らすようにして美術論議を交わしたこの師匠である。そして髪をざんばらに伸ばし常に世に反駁し、ビディの煙の中で狂人のように美の如何なるかを語る師匠を見てきたからこそ、「耽美」という言葉が軽薄に使われる瞬間に今でも敏感になってしまう。

 

 耽美なる情熱の在り方について、師匠は手紙の中でこう綴った。私の精神を随分と支えてくれ、今でも自身の訓戒として持ち続けているこの言葉を、師匠も以下に勝手ながら引用することを許してくれるだろう。

 

「人生とは知識、論理ではなくPassionなのです。Passionには情熱と受難と二つの意味がありますが、情熱が受難に屈した時、人は凡俗な精神の人間じんかん になるのです。

〇〇さん(私の本名)人間にんげん になる冥い情熱を持ち続けることが、ほんとうの知識なのです。」

 

youtu.be

第九書簡「無個性の欺瞞」

 先日、渋谷で開催されていた「半・分解展」に足を運んだ。

 フランス革命から一次大戦頃までの西洋の衣服を、外見のみならず構造からも見ることをテーマに、本物のアンティーク服を実際に触れたり嗅いだり着用して楽しめるという、非常に画期的な展示であった。 このような企画が実現したのも、主催者の長谷川彰良氏が元・テーラーというバックグラウンドを持つ方だからだという。「衣服標本家」を名乗る彼の手によって執拗に分解され展示パネルに貼り付けられた衣服は、さながら部位ごとにバラされた昆虫標本のようで、妙なフェティシズムを漂わせていた。 価値あるアンティーク服をそうして果敢に裁断できるのも、縫い直した実物を着せてもらえるのも、そこに展示してある衣服がすべて長谷川氏の驚異の個人コレクションであるからに他ならない。

 趣味の狂気ここに極まれり────ジャンルは違えど、それは紛うことなき「好事家」の姿であるように思えた。

アメリ南北戦争時の北軍の歩兵服(1860年)。左半身が完全に分解されパネル展示されている。

 

 衣服の「美」を構造から見ていくと、様々な発見がある。 例えば以下の写真は、17世紀末から18世紀にかけての男性服で、現在のスーツの始祖となった「ジュストコール justaucorps」という上着ロングジャケット だ。18世紀に入ると、特にフランス発の盛装用ジュストコールを「アビ・ア・ラ・フランセーズ habit à la française」と呼ぶようになるが、まあ呼称はともかくとして、イメージとしては「モーツァルト肖像画の中で着ているアレ」「『ベルサイユのばら』のアンドレが着ている苔色のアレ」である。

 スーツの始祖と言われている所以は、この頃に初めて男性服が「ジャケット、ベスト、シャツ、タイ」という「スリーピース」スタイルで構成されるようになったから。元は1666年に英国王・チャールズ2世が、衣服に浪費を重ねる貴族たちに対して「お前らちっとは倹約しろ✊😡」と衣服改革宣言を出したことで生まれたスタイルなのだが、国王の意に反してこのジュストコールもやはりどんどん派手になっていき、結局は西洋の男性服の歴史の中で最も華美な正装となってしまった(男性の正装が今のようにシンプルで暗い色で構成されるようになったのは19世紀に入ってからだ)

背面がうまく撮影できなかったため当日走り書きしたメモで失礼……。

 どのくらい贅を尽くした服なのか、例を挙げてみよう。

 例えば上の写真。青丸を付けた背面の裾の部分には左右対称にプリーツが作ってあるのだが、ここに驚くくらい布の分量が割かれている。目立つ部分でもないのだから、こんなに布を折り込まずとも裂目スリット で済ましておけば……とケチくさいことを思ってもしまうのだが、Non non、それは平民の発想。これこそ当時の贅沢らしい。布の価値が今とは比べ物にならないくらい高かった当時、憚りなくたっぷり布を使えることは、富の象徴であった。

アビ・ア・ラ・フランセーズの後ろ身頃

 また上の写真は先程の「ジュストコール」の進化版、「アビ・ア・ラ・フランセーズ」の後ろ身頃だが、背中以外の殆どの部分に女性服顔負けの豪華な模様が散りばめられている。近付いてよく見てみると、腰を抜かしそうになる。何とこの模様、すべて手縫いなんである。 当時のパリには刺繍師たちの工房が数多く構えられ、ロココの伊達男たちの需要に応えたという。お針子たちの涙ぐましい手仕事に、思わず頭が下がる。

 服飾において何が「贅沢」であるかは時代によって変化するが、この目のくらむような豪華絢爛な刺繍、すべて手縫いで仕上げられた衣服は、もはや失われた贅沢だと思った。着られる特権、着飾る悦楽────プレタポルテの量産によって失われたファッションの叙情と浪漫に、束の間思いを馳せたりした。

 

 

 

 さて、「半・分解展」の話が長くなってしまったが、上記で触れた衣服はすべて特権的階級のものであり、庶民はとても袖を通せるものではなかったということは言うまでもない。 そしてまた権威ある服は決して着る人の人格が尊いから着ているのではない、というのも言うまでもない話。あくまで尊いのは身分で、要は金があるから着られる、それだけの話である。 服で人の社会的地位を差別化させることは簡単だが、人の中身を差別化し、可視化させることはなかなか難しい。 そういうことを考えた時、装うことを時に「個性」と持て囃す昨今に対して、何となく違和感を覚えるようになる。

 例えば「個性的な服」として、原宿ファッションなんかはしょっちゅう引き合いに出されるように思う。メディア露出を重ねたことで、今では「篠原ともえ」「きゃりーぱみゅぱみゅ」なんて言えば一般の人でも何となく原色鮮やかな原宿ファッションのイメージを思い浮かべられるようになったが(勿論原宿ファッションは原色鮮やかな服だけを指すのではない、ということは一応補足しておく)、いくら「Kawaii」の一端として海外でも知名度が上がったとはいえ、元は日本の至極狭いエリアで生まれた名もないストリートファッションにすぎない。

 多くの人が着ているメジャーファッションではないという意味で、原宿ファッションはファッションジャンルの中でのマイナーとして「個性的」と呼ぶことはできるかもしれない。しかし個性的なのは服であって、それを着る人ではない。原宿ファッションを装うことで、外見を周囲と大きく差別化することはできるが、その中身を差別化、可視化させることはできない。本当の個性と言うのは、皆同じ服を着ていても均一化しきれない差異のことを言うのだと思う。理科の実験でも、あるデータ比較を行いたいのなら、それ以外の条件要素はすべて均一化しなければならないと教わった。「対照実験」なんて呼んだっけ(合ってますか?)

 何を着ていても、私たちはどこにでもいる、掃いて捨てるほどにいる、ただのつまらないホモ・サピエンスだ。

フランソワ・ブーシェ《化粧》

 

 

 私がそう強く感じるようになったのには、ひとつの根深い体験があったからだった。

 私が高校生頃からパンクロックファッションに傾倒し、のちにゴシックファッションを嗜むようになったという話は、500人記念動画で語った通りだが、その時は所かまわず礼拝に行くのだか葬式に行くのだかよく分からない恰好をしていた。どれだけ怪訝な目をされようが小言を言われようが、シルクハットを被り蝙蝠のような服を着て棺桶のバッグを携えて、目の周りは伝染病患者のように真っ黒に塗り潰していた。今では何故当時そこまでの根性があったのか疑問なのだけれど、兎にも角にも意固地になっていたことだけは確かである。

 ただ、そんなホラーテイストな鎧を着ることで、どんなホラーよりも恐ろしい外界に何とか足を踏み出すことができたということも、また朧げながら覚えている。

 外界と精神の間に生じる軋みは、不治の病を呼ぶ。その内私はどうしようもない精神の沈痛に耐えられなくなり、外界と戦う勇気と気力をついに喪失することになった。何日も風呂に入らず日の光も見ず、垢と恥を重ねるだけの肉の塊と化した。 見かねた親の強制執行によって幸いにも医療機関との接続を果たし、月に1度通院する運びとなったが、たかが数10分の診察のために準備は2、3時間を要した。

 脂で固まった乱髪に指を通し、鏡の前で憎い自分の姿と向き合わなければならない苦痛と戦いながら、老人のような顔に塗料を塗りたくる。たかが小1時間外出するだけなのだから簡単でいいだろうと思いながら、醜い容姿を隠そうと矢鱈滅多にブラシを走らせていると、気が付けば目の周りは真っ黒になっている。羽の付いた山高帽ボーラーハット を被り、スタンドカラーのフリルブラウスに薔薇模様のジャガードベスト、銀釦シルバーボタン のロングジャケットというような「スリーピース」な出で立ちで、いつも牛歩の歩みで病院に向かっていた。

 その時錆びきった足枷のように重かったのは、丸太を打ち付けたような太くて高いヒールではなく、自身の脚そのものだった。

 

 

 

 初めて顔を合わせた時、担当医は微笑みと共に私のファッションを「素敵ですね」と形容した。しかし当時の私には、それは遠回しの揶揄、いつも周囲から投げつけられていた(ように錯覚していた)皮肉にしか聞こえなかった。カウセリング中に私の発言を否定されることはその後も一切なかったけれど、そうした医者の柔和な態度は常に裏返しに見えて、どうせ内心では私を嘲笑っているのだろう、と医者の言葉を素直に聞けた試しは一度もなかった。

 しかしそれは何度目かの診察でのことだった。どう足掻いてもこのゴシックファッション以外を着ることができないでいる、というようなことを私が言ったのだと思う。すると、医者はこう言ったのだった。

「自分がないんですね」

 それまで彼女の言葉の一切を歪め、反転させて聞いた私に、初めてありのままの意味で突き刺さった言葉だった。その稲妻が落ちたような痛みは私の呼吸を止め、血を凍らせ、瞬きを忘れさせた。何故なら当時の私は、良い意味でも悪い意味でも、自分ほど自我を持ち、自我の強い人間はいないと思い込んでいたからだった。

 私は憤慨した。世間に穢され潰えていったあらゆる自尊心の内、唯一辛うじて残っていたプライドに、傷を付けられた気分だった。ただしその時は、医者に対して言い返しも怒鳴りもしなかった。生命活動を続けるだけで精神をすり減らしきって、怒りを表明する気力など残っているワケもなかった。すごすごと家に帰った後の記憶は最早ない。どうせいつものようにリストカットにでも精を出していた。

チャールズ・アラン・ギルバート《すべては虚しい》

 

 

 凄まじいショックと反発をもってしばらく胸の内にわだかまっていた医者の言葉は、鬱が寛解するに従って徐々に飲み込めるようになってきた。

 それまでの私は、まず自分があって、それを表明するのが衣服だと思っていた。だから西洋趣味と暗黒芸術を愛する私の相応しい服はゴシックに違いないと信じていたし、現に目にした時決まって胸がときめくファッションもゴシックであった。 しかし医者はあの時、それは逆だということを指摘していたのである。自分がないから、服で自分探しをしているのだ、と(あくまで当時の私に関しては、ということだけど)

 それを受け入れることは屈辱的で仕方なかったが、疑いようのない事実であった。 いつも人の顔色を伺って正しく反抗することを知らず、幼稚な希望はあっても大層な目標はない。考えることはあっても、それを言葉にできる技量はなく、発言する勇気はもっとない。『ポーの一族』には耽溺してもブラム・ストーカーの『ドラキュラ』もレ・ファニュの『カーミラ』も読んでいない。澁澤龍彦はよく分からないし、エドガー・アラン・ポーも面白くない、『オトラント城奇譚』に至っては名前すら知らない。

 そうしてゴシックの闇の中から浮かび上がってきたのは、ただカッコつけるポーズが欲しいだけの、無力で無教養で無意味な、自分の本当の姿だった

 都合よく形を変え、すぐ陳腐な枠に収まってしまうくせ、水を弾くように何も吸収しようとしない灰褐色の粘土。そんな不定形な私が、自我を収めるために探していたのが、服という鋳型だったのではないか。そう気が付かされた。一見同じように見えるけれど、自分がなくてその服を選ぶことと、自分があってその服を選ぶこととの間には大きな隔たりが横たわっている。私は長らく後者のつもりで居丈高でいたが、全く幼稚な前者だったらしい。

 クローゼットを一面に占める黒い衣服たちが、その時私を「虚無」だと呼んだ。

dilettantegenet.hatenablog.com

 

 

 そんなことに気が付いたり打ちのめされたりして、じゃあ私がゴシックファッションを辞めたのかと言えば、そうでもない。確かにそれはまだ言語化されておらず茫漠とした形ならぬものであったけれど、胸の内に閃くゴシックへのときめきは紛い物ではなかった。私は考えた。

 もし服が本当に鋳型ならば、それを着続ければ自分の形は自然と鋳造キャスティング されていくのではないか?

 服を着た時に自然と姿勢が変わるような心地は、多くの人が体験したことがあるのではないかと思う。スーツを着ると、何となく外交的な気持ちにも、社会的地位が高まったような気持ちにもなる。着物を着ると厳かな気持ちになるかもしれないし、私の場合は、歩幅が狭くなる分何だかせせこましい気持ちになる。中身がないのなら、形から入ればいいだけのことだ。その結果どうなったかは、まあご覧の通りである。

 

 派手なジュストコールも、絢爛豪華なアビ・ア・ラ・フランセーズも、中身がなくったって多分着ることができたろう。しかしそれらを装うことで強気にも傲慢にもなれたのなら、最早充分なのではないか。衣服は常に自己表現のツールでは有り得ない。衣服は時に、人を何者かたらしめる鋳型である。

 服を愛そう。何者でもない自分を愛せるようになるために。

 

第八書簡「遥かなるかな、故郷」

 私が生まれ育ったのは、いつも湿った大気に覆われた盆地だった。
 夏は蒸し暑く、汗は粘りついて素肌に纏わりつき、冬はいくら着こんでも衣服の下から冷気が入り込んで、底冷えして仕方がなかった。その寒気は、発熱前の悪寒によく似ていた。
 どこを向いても、視界には山が飛び込んできた。山々はなだらかであるが、しかし鬱蒼と青黒く、どこまでもどこまでも連なっていた。電車で遠く移動するようになる年頃には、そんなものは景色の隅に張り付いた染みでしかなくなったが、まだ自転車でそこいらじゅうを走り回っていた頃、いくらペダルを漕いでも漕いでも乗り越えることのできないその大地の囲いに、私の世界は閉ざされているように思えた。言葉にならない閉塞感が、私の幼少期には付きまとっていた。
 今でも水平線を見ると無性に胸が高鳴るのは、そうした思い出と決して無関係ではないように思う。

 

 

 のちに私は、そこでの何もかもに行き詰って、長らく過ごした盆地から逃げることになる。閉ざされている時間は長かったが、去る時は実にあっという間だった。私を取り囲んでいた山々は本当は何の障害でもなかったのだと、去った後に気が付いた。何もかも、気が付くのは去った後だ。
 その後いくつかの土地を転々とし、海外に桃源郷を求めたこともあったが、どれも長続きしなかった。これまでは自身の世界が小さかったから、例えうろついていても狭い範囲に引き籠っているように見えていただけで、本当はひとところにジッとしているのが苦手なタチだったのだと知った。一度外の世界を覚えてしまったら、最早止まるところを知らなかった。あの頃、帰る場所は要らないと豪語していた。それは自由な思索の足枷にしかならないと考えていた。そこに居ることが────それは決して場所だけはなく、誰かと居ることも、何かを継続してやり続けることも────どれほど楽しくても、数日も続けばある日突然に熱が冷めて、挨拶も礼もなく姿を消すということを繰り返した。

 根無し草デラシネ と言うと聞こえが良すぎる気がする。それはただの無責任な、白痴の浮浪児だった。

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ガンジス河畔の宿場にて。インドで迷走していた頃。

 

 私のフーテン歴は、故郷探しとはとても言い難い無軌道なものであったけれど、そこに一抹の切実さというのは確かにあって、いつ何時も「ここではないどこか」を希求し続けていたように思う。そしてその「ここではないどこか」への空想のためにいつも浮ついている人は、決して私だけではないだろう、とも同時に思う。
 かつて私の動画で特集した幻想作家・中井英夫は、その寂寥を隠さなかったひとりとして有名だろう。彼は自身が生まれ落ちた地球を「流刑地」と形容し、反世界、反宇宙をその優美な文体によって描き出した。
 空想がちで孤独な少年期を過ごした江戸川乱歩も、似たようなひとりだと思われる。「すべての物の考え方が誰とも一致しなかった」と語る彼は、この世界には自身の居場所はないという感慨を「たとえどんなすばらしいものにでも、二度とこの世に生れ替って来るのはごめんです」という言葉で形容している。現世にまるで馴染めなかった彼が、「ここではないどこか」を夢見ることもあっただろうということは、想像にかたくない。
 そういえば最近、鈴木いづみの小説をいくつか読んだのだけれど、彼女もまた「ここではないどこか」を強く感じさせる作品を沢山遺しているように思われた。例えばSFチックなエッセンスを持って書かれた『契約』という短編は、とある少女が、本来自分は「ここではないどこか」に居るべき人間であり、いつか「ここではないどこか」から迎えが来ると信じて、ついには殺人を犯してしまうという物語なのだけれど、そこにはどうも、36歳で自らの命を絶った鈴木いづみ本人の姿がダブって見えるのだった。彼女の描く絶望がどことなくポップなのは、彼女がこの世に両脚を付けていなかったからだ、と思う。

 彼らは「ここではないどこか」への希求を吐露するかのように創作に身を投じ、1本のペンによって、遥か異次元に空想の都を築き上げた。それは決して小説に限った話ではないだろう。漫画であろうと、絵画であろうと、映画、音楽、ゲームであろうと、あらゆる創作活動があらゆる空想世界をあちらこちらに顕現させている。「自身は本来この世界に生まれるべき人間はなかった」と感じている人間は、それらに出会った時に、きっとこう思うはずだ。

 この作品の内に隠されていた別天地こそ、求めていた「ここではないどこか」であり、我が真の故郷である、と
 読者とは、鑑賞者とは、時に「地球の囚人」を意味することだろう。

 

 

 私の放浪癖は、コロナウイルスの流行によって多少の落ち着きを得ることになった。逃亡の行先を満足に確保し続けることが困難になり、気軽に国外に渡ることも叶わず、「退屈」という二文字が心身を浸食していくのを成すすべもなく眺めていた。私が愛した不夜の街は、20時を回る頃にはすっかり夜の闇に沈むようになった。今が緊急事態宣言が下された有事にあるという非日常感だけが、当時の私が得ることのできる唯一の刺激だった。
 そんなある晩、野暮用で街に出かけることがあった。
 春なのに嫌に冷たい雨が降りしきり、明かりの灯されていないビル群は鈍色に、しかし妙な光沢をもってテラテラと艶めいていた。行き交う人々の姿も、通り過ぎてゆく車の影もなかった。だだっ広い大通りに延々とタクシーが停車していて、赤いランプが百鬼夜行行燈あんどん のように不気味に連なっていた。巨大な電光看板は、もう広告するものも、広告する相手もいなくなったとでも言うように、雨に画面を黒々と濡らして沈黙していた。

 それは普段私が知っている、喧噪の坩堝かんか のような街ではなかった。その日その時間、その街には、ただ染み入るような雨音だけが響いていた。
 横断歩道で信号待ちをしていた私は、信号が青になっても、そこから一歩も動かないでいた。普段矢鱈滅多に走り回って一度も立ち止まったことがなかったその街の、カタストロフ後のような静けさに、立ちすくんでしまっていた。この風景の中に、いつまでもとど まっていられはしないかと切なくなった。
 その時思った。
 故郷とは親しんだ土地のことではない。故郷とは、胸を打つ光景のことだと。

 

 

 ああ私は何も、自分が属せる土地を探して漂浪しなくったって、ましてや海を越えなくたって良かったのだ、と思った。疫病の猛威も多少収まったことで、人通りも車の通りも以前より各段に増して、あの街の光景はきっと二度と見ることは叶わない。しかし今も胸の内に、あの雨だけが音を立てて降る、時の止まったような都会の夜景があることが、私を浮浪児たることから遠ざけ続けている。胸を打つ光景というのは、決して目に見える世界になくったっていいはずだ。永続的なものでなくったっていいはずだ。

 それは夕暮れの図書室でめくった文庫本の、黄ばんだ頁の合間に挟まっている。

 それは誰もいない深夜のリビングで点けた、テレビの液晶画面の向こうに広がっている。

 なけなしの日銭で入り浸る喫茶店で流れる、安っぽいシャンソンの中に歌われている。

 もうどこで見たかも覚えていない、しかし瞬きを忘れて見つめていた思い出だけが確かな、一枚の煤けた油絵に宿っている。

 私たちはあの時に覚えた戦慄のような魂の震えに、いつも立ち返る。その感動は火花がまばゆく弾けた後に細い白紫の煙がたなびいているような、ほんの刹那の閃光スパーク であったけれど、魂の在処ありか に迷い、人生の盲人であった自身がふと戻りたくなる記憶として永遠であった。身震いしながらも今尚この現世うつしよ に両脚で立っていられる堅牢な心の礎として、永遠であった。懐かしさと一抹の切なさと共に時折思い出す瞬間として、永遠であった。

 それを「故郷」と呼ばずして、一体何と呼ぶのだろう。

 

 

 私が静寂の都会の景色に囚われた春────コロナウイルスが流行を始めた季節は、私がYouTubeを始めた時期と重なる。始めた理由は色々とあったけれど(詳しくはこちらの動画を参照:【1000人記念動画】Youtubeを始めた理由、その内のひとつに「孤独な好事家の集まる箱庭を造ること」というのがあって、居場所もなく彷徨う変わり者たちのサロンを電子上に築くことができたらと考えていた。それは私自身がかつて孤独な青春期を過ごしたからでもあったが、それと同時に、魂の寄る辺というふるさとのない放浪者に、故郷への道筋を示せたならという想いも何処かにあった。3年前、雨降る夜の横断歩道に立ち止まっていたあの時、YouTubeを始めようと思ったのだった。

 自分だけ、教室の喧噪のいつも外に居た。自分だけ、居間の机でひとり冷めた夕飯を食べていた。自分だけ、朝の通勤ラッシュの人の群れとは逆方向に歩いていた。自分だけ、自分だけ、自分だけ……。私たちはこの世に居場所のない根無し草デラシネ であるかもしれなかった。けれどそれは黒い稜線で囲まれた、沈み込んだつまらない土地にしがみついているからだと気が付いた時、私たちはその惨めな盆地を捨て去って、すぐさま空想の世界に飛び立つことができる。い精神と生への憎に突き動かされた、しかし「ここではないどこか」を希求する何よりしい創造の果てに────暗く悪しく美しいカルチャーの中に、胸を打つ鮮烈な光景は広がっていて、その感動はいつだって自身を迎え入れてくれる永遠の桃源郷になりうるだろう。

 好事家の郷里はかくして、何者も侵すことのできない夢想の聖域に顕現するのである。

 遥かなるかな、我らが故郷。

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カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《雲海の上の旅人》

第七書簡「虚無という悦楽」

 ごく幼い頃、どんぐりの蒐集に凝っていたことがある。原始的な所有欲を満たすに、あのアンバー色に光沢するすべらかな長楕円の果実は充分な魅力に満ちていた。特に価値が高いのは種子がみっしりと詰まった肥えたどんぐりで、飢えた栗鼠のように、落穂を拾う農夫のように、それは重大な労務であると言わんばかりに、暇さえあれば無心でどんぐりを拾っていた記憶がある。

 しかし紅葉に埋め尽くされた黄金色の地面にその宝石が最も散りばめられる頃には、決まって小さな、しかし強大な天敵が現れる。どんぐりの中身を喰らう幼虫である。どんぐりを手に取って、耳元で振ってみせる。カラッと小さな音がする。慌てて親指で押して割ってみれば、手の中からポロポロと黒褐色の滓が零れ落ちる。

 掌に残るのは、四方に割れた殻と、朽ちた種子の残滓。

 つややかな美しい殻の内に、何の実りも遺さなかった種子を見るたびに、いつも強烈な胸騒ぎを覚えた。それは虫にお宝を奪われた怒りでも、自らの手でそれを潰した背徳感でもなかった。

 

 

 少しして、望まずして通わされていた子供向けの英会話教室で、イースターの催しを経験した。復活祭 イースター とはご存知の通り、イエスが死後3日目に蘇ったことを記念したキリスト教圏の祝祭だが、この時の室内外の飾り付けに使われるのがお馴染み「イースター・エッグ」だ。あの時、教室の誰かからカラフルに着色された卵を受け取った私は、予想だにしていなかった卵の軽さに戦慄した。

 イースターエッグは、白身と黄身を抽出して作るのだと初めて知った瞬間だった。

 外見は斯くも美しく彩色されているのに、中はただのがらんどうなのだという事実に、思わず指に要らぬ力が籠ったのを覚えている。それは破壊衝動というには未熟だった。私は結局、卵を握りつぶさなかったから。形容するなれば、それは未知に出会った瞬間の身震いに似ていた。恐怖ではなく、罪深い好奇心であったことは確かだった。

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1909年のアメリカのポストカード。
多産の象徴として兎がよく描かれるが、これはカトリックプロテスタントなど西方教会のみの風習で東方教会にはない。

 

 その感動は随分と長い間忘れ去っていたのだけれど、ある日突然思い起こすきっかけとなったのが、かつて私のチャンネルで特集した押井守天使のたまごというアニメ作品だった。当の動画は残念ながら問題があったために削除されてしまったが(またその内作り直したいと思っているので気長に待っていただけると嬉しい)、この作品は、目に見えない卵を男の手が握り潰すシーンから開幕する。『天使のたまご』は、世界の希望である天使がとある卵の中に眠っていると思われたが、それは幻想で、本当は卵の中には何もおらず世界には希望も遺されていなかった……というような筋書で、冒頭の見えない卵を握り潰すシーンはその顛末の暗示になっているのだけれど、劇場でそのシーンを観た時────卵が割られる音を聞いた時、私の背筋を恍惚が走り抜けた。

 脳内に、かつて私が割り潰さなかったイースターエッグが蘇った。同時に、大昔私が割り潰したどんぐりも。「中に何もない」という状況が、自身にとって非常に重要なファクターであることに、その時私は愕然と気が付いた。「虚ろ」というキーワードとの出会いであった。

amzn.to

 

 虚ろであることの魅力は、期待を裏切られることにある。外形だけで満足するのは下品な人間のやることで、大抵の人はそのものの中まで揃って初めて満足するものだ。カッコイイ車は性能も伴っているからこそカッコイイし、美人は性格まで伴って初めて美人になる。もちろん中身が必ずしも希望通りとはいかないワケで、燃費が悪くて壊れやすいけれどカッコイイ車なんてのもあるだろうし、ワガママで奔放だけれどやっぱり美人ということもあるだろう。しかしどちらにせよ、結局何らかの中身がなければ成立しない話だ。虚ろは、そうした期待すべてを否定する。

 そこに「ある」のは、何も「ない」状態だ。ないものは如何様にも評価できない。ただ茫漠とした絶望だけが広がっている。期待してそれを開いて、中に何の果実も詰まっていなかった時の、胸の内に一陣の風が吹き去ってゆくような感覚。

 裏切りは決して逆方向であってはならない。つまり、劣った外形に優れた中身が存在してはならない。それは最も低俗な希望の在り方だ。優れた外形に劣った中身があってもつまらない。それは最早見飽きた世の常だ。求めるのは、「何もない」という抗いようのない完璧な絶望の在り方である。その絶対性は、ニヒリスティックな快楽を誘う。自虐的なエクスタシーと言い換えても良い。あの時、どんぐりを潰した瞬間に私の胸をざわめかせたのは、イースターエッグを割ることで私が得ようとしたのは、虚無の悦楽だった、と今なら思う。

 最も美しい裏切りは、優れた外形に何の中身も存在しないという時に成立しえる。外見が美しいほどに、中身の期待も比例して膨らんでゆくのが人の性というもので、その内実にがらんどうが広がっていた時の失望もひときわ大きくなる。美しい虚ろを求めて、私が知らず知らずの内に人形を好きになったのは、故に自然な成り行きだった。

 

 

 本来愛玩対象として設計されているはずのビスクドール球体関節人形を、むしろ恐ろしいと感じる人は意外と少なくない。巷の怪談に影響されていることもあるだろうし、人形の造形がリアルであるが故に、不気味の谷現象が発生していることもあるだろう不気味の谷とは、人はロボットなどが人間の姿かたちに近ければ近いほど好感を感じるが、ある一定のラインを越えた瞬間に突然嫌悪感を覚えるようになるという心理現象のことだ)

ja.wikipedia.org

 恐怖の理由は人によって様々なのだけれど、そのひとつの形としてこういうものがある。

「確かな視線を向けてくるのに、何を考えているのか分からなくて怖い」

 なるほど我々ホモサピエンス不信な視線を警戒することで、捕食者の存在を察知し、敵を事前に淘汰して生き延びてきた動物だ。真意の読み取れない視線に恐怖をいだくことは、ヒトのもっとも原始的な危機察知能力としてごく自然な反応である。

 ここで相手が話の通じる人間ならば、かつては彼の視線が恐ろしかったけども、話してみると彼にはまったく敵意はないことが分かり、今は彼に視線を向けられても友愛のそれだと安心するようになった、なんてこともあるかもしれない。しかし人形はそうはいかない。人形の視線の意味するところは、我々が自己本位な妄想に浸らない限り、永遠に不明慮である。初対面の人間よりも人形が恐ろしく感じられる理由は、その視線の意図が分からない以上に、仮に意図を尋ねてみても絶対に答えが返ってくることはない点にある。人形の視線の内には黙する空洞しかないことに、人は真に恐怖する

 

 

 人類の最大の発明であり叡智なるものは、「分類」することだ。観察し、分類することで、得体のしれないモンスターは名前のある「動物」になり、妖しい呪術は論理的に操る「科学」になった。謎と恐怖に満ちた世界を執拗に分類していくことで、私たちホモサピエンスは、闇につつまれた未知の世界を知恵の松明で照らすに至った。

 これは逆に言えば、分類できないものは、ヒトにとって大きなストレスとなりうるということでもある。例えば林檎を食べようとした時、私たちが躊躇いもなくその物体に手を伸ばせるのは、それを他の数多の果実と区別できているから、食べても問題のないものだと分類できているからだ。これが、色合いは林檎らしいのだけど、苺のようなヘタが付いていて、バナナのように細長い果物だったなら、私たちはきっと安易に手を伸ばさない。それは、その果物が林檎なのか苺なのかバナナなのか「分類」できないからだ。そしてその分類できないものを、私たちは恐怖するようにプログラミングされている。

 言語能力の低さが感情コントロールの困難さに直結するのも、似たような理由だ。自身が何を快とし、何を不快としているかを言葉にすることは、感情を「分類」することに他ならない。この的確な言語化ができないと、ただ漠然とした不快感を鬱積させることになり、その個体にとっていつか暴発するストレスになりうる。かの『ケーキの切れない非行少年たち』でも、著者の宮口幸治氏が、少年院の子供たちは言語能力が低い傾向にあり、「何となくムカつく」が積み重なった結果非行に走ったケースが多いという指摘をしている。

 

 少し話が逸れた気もしなくはないが、ヒトが理性的に振る舞える分岐点は「分類」できるか否かというポイントにあるということが分かっていただけたと思う。なれば「虚ろ」であることは、ヒトが最も恐怖する状況に違いない。それは分類できるか否かという問題を通り越している。「ない」ものは分類しようがないからだ。ただぽっかりと暗い穴が開いているだけで、いくら呼びかけても、帰ってくるのは自分の虚しいこだまだけ。

 しかしそこにこそ、人形の深淵は存在する。人形の視線が空恐ろしく思われるのはその意図が読み取れないからと先述したが、意図を読み取る────つまり相手の隠れた感情を観察し「分類」しようとしても、人形の内にあるのはがらんどうの「虚ろ」にすぎず、分類のしようがない。人形とは、「不信な視線」と「答えのない空洞」という、ヒトにとってふたつの「未分類」────恐怖を湛えた存在なのであるしかし恐怖することが悪いことではない。冒頭で説いた裏切りの悦楽の話を思い返してほしい。美しい人形の中身がもし仮に美しい人格者だったとして、一体それのどこが面白いというのだろう。何のひねりもない綺麗事に辟易して、私たちは好事の道を歩み始めたのではなかったか。崇高な芸術品として、親しいパートナーとして優れた外形を持ちながら、その中身は空恐ろしい「虚ろ」であるという人形にこそ、仄暗く、しかし強烈な恍惚がある。私たちがいくら想像力を掻き立てようが決して覆らない、絶対的な否定。その力の前に膝を折るしかない惨めさは、宗教的な敬虔さに似る。宗教とは原始、森羅万象への恐れから始まったものである。

 「虚ろ」に対して畏怖の念を抱いた時、仏教の基本教理は「 くう 」であったと思い出す。この世の一切のものは虚しく、存在すらしていないという概念だ。生きることはただ虚しいという個人的な実感にこの仏の教えは随分と寄り添ってくれたが、「虚ろ」を体感することに自身が悦を覚える所以も、この辺りにあるのかもしれない、と想像する。それは自身の懊悩が、事実として目の前に在るとして、まるで肯定されているような錯覚を覚えるからだろう。何もないことは絶望であるかもしれないが、救いでもある。

 『天使のたまご』のラストを思い返してほしい。あの少女だって、男に卵の中身が「虚ろ」であることを知らされたが故に、あんなにもおだやかな微笑みを浮かべて天に昇っていったではないか。「虚ろ」であることは期待の拒絶である。そして同時に、心優しき諦念への導きである。

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 そもそも私たちの内側にだって、一体何が「ある」というのだろう。性格? 人格? それは私たちが自己スキーマとして作り上げただけの虚像にすぎない。言動をパターン化し生き易くなるために作り上げた、都合の良い幻想にすぎない。せいぜい私たちの中に詰まっているのは、血と肉と、臭い脂くらいだ。しかしそれも燃やせば何も残らない。

 時代に中指を立てて死んだ村崎百郎は、かつてこう言った。

 「人は死ねば、燃えるゴミだ」

第六書簡「ファッショナブル・アングラ」

 学ランとセーラー服。着物と軍服。遺影と柱時計を抱え、背後にはためくのは日章旗。般若面や狐面、数珠や呪符といった呪術的なアイテム。見世物や同性愛といったマイノリティ要素。背徳的な娯楽としての殺傷、自傷、折檻 ────サディズムマゾヒズムの合間を行き来する露悪的な描写。血と日の丸の赤。夜と制服の黒。包帯と白塗りの白……。

 以上は、近年インターネット上で「アングラ」と称され散見されるビジュアルの一傾向を雑多に羅列してみたものである。それは戦時、あるいは戦後まもなくの昭和のイメージの中で、青少年による日本的な猟奇趣味を描こうとする表現形式だ。

 本来の「アングラ」に視覚的な一貫性はないはずが、上記の「アングラ」にひとつのパターンが見受けられるのは何故か。非常に局所的なところからインスピレーションを得ているそれらから見えるものは、内包する何もかもが希薄になった、とあるカルチャーの形骸化した姿だった。

 

 『好事家の矜持』とタイトルした前回の記事で、私は日本における「サブカルチャー」と「サブカル」の違いに軽く言及した。まあこの辺りの話は個々人で大きく認識が異なることもあるので話半分に読んでいただきたいのだが、広義の「サブカルチャー」は、あくまでメインカルチャーに対する副次文化の総称にすぎない。高度なハイカルチャーほどの完成度を持たず、メインカルチャーほどの大衆性も持たないカルチャーの雑多な括りだ。

 一方で「サブカル」は、この「サブカルチャー」の略語でありながらも、その意味するところはちょっと異なってくる。確かに「サブカルチャー」と同義で(時に侮蔑の意を込めて)使われることも多々あるけれど、世間一般に価値がないとされているものを敢えて俎上に載せ再評価し、独自に体系付けていくような指向がそこにはある。メインストリームから零れ落ちた、あるいは見逃されているものが「サブカルチャー」で、それにこそスポットライトを当てる行為、あるいは価値がないことを逆に自負しているようなカルチャーが「サブカル」だと言えば、何となく伝わるだろうか。

dilettantegenet.hatenablog.com

 

 そんな「サブカルチャー」と「サブカル」の区別と似て、「アンダーグラウンド」と「アングラ」にも、微妙なニュアンスの違いがある。

 「アンダーグラウンド」とは、広義では、表世界に露出できないような非合法で反社会的なアレコレ全般のことだ。犯罪だとか薬物だとか、普段は隠れている社会の暗闇部分みたいなものだと思ってもらえれば良い。ハイカルチャーほどの完成度もなくメインカルチャーほどの大衆性もないという点では「サブカルチャー」と同じだが、「サブカルチャー」よりも一般人の目に触れにくく、場合によってはあまり迂闊に触れない方が身のためなのが「アンダーグラウンド」だ。「サブカルチャー」がアウトサイダー(outsider)ならば、「アンダーグラウンド」はアウトロー(outlaw)と形容できるだろうか。

 「アンダーグラウンド」の略語である「アングラ」は、勿論好奇と恐れ、時に嘲笑、侮蔑のニュアンスを持って「アンダーグラウンド」と同義で使われることもあるのだけれど、そうではない場合、かなり特化した括りとして使用されているような印象を受ける。「アングラ」の志す表現は「前衛」だ。そしてそれを突き動かすのは、反体制、反商業というメンタリティである。とにかくやることなすことすべてに、「あらゆる権威的なものに迎合しない」というカウンター精神が溢れまくっていて、その様子に頑なすぎるものを感じることもしばしばである。

 

 何故「アングラ」はそのような性格付けをされたのか。それはアンダーグラウンド」を「アングラ」に変えたのは、安保闘争学生運動の嵐が吹き荒れる60年代に頭角を表した前衛表現の先導者たちだったからだ。「アングラ」のとにかく権威(それは「多数派」という暴力性を持った大衆、メインカルチャーを意味することもある)を毛嫌いする傾向は、この60年代特有の時代風潮が根っこにある。術、映像、舞踏、音楽 ────様々な分野で、既成概念や既存社会に反発するような実験的表現が試みられ、それらが「アングラ」と評価、あるいは揶揄されていったことで、「アンダーグラウンド」という漠然とした括りは「アングラ」というジャンルとして独立していった。

 だが世間の「アングラ」のイメージを最も決定づけたのは、何を隠そう演劇である。当時の演劇界では新劇に異を唱える小劇場運動が勃興していたのだが(この辺りの流れを知らない方は寺山修司の特集動画で全て解説しているので参照してほしい)この小劇場運動の別称がズバリ「アングラ」だった。「アングラ」と聞いて演劇のイメージを思い浮かべる人が多いのは、ここに理由がある。特に小劇場運動を巻き起こし牽引した第一世代を「アングラ」と呼称することが多いが、アングラ四天王などと言われ代表として挙げられる唐十郎寺山修司佐藤信鈴木忠志の内、圧倒的に「アングラ」のイメージが強いのは、寺山修司ではないだろうか? 私がテラヤマテラヤマうるさいからそのイメージが付いてしまったという好事家もいるかもしれないが。

 寺山修司が上手かったのは、テキストのみならずなくビジュアル方面でも具体的な表現を行ったことだ。彼は劇作家、演出家としてだけでなく、映画監督、写真家としても活躍したので、舞台と同時に、映像や写真という形でも視覚情報をあまた発信した。横尾忠則粟津潔宇野亜喜良花輪和一といった、インパクトの強いアーティストを美術に起用したのも巧みであった。見ただけで「あ、寺山修司だ」と思わせるビジュアルイメージを、あらゆるメディア手段を横断、駆使して寺山は確立させた。

 百聞は一見に如かずと言うと聞こえが良すぎるが、大衆を煽動する力という面において、残念ながら言語情報は視覚情報に劣ることがある。文章を読まない(読めない)人間がいるのは世の常だ。Twitterやブログよりも、InstagramYouTube方が圧倒的に影響力が強い。私が本来は文章を書く人間でありながら、YouTubeという手段を取っている理由もそういうワケにある第一書簡「麻薬商人の告白」参照)。言ってみれば寺山は、ツイッタラーとして出発しながら、インスタグラマーとしても成功したようなものだ。アングラ演劇の主導者たちの中で寺山が最も「インスタ映え」していたが故に、「アングラ」とは、アングラ演劇のイメージ以上に、寺山修司及び天井桟敷のイメージに引っ張られるようになった

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田園に死す』は寺山の初期のビジュアルイメージが分かりやすい作品だ。

 

 そうして寺山が具体付けた「アングラ」イメージは、後年のアーティストに独自に引用されていく。丸尾末広はその典型的な例だろう。実写より自由度の高いイラストという手段を武器に、学生服の青少年、見世物小屋、日本の呪術的風景……といった寺山作品に多用された要素を、流血や殺傷といったより過激でグロテスクな描写をもってリバイバルさせた。丸尾末広の面白さは、画風も作風もすべて引用だらけの空虚でありながら、その猟奇的世界が見る者に多大なカタルシスをもたらすオリジナリティを獲得している点にある。が、この内実の伴わない「アングラ」イメージが、丸尾末広が若年層に受けたことで、ガワだけ広まってゆくことになる。

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寺山劇の再演を行っている演劇集団「池の下」の『身毒丸2000』に際して、丸尾末広が書き下ろしたポスターイラスト。丸尾らしい流血表現が見える。左下には寺山修司の似顔絵。

 

 年末に私は「まぼろし博覧会」という静岡県のディープスポットを動画で特集したが、R指定というバンドがそこで撮影したというMV(2015)は、近年の「アングラ」イメージを伺い知る一例としてなかなか興味深い。

 散見されるモチーフは学ラン、セーラー服、日本軍服、日章旗、遺影、柱時計、般若面など、寺山に端を発し、丸尾に引き継がれていった要素だ。隊列を組んで行進しながら歌っているのは、かつてサーカスや見世物の呼び込みを行ったジンタのイメージが根底にあると思われる。時折画面が虹色にチラつくのも、田園に死す『蝶服記』といった寺山映画の特徴を連想させる。

 歌詞も印象的だ。「よってらっしゃいみてらっしゃい」は見世物口上の切り出しとして有名な文句で、「指詰め」「眼球をペロペロ」「猟銃で頭を撃ちぬけ」など随所に散らばるショッキングなフレーズはその後に続く「見世物狂い」に繋がるのだろう。つまりこの曲はMVと合わせて見ても、見世物小屋の猟奇世界を描きたいのだと想像されるが、合間に突如「帝都に咲かせたこの命」というコールが挟まれる。作り手側としては「帝都で見世物に狂い遊んだ」というようなニュアンスを意図していたかもしれないが、「命を咲かせる(そして散る)」という言い回しは軍歌で多用されるそれなのだ。そもそもタイトルが『帝都に死す』な時点で、見世物に生きて死ぬという享楽的なイメージより、国に殉死するといったイメージの方が先行する。コール時のMV映像が花吹雪を散らし小太鼓を叩いているというのも、図らずとも出征を連想させる演出になっている。「見世物」と「戦時」という、本来まったく関連性がないはずのふたつがここには共存している。そしてそれを初めてやってみせたのは、何を隠そう、寺山修司

 

 R指定はボーカルが丸尾末広のファンを公言しており、CDジャケットのデザインにも丸尾を起用していることから、彼の影響を受けていることは確実だ。バンドメンバーが寺山修司までよく勉強しているかは不明だが、しかし寺山が作り上げた「アングラ」イメージが、丸尾末広に表面的なビジュアルだけ掬い取られ、近年そこからさらなる無造作な取捨選択と引用が行われている一例として、このMVは興味深い例だと思う。

 ちなみに冒頭の口上を担当しているのはストロベリーソングオーケストラというバンドの団長・宮悪戦車であるが、彼もまた寺山修司の影響を公言するひとりである。犬神サアカス團だったり、グルグル映畫館だったり、「カッコイイ」と感じるものを文脈を無視して自由に引用する傾向は、音楽シーンに特に顕著であるように思う。 

 

 誤解しないでほしいのは、別段私はそうした「ガワだけ引用」を、手放しで評価することはないが非難しているワケでもないということだ。どんなカルチャーも、それが「カッコイイ」とウケればウケるほど、核となる思想性を無視して表層だけを切り取られ、薄められ、形骸化していく。それを批判しても意味はない。すべてのカルチャーが必ず辿る宿命だからだ(勿論ウケなくて切り取られる以前に消滅するカルチャーもあるんだけど)本来何かしらの意思表明の代替だった視覚表現は、見て着て楽しい「ファッション」になる。そしていつかそのファッションも飽きられて、消えていく。

 そんな普遍的な流れを思う時、今やただの記号、若者のファッションとなった「アングラ」の終焉を、ふと感じる。

 私は前回の記事で「サブカル」の形骸化を指摘したが、だからといって「サブカルチャー」自体が絶えるワケではないということも同時に書いた。それと同じように、「アングラ」も今やファッショナブルな記号となってしまったが、「アンダーグラウンド」カルチャーは今もどこかの地下で数知れずうごめいているワケで、続々と勃興しているそれらの中から、再びかつての「アングラ」のように先鋭化してゆくものは生まれるだろうか、と夢想する。そういえば、飴屋法水率いた東京グランギニョルの『ライチ光クラブ』という舞台は、登場人物は学生服を着た少年たちだったが、その背後に広がるのは戦時、あるいは呪術的な日本の土着風景ではなく、インダストリアルでメカニックな世界だった。これは寺山に侵食された「アングラ」イメージの系譜を汲みながらも、その昭和臭い感性を否定し、戦後を振り切って先進国として急発進した80年代の感覚へと換骨奪胎した結果だった。しかし古屋兎丸がエンタメ漫画として本作を21世紀に蘇らせたことで、やっぱりこれも今や若い世代の消費コンテンツ、お洒落なファッションとなっている。しかし損なわれたカルチャーへの郷愁を、現状への恨み言に還元するのはナンセンスだと思う。郷愁はあくまでパーソナルなものとして、新しいカルチャーの誕生を、今もこれからも期待していたい。

 混沌とした「アンダーグラウンド」の闇の中から新たな「アングラ」の産声が聞こえて来やしないかと、耳を澄ませながら、ひとりごちた。さよなら、ファッショナブル・アングラ。

第五書簡「好事家の矜持」

 私たちは不思議な時代を生きている。言葉がかくも無力になりながら、しかし何より言葉を恐れている、矛盾した時代をだ。

 今日も電子の海 インターネット に無数のあぶくのごとく生まれる言葉は、無関心にスワイプされ、情報の濁流として意味もなく流れ去っていく。練りに練られた含蓄ある文章よりも、スマホで奇妙に補正された出来合いの画像に膨大なハートマークが押される。もはや言葉に重さはなくなった。言葉は大量生産され大量消費されてますます価値を下げてゆく、デフレの渦中にある哀れな商品にすぎなくなった。

 同時に一方で私たちは、何より言葉を恐れるようにもなった。気軽に放ったはずの言葉が、「正義」と「博愛」という使い勝手の良い大義名分によって振りかざされた凶刃 ナイフ ――社会的中立性 ポリティカルコネクトレス を欠いていると糾弾され、人道的に許されないと批難される恐怖に、日々怯えている。冗談は虚言とあしらわれるようになった。虚言は デマ と敵視されるようになった。いつかインターネット掲示板2ちゃんねる」上に記されたこの書き込みは、今やあまりに有名だろう。

嘘を嘘と見抜く奴は増えたが、嘘を嘘と楽しむ奴はほぼ消えた」。

 私たちは今、何よりも言葉を軽率に消費しながら、誰よりも言葉を軽薄に使わなくなった。

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 つまらない事実を尻目に、くだらない虚構に徹底して遊ぶ姿勢は、かつて「サブカルチャー」的と呼ばれた。サブカルチャーとはあくまでメインカルチャーに対する副次文化の総称にすぎないが、日本では、政治闘争の敗北が生んだ「しらけ」の風潮が、自虐と軽佻浮薄の態度を育み、独自の「サブカル」として発展してきた経緯がある。真面目を笑い、不真面目なことにこそ真面目になってみせるその「サブカル的態度」は、言葉だけ借りるなればまさに「真情あふるる軽薄さ」だった。

 サブカルの王といえば、みうらじゅん氏の名前を出さないワケにはいかない。学生運動が敗北戦を強いられ始めた60年代後期に萌芽を見せ始めた上述の「サブカル的態度」は、70年代に若者を中心に広がりを見せ、80年代には一種の社会風潮として支持されたようだが、その先導者のひとりは間違いなくみうらじゅん氏だろう。

 しかし彼はかつてラジオの中で――「みうらじゅんサブカルジェッター」だったと記憶しているが――このような発言をしたのだった。

我々のようなサブカル世代は、もはや滅びゆく運命にあるんでしょうね」。

 メインカルチャーが存在している限り、サブカルチャーが滅びることはない。次々と勃興する新しいカルチャーは、内実はともかくひとまず副次サブ 文化と呼称することができるからだ。しかしここでみうら氏がサブカル世代」と呼称しているのは、上述の「サブカル的態度」を持つ人たちのことだった。無責任な笑いと無軌道な知的好奇心に突き動かされることを美学とするこの世代は、今後ますます消えていくだろうと、みうら氏はラジオで呟いていた。副次文化 サブカルチャー は永遠に存在しても、80年代素振り サブカル はもはや「オワコン」となりつつあるのだ、と。

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 それでも、今なお「サブカル」という言葉は乱用され、その愛好者を名乗る者は後を絶たない。「サブカル的態度」の発端の多くは、例えば「クラスの輪に入れない」「最近の話題についていけない」といったような謂わば「自分はメインにはなれない」という被虐意識からだが、その先に表明される「サブカル的態度」の方向性は、今の若者たちとみうらじゅん氏らの「サブカル世代」とで決定的に異なっている。

 かつての「サブカルは、一種の抵抗レジスタンスだった。いや、それはまだ60年代のカウンター精神を引きずっていた、サブカル初期の話かもしれない。かつての「サブカル」は、メインストリームと永遠に交わらない平行線を描きながら存在するものだった。自分はメインにはなれないという自虐は、自分はメインでなくても生きられるという自負をも内包していた。「なるほど私はメインではないけども、こっちはこっちで楽しくやりますから、どうぞ放っておいてください」というような矜持と、その矜持が何のためにもならないからこそ何にも縛られることのない自由とが、かつての「サブカル的態度」の内にはあった。

 しかし今はどうだろうか。自分はメインにはなれないという自虐が、自分こそがメインになってやろうという自惚れに通底してはいまいか。昨今の「サブカル的態度」は、メインに背を向け自身の感性と嗅覚だけを頼りにカルチャーを逍遥することを知らない。メインをチラチラと横目にしながら、その時点で主流とされていない副次文化を探し出し、敢えてそれを愛そうとする。「なるほど私はメインではないけども、こんなものを愛する面白い私を、貴方は放っておいてもいいのかしら」という天邪鬼な声が聞こえる。しまいには、サブカルメインカルチャーより価値があるとでも言うような、文化の系譜を完全に無視した「サブカル賛歌」まで散見される。そこにもはやクールな自虐は存在しない。肥大化したエゴがあるだけだ。カルチャーの風来坊のお供であり、在り方そのものであった「サブカル」は、今はもう、承認欲求を満たすための道具にすぎなくなった。

 

 そんなことを綴っている内に、アーヴァンギャルドの松永天馬氏が似たようなことを書いているのを発見した。過去への批評と解釈、そして限られた情報の中から自身で独自の文化史を体系付けようとする「サブカル的態度」の喪失について、彼はこう投げかけている。

 現代のサブカルに、批評があるだろうか。尖ったものがあるだろうか。
 クリームソーダの炭酸の泡には、盛り付けられたバニラアイスのなかには、ガラス片が仕込まれているだろうか。
 ただ甘ったるい、人工甘味料の味だけで満たされてはいないか。人工着色料の青や赤にうっとりし、その毒性には気づかないまま口に運んではいまいか。

 以下に、記事本文へのリンクを貼っておく。

note.com

 

 

 80年代素振り サブカル にもうひとつルビを振ることができるとすれば、それは「おたく」かもしれない。この「おたく」という呼称は、中森明夫が1983年にロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』に掲載したコラム「『おたく』の研究」が初出とされている。「運動音痴で勉強だけが取り柄のネクラ」「コミックマーケットでだけ異様にはしゃいだ姿を見せる冴えない中高生」等を「おたく」と命名する――といったような嘲笑的なその内容には読者から批判の投書が殺到し、中森と読者の間では一悶着あったりなかったりもしたのだが、これが結果的に「おたく」という呼び名が定着する発端となった。そして「おたく」という存在が広く認知されるようになったのは、宮崎勤が引き起こした東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件であることも忘れてはならない。宮崎がビデオテープや漫画雑誌を収集していたことから、現実と空想の区別がつかなくなり犯行に及んだとマスコミが報道し、ここから「おたくは犯罪者予備軍である」という偏見が長らく世間に蔓延することとなった。

 そんな熾烈な偏見と差別に晒されながらも好きなものへの愛を曲げなかった「おたく」たちには、一種のプライドがあったように思う。「おたく」たちにもきっと先述の「サブカル世代」と似た、「クラスの輪に入れない」「最近の話題についていけない」といったような「自分はメインにはなれない」という被虐意識があっただろう。しかしメインになれないという自虐と同時に、「おたく」には、好きな作品への熱情と知識量なら誰にも負けないという自信があった。長らく被差別的存在であったことがむしろ反動となって、彼らの並みならぬ探求力に余計に拍車を掛けたような気もする。「サブカル世代」のみうらじゅんと対比して、「おたく」の先導者のひとりを挙げるなれば、「オタキング」こと岡田斗司夫氏の顔が思い浮かぶ。

 しかし岡田氏は2006年、新宿ロフトプラスワンで「オタクイズデッド」と題して繰り広げたトークの中で、このような発言をしている。

もうオタキングというのもいないわけですよ。オタクがないわけだから。

 岡田氏は様々な仕事の中で、当時(2006年)20代の自称「オタク」たちと関わってきた。しかし彼らは、ある声優が大好きだと言いながらも彼女をイベントに呼ぶ勇気はない、コレクションはすべてネットや売店で買ったものだけ、等々、その愛に何か突き抜けた――狂気じみた熱量がないのだった。「萌えが分からない」と言われると「オタクとしてけしからん」と批判するような排他性がありながら、一方で「アニメが好きな自分を分かってほしい」という強い承認欲求をも彼らは持っている。そんなイマドキの「オタク」を見て、岡田氏は「オタクは死んだ」と感じたという。勿論この場合も、「アニメや漫画が好きな人はいなくなった」という意味ではなく、「自分(岡田氏)の世代のような『おたく』はもはやいなくなった」という意味で、である。

 岡田氏の言葉を借りるなれば、「自分の好きなものは自分で決める強烈な意志力と知性」の持ち主こそがおたくだった。それは一度好きだと感じたら、自身の感性と嗅覚だけを頼りに突き進んでいくという一種の矜持だった。対象は何も漫画やアニメでなくたっていい。SFでも、コンピューターでも、ミリタリーでも何でも良かった。そしてそれが世間に価値が認められているかいないかなんて、おたくにはまるで関係のないことであったはずだった。

 しかし今の「オタク」像は、それらがすべて逆転していっている。日夜SNSの中でキラキラと輝く人々を卑屈な思いで眺めていた彼らは、早く自分も「何者か」になりたかったのだった。そんな時、好きなことに脇目もふらず猪突猛進する「おたく」像が、何だかカッコ良く見えた。彼らは「おたく」と呼ばれたくて、アニメや漫画を沢山見ようとする。アニメや漫画が好きで堪らないから「おたく」と呼ばれた(呼ばれてしまった)人の姿は、もうそこにはない。ロボットアニメの系譜を辿るために代表作を年代順に観ていくだとか、一監督の作風を各作品で比較するだとか、自身だけの文脈でカルチャーの海を泳ぎ渡り、自身だけの体系付けを行うという試みはもはや放棄され、そのシーズンに放映、発売されている商品を数ばかり消費しようとする。

 沢山観ること、沢山買うこと――今や「おたく」とは最も勉強した者ではなく、もっとも消費行動を行った者の名称となった

 これで自分も何者かになれただろうかと、彼らは周りを見回す。そして未だ健在する「オタク」への偏見に、怒りを露わにする。「オタクは気持ち悪いものなんかじゃない。仮にそうだとしても、自分だけは例外だ」。もはやそこには、自分はメインになれなかったという自虐すらない。ただ「好きなものに対してこんなにも熱心な自分は認められるべきだ」という自己承認欲求 エゴ が暴走しているだけだ。世間の非難なんて「おたく」にはどこ吹く風だったはずが、世間が認めてくれないことが今の「オタク」には我慢ならない。彼らが好きなのは作品そのものではなく、その作品を好きでいる自分自身だった。作品の価値を認めてもらえないということは、自分自身の価値を認めてもらえないということと同義だった。

 「おたくだからといって偏見の目で見ないでほしい」という言説は何だかチグハグだな、と思う。間違っているのは偏見の目で君たちを見る世間ではない。「おたく」という肩書を偏見をもって乱用している君たちなのではないか。

 

 

 緊迫した、しかし意味のない言葉で満たされた現代で、軽薄な「サブカル的態度」はもはや危険になった。自由な文化探求は強迫観念じみた消費行動に取って代わり、自虐とプライドの狭間で名乗られていた肩書――ともすれば差別意識と嘲笑のもとに押し付けられていた蔑称――は、承認欲求を満たすための小綺麗なファッション、自分語りのための都合の良い道具 ツール と化した。

 かつて好き勝手にそれらを自称していた私は、そんな実情を肌身で感じて、そこそこの反省と共に「サブカル」や「おたく」という言葉の乱用をやめた。それらの内実がすっかり変わってしまい、さらに言葉自体がますますデフレーションを起こしている今、「サブカル」も「おたく」もスッカラカンのもぬけの殻になってしまったように感じられた。

 そんなことを言いながらも2020年、YouTubeを始めた折に、私には再び肩書きが必要になる。「ジュネ」という安易なペンネームはあるけれども、チャンネルで前面に押し出したかったのは私個人という偶像 アイドル ではなく、紹介しているカルチャーそのもの、また主流 メイン とはとても言い難いカルチャーを自信を持って愛する態度だったから、そうした姿勢(大袈裟に言えば生き様)を視聴者が明確につかめるような、分かりやすい言葉が要されたのだった

 そうして私は、「好事家 こうずか 」を名乗るようになった。

 使い始めてから、この言葉があまりにしっくりくることにちょっぴり驚いている。「好事家」とは、手元にある新明解国語辞典をそのまま引用するなればこういうことだ。

こうずか【好事家】

〔「ず」は「事」の唐音〕普通の人には何の興味も無いような物事に関心を寄せる人。

 要はただの、かつての「サブカル世代」「おたく」なんである。しかしあえてそれらを名乗らないことが、自身の価値観が世間のそれと違っていること自体は自覚しているけれども、「サブカル世代」「おたく」がやりがちだった自虐には絶対に走らない、という高飛車な態度の表明に繋がっていく。好事家だって孤独なのだ、いつも社会一般の価値観から蚊帳の外にされ続けているのだ。しかしそれを「孤高」として、時に必要以上に誇ろうとする意固地な足掻きが、好事家という言葉には見え隠れしているように思える。「私は世間には迎合しません」と斜に構えてはいるのだけど、結局は本当は、世間に迎合できないだけの不器用さんなのだ。それを自嘲するのが「サブカル世代」で、そのせいで嗤われていたのが「おたく」だった気がするけれど、「好事家」はプライドの高さ故に、反対に世間を嗤ってみせるという傲岸不遜っぷりを発揮する。

 そう、好事家とは、かつての「サブカル世代」「おたく」的な属性を持ちながら、そのメンタリティはまさにイマドキの「サブカル」「おたく」なのだ。

 ただの副次 サブ にすぎない立場を特権だと盲信できる愚かな幸福にひたりながら、同時に自身が何者でもない、名もない俗者であることを自覚しているからこそ、虚勢を張る。好きなことへの愛は確かであるから文化探求に努めはするが、未熟さ故に手法も頭も至らない、しかしそれに気が付かないまま薄っぺらい知識を披露しては悦に入っている――そんな自身の在り方に、好事家という言葉はとてもピッタリな気がした。そしてこの言葉には、かつての「サブカル世代」や「おたく」という言葉にもはや内包しきれなくなったイマドキの浅学者にわかたちを受け入れる器量もあるようにも感じた。憧れは人一倍、知能は半人前という事実を自覚しながらも自虐しきれない幼稚さを抱えて、それの何が問題だというのだろう。みうら氏も岡田氏も、その発言の中で「イマドキの〇〇はけしからん」という否定は一切していない。自分たちのような人間は今後いなくなるだろう、という寂寥をただ語っているだけだ。きっと今後も「サブカル」や「おたく」と言う言葉は乱用され続けるだろうが、一方でその形骸化に辟易した人たちへ、「好事家」という名のプライドを、私はここに用意しておきたい。

 

 賢者になれる才覚はない。しかし賢者を夢見る愚者に徹せるほど、私たちは謙虚な人間にはなれない。自身は賢者を夢見る愚者だと謙遜する素振りを見せながら、本当は自分は賢者に違いないという幻想を捨てきれずにいる。

 賢者に憧れる愚者に憧れる賢者になりたい、ただの愚者。しかしそれでも多分構わない。もはや擦り切れた古着となってしまった「サブカル世代」も「おたく」も脱ぎ捨てた先の、新たなファッションがそこにある。そして好事家の好事家たりうる矜持もきっと、そこにあるのだろうと思う。

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Photo:サクヤシキ

第四書簡「花のエロティカ」

 自然物より人工物が好きだ。あらゆる動植物のすがたかたち、万物の現象を美しいと感嘆する心はあるけれど、それが今まさに脈動している天然の結果なのか、そこから一度切り離された遺物、あるいは模造品 レプリカ であるかどうかには執着がない。遥かな中秋の空よりは、どちらかと言うと経年の教会天井画を見上げていたいし、満天の夜空よりも天象儀 プラネタリウム で星を眺める方が何故かロマンチックに感じる。爛漫の花畑の香気にまみれるよりも羽毛の西洋座布団クッション の山に埋もれて憂鬱に暮れていた方が詩人になれる気がするし、ちょこまかと煩わしい動物を飼うよりは、黙する標本を買って眺めている方が愉快だ。求めるのは「心地良さ」ではなく「精神の快さ」だった。流転する営みへの賛嘆より、神経質な偏執によってあらゆるを意図的に手配した箱庭的世界での吟詩こそ、我が信念だという気がする。

 こんなことを言うと、自然物は永遠ではなくいつか朽ちるからこそ良いのだ、という声が聞こえて来そうだ。しかし「移り変わるものこそ美しい」という言い回しは聞こえこそいいが、まったく論理として成立していない屁理屈である。

 日本文化に親しみがある者であれば、「はかなさの象徴」と聞けばまず桜を思い浮かべる者も多いと思われるが、「桜は散るからこそ美しい」という言説はあまりに短絡的というものだ。桜が美しいのは、桜が美しいからである。ほの白い、やや灰がかったようにも見える絶妙な淡色や、散り際がまるで夢幻の吹雪のようである様が人の情感を掻き立てる装置となっているだけなのであって、それ以上でも以下でもない。重要なポイントは、古来より日本人はこの桜にある概念――「無常」の感を重ねてきた点にある。「無常」とはご存知の通り仏教教義で、一切のものは永遠ではなく、人の一生もまたはかなく虚しいものであるとする思想性だが、日本では世の中が非常に不安定であった平安時代から鎌倉時代にかけてこの観想が広く浸透し、以降の我々の文化性や精神性に大きな影響を及ぼしてきた。この「無常観」が桜の派手な散り様によって想起させられるので、我々は桜に対してただ「美しい」と感じる以上の、より深く切ない「もののあはれ」の感を抱くに至るのである。桜と無常観のイメージリンケージは、例えば『伊勢物語』82段「渚の院」にあるこの有名な歌にも端的に表われている。

 散ればこそいとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき

 「桜は散るからこそ美しい」という上の句の言い回しばかりが現代では抽出されてしまっているのであるが、この作者は(作者は未詳である)何故そう思われるのかということについて下の句で「この辛い世の中にはずっと永遠に存在するものなどないと感じさせられるからだ」ときちんと詠っている。つまり「桜は散るからこそ美しい」という言説を正しく直せば、「桜の美しい散り様はこの世の無常を思い起こさせるからこそ、情緒を掻き乱されて一層感じ入るものがある」となる。「桜の散り様」と「美しさ」の中間には日本人の「無常観」という重要な導管パイプ が挟まっているのであり、このパイプを無視しているから「桜は散るからこそ美しい」というレトリックには論理の飛躍を感じるのだ。

 「移り変わるものこそ美しい」という言い回しは美少年愛好においても、「少年という現象は一過性のものであるからこそ美しい」というような形で乱用されている。過去に私のチャンネルでは、中島梓栗本薫のエッセイ『美少年学入門』を取り上げたが、中島はその冒頭の「少年派宣言」(もとは1978年10月『COMIC JUN』創刊号に掲載された声明文)において、少年とは「滅び」の代弁者であると説いている。それを彼女は「子どもと大人のあいだの一時期の男性」*1を意味しているのではなく、少年という一回性の生物が「この世の生物にすがたをかえてゆく」*2までの有限な期間だと言うのだが、そのどちらにせよ少年はやがて「滅び」ゆくものなので、だからこそ愛でるのだという。

 この「美少年の刹那性」については、ギリシア悲劇や日本の古典においても滔滔と説かれているが、その言い分が成立するためには第一に愛でるに足る「少年」がいなければならない。まず美少年がいて、その美しさに心酔するからこそ、その美がやがて終わりを迎えるのが惜しまれるのだ。これがただの(もしくは残念な)「少年」であれば、誰にも何も悔やまれることもないのではないか。「移り変わる」ことは「今、愛でる」理由にはなるが、その対象が「美しい」理由そのものにはならない。この場合は、「移り変わる」ことと「美しい」ことの前に、「愛でるに足る少年が存在する」という前提が必要なのだ。

 というワケで「移り変わるからこそ美しい」という言説は、そこに至るまでの前提あるいは思想性を必要としているので自然物そのものへの純粋な嗜好の根拠とするにはイマイチ脆弱で、自然物礼賛の十分条件にはなりうるかもしれないが必要条件にはなりえないものである。そもそも人工物だって、いつかは必ず朽ちるのだ。人が地上で勝手をする前からただ存在した自然の盛衰を傍観しているよりも、人が叡智を集め懸命に生み出した成果が無惨にも破壊されてゆくやりきれなさの方が、痛烈に胸に迫るものがありはしまいか。

 しかし以上の私の屁理屈は、生花を前にして勢いを失う。実は花に対してだけは、図らずもその生気に揺さぶられてしまった経験が無きにしも非ずなのである。

 

 それまでの私は例に漏れず、花もまた自然物である必要性を感じたことがなかった。むっとするような香りを放つ生々しい薔薇よりも、少女漫画の背景に舞う白黒 モノクロ の薔薇の無重力を愛したし、銀細工の薔薇の硬質な冷たさの方がずっと好ましかった。以前私のチャンネルで特集した中井英夫は、植物学者の血を継いでいたが故か、その自宅を薔薇で埋めつくし毎年「薔薇の宴(本人がそう称していた)を開いていたが、一方の私はそんな細やかな情緒はおろか、植物を1ヵ月以上枯らさずに育てられたためしがない。言われた通りに水をやって、陽光に当てているはずなのに、あらゆる植物が日に日に生気を失ってその内木乃伊 ミイラ になってしまうのだからやってられない。

 私の家系には、花が好きな人が多かった。それは花の意匠があしらわれた服飾品が好きであったり、園芸趣味の一環であったりと様々だったのだが、皆、花の色彩や形様に惹かれた結果のように思われた。母親も例に漏れず活け花が好きで、師範資格を取るまで長らく華道教室に通っており、幼少期の私は毎週教室に連行され、しかしすることがないので畳部屋の片隅で退屈しのぎに絵を描いていたのを覚えている。絵を描きながら、この切り花が何だの花ぶりはどうだのと師範と母親が言葉を交わしているのを横目に見ていたが、彼女らの感嘆に共感することは一度もなかった。それは私が当時まだ、花というエロティカを理解するための実体験を持ち合わせていなかったからであった。

ja.wikipedia.org 花とは、植物の性器である。「まァ綺麗なお花」と言ってるのは「まァ綺麗なおペニス」と言ってるのと同じなんである。花をプレゼントする行為が求愛に結びつくのは、それがセックスの暗喩メタファ だからだ。しかし果たして性器そのものは、本当に美しいナリをしているだろうか? 性器を目にした時に湧き上がる情動は、そこに付随するイメージが自身の中で連想されるからであって、性器の形それ自体に由来するものではない。性器を賛美する人は官能の悦びを知る人であろうし、そこから目を背ける人は性の懶惰を受け入れない人だと思われる。性器が猥褻物として法に明記されている現代において、それを露わにすることは必然的に「社会的タブーを犯す」という背徳の悦びが付随するし、それを目にすることもまた然りだ。
 しかしそのような各々のバックグラウンド、社会倫理を全く排した状態で、性器それだけが目の前にあった時、胸中に生じる感情は概して特別なものではないはずだ。そこには別段鮮やかに彩られているワケでもない、ただただシュルレアリスティックな形状の肉塊、ともすればグロテスクな異物が転がっているだけである。

 花も同様だ。その色かたちは、我々ホモサピエンス含め動物のそれよりは多少バリエーションに富んだ華やかさがあると思われるが、結局それに付随するイメージがなければ、その真なる美しさ――エロティシズムに接近することはできないのだった。

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バイロスの蔵書票


 私が花というエロティカを解する経験を得たのは、ほんの3年ほど前である。急性虫垂炎を発症し、痛みにのたうち回りながら病院に辿り着いた私は、その日のうちに入院を強いられることになってしまった。かねてより楽しみにしていた大きな旅行をふたつもキャンセルしなければならなくなり、またその日暮らしの放蕩生活を送っていた根無し草デラシネ にとって入院費用は相当な懐の痛手でもあり、たかが虫垂炎、されど自分にとってそれは驚天動地の大事件であった。日頃の不摂生のせいか症状はなかなか改善せず、寝ても起きても腹が痛い、食事を読書も寝返りさえも腹が痛くてままならないという地獄に、私はあっという間に憔悴してしまった。つかの間の夢見さえ漂白してしまいそうな清潔すぎる寝台に横になっていられず、ヨタヨタと部屋を這い出てみるのだが、そこに走り回っているナース服の母性たちがこちらに美徳の矛先を向ける嫌悪感に耐え切れず、またスゴスゴと部屋に帰ってゆくという愚行を何度も繰り返した。気分はもはやヒポクラテス不夜城の囚人……不純な輝きと不潔な体臭で満ちた日常が恋しくて堪らなかった。どのくらい困憊していたかといえば、院内のコンビニまで歩けるようになった折、店頭に並んだ雑誌の表紙の色鮮やかさに胸打たれ涙してしまったくらいである。

 その時事態を聞いた知人から連絡が届いた。花でも届けようか、という親切であった。私は「ベッド脇に花を飾ってそれに癒しを求めるなぞ我が美学に反する痴態である!」などと憤慨して即座にお断りしたのであるが(実に失礼な話だ)、一方でふと、この荒漠とした視界に花の一輪でもあったならどんなに心安らぐだろう、と考えてしまったのも事実なのであった。

 そう思い始めると、もう止まらない。かのハンス・ベルメール(←動画で特集済みなので未見の好事家は是非)は人形制作の傍ら銅版画も多数残していて、無数の曲線が裸婦や性器を錯覚させるその特異な作風は実にエロティックなのであるが、それに似て、花のかたちと官能のかたちは無限にオーバーラップすることに、突如私は気が付いた。それは花が特定の何かに似ている、ということではない。脈拍が波形をとるように、情動にもまた波形があり、それこそは花の曲線だということを知ったのであった。脳内に花を思い描けば描くほど、それはLSDの寄せては返す幻覚のように広がって、色彩の毒々しさに惑わんばかりであった。かねてより花の香りを良い匂いだと感じたことがなかったが、それは快適なフレグランスではない、扇情の媚薬なのだと、エロスの香りだったからだと思い知らされた。そしてこの花というエロティカは、生花――生々しい臭いと肉感をふりかざす自然物であって初めて完成するに違いない

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ハンス・ベルメール《踊り子》

 普段タナトスの影あるものばかり愛する私が、何故その時かくも花というエロティカを所望したのか。それは虫垂炎でお腹が死ぬほど痛かったからである。要はとてつもなく不健康な状態にあり、それによって憔悴し、自身そのものがタナトスの側にいたからだった。そうして初めて、私はエロスのかぐわしさを知った。エロスとは性愛ではない。「生の欲動」そのものだ。「生」への欲情を煽る花のエロティシズムに、その時の私は身震いしながらも、抗えきれない己を発見したのであった。そうか、花を愛する人デストルドーに牽引される己を知り、そして花を前にしていつもこの熱い戦慄にリビドーを取り戻していたのだ。そうでなければ――「まァ綺麗なおペニス」と言っていることにも気が付かずただ花をチヤホヤしているだけならば、それは自分が生きているか死んでいるかも分かっていない、ただのとんまに違いない。

 

 当初数日で帰れると言われていた入院は、結局1週間と数日を要した。いつまでも痛みの引かない術後の傷を抱え、這う這うの体で帰宅する最中に、家の垣根に爛漫と咲く山茶花を見つけた。

 そこで自分がどれほど立ち止まっていたかは、もう記憶にはない。

 

*1:中島梓(1987)『美少年学入門』集英社文庫, p.12

*2:同上, p.10

第三書簡「言葉の標本箱」

 漢字が読めない。

 大した取り柄のない私が唯一胸を張れる情けない自負とは「読み間違いで掻いた恥の数だけは、誰にも負けない」である。

 漢字が読めない。私のYouTube動画には、たまに口の動きと発音が連動していないカットが紛れ込んでいる。このことにすでにお気付きの方がいたらその洞察力には驚嘆するが、実はあれは編集中に漢字を読み間違えていることに気が付いて、後で音だけ録音し直し、映像にツギハギしたカットなんである。自分で書いた原稿を自分で読み間違えているということである。馬鹿である。

 学生の時分、一番の得意科目はずっと現代国語であったが、漢字の読みだけはてんでダメだった。現代文読解がどれだけ得意でも、漢字の書き取りでどれだけ点数を稼いでも、読みで全部ポシャにするのが試験での毎度のお約束だった。読めない漢字があまりに多いので、そしてあまりにこっぱずかしいので、私も自身が犯した失態をいちいち覚えてはいないが、辛うじてまだ記憶している最近の失敗談をここで打ち明けてみよう。

 「雑木林」――何と読むか? こんな熟語は小学生でも読める。「ぞうきばやし」である。

 しかしこれを私は生まれてこのかた20年以上、まさかの「ぞうきりん」と読んでいたのである。

 動物園でもあるまいに! まるで景色はサファリパーク。静かな木立の風景が突如『ライオンキング』の世界に豹変である。

 

 何故こうも漢字が読めないのかと、頭を捻ってみたことがある。ただの勉強不足、オツムが足りないという悲しい現実はひとまず横に置いておいて……ある日ふと思い当たったことがある。

 私は昔から人と話すことが大の苦手で、これまでの人生、音声コミュニケーションを避けることに全労力を注いで生きてきた。小学生の頃はあまりにクラスメイトと話したくないが故、教室にいる間は勿論、通学の最中ですらひたすらに本に噛り付いていたので、当時のあだ名は二宮金次郎であった(歩き読書は危険なのでやめましょう……私も校門で先生に見つかっては怒られていた)。決して私は、読書熱心な子供だったワケではない。人の「目の前の作業に集中している人間には声を掛けづらい」という心理を利用して、携帯電話もない環境でその状況を発生させるため、本というツールを手にしていたにすぎない。

 2週間に1度、母親が連れてくれる地元の図書館で、私は武器の選定に精を出した。これからまた2週間、学校生活を再び耐え忍び戦い抜けるか否は、ここで良い本を選べるかどうかにかかっていたのであった。当時すでに日本の街並みの猥雑さや生活の殺風景に辟易していた私は、徐々に西洋ファンタジーにのめり込んでいく。『デルトラ・クエスト』『指輪物語』『ダークエルフ物語』『ドラゴンランス』など、鎖帷子や板金鎧の金属音と魔法の炎できらめく別世界に連れて行ってくれる本を片っ端から手に取っていたと記憶している。この時の西洋趣味が今現在のゴシック趣味へと繋がった話は、500人記念動画で語った通りだ。


 ただ私がそうしたファンタジー小説の物語をきちんと理解して楽しんでいたかといえば、実はそうでもない。私はそれらに心の原風景を求めていたので、もっぱらストーリーは二の次で、登場するモチーフひとつひとつに憧れては溜息をついていたのだった。宝石をちりばめた王の黄金の 胴締 ベルト 高貴な騎士 パラディン の血濡れた 長剣 ロングソード 翼竜と獅子が縫い取られた 外衣 タバード 異端者 ジャウール の遺した写本、 妖精 エルフ の忘れられた禁苑――それらが如何に綺羅綺羅しく思え、暗く塞いだ魂の牢獄にまばゆい光を反射させてくれたことか。小説に美しい異世界 こいねが った私は、徐々にそこに自身の灰色の心象風景を彩どってくれるモチーフを求めるようになった。口に発して使うためではなく、色彩のない世界を装飾するための 蜻蛉玉 ビーズ を探すようになった。これが私の「言葉の蒐集癖」のはじまりであった。

 

 ひらがなには色――それもほとんどドぎつい原色が付いているので、いろとりどりの芋虫のように見える。例えば「」は赤色、「」は黄色、「」は緑色、「」はまた黄色で「」は紫色……という風に。文字や数字に色が付いて見えたり、音を聞くと色が思い浮かんできたりする現象を共感覚というそうだが、私は別に色が頭に浮かぶだけで見えるワケではないし、色が付随しない文字もあって何ともいい加減な感覚なので、どうも共感覚とは違うらしい。ひらがなは確かにいろかたちは愛らしいが、柔らかくて頼りなくて何だか標本には向かないような気がして、積極的に蒐集しようと思えない。

 一方のカタカナは、標本の対象である昆虫そのものよりも、むしろ展翅のための銀ピンだ。それらはただの無色の記号、意味のないランダムな数字の羅列と同じで、いくら眺めても感慨のひとつわかない。カタカナの多い文章は言葉の合間に銀線が張り巡らされているようで、語感がパラついていると感じた時に引き締めてくれる心地良さもあるが、空想の可動域を狭めてくるような鬱陶しさを感じる時もある。

 やはり至高の美しさを誇るのは漢字である。それは天上の蝶であり、夢中の蛾であり、極彩の甲虫である。杉松のしなやかさと金銀の冷たさを持ち、錦繍のように繊細でありながらますらおのごとく雄々しく頑強で、画数が多いほどに私はその線の隙間に細い銀ピンを刺し込みたくて堪らなくなる、お前を標本したいという衝動が抑えられなくなる。

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こんな感じ……。

 煩い教室の片隅で、代り映えのしない通学路で、息の詰まるような自宅で――たったそれだけで構成されていた世界の中で、私は書物を手に取った。そして、その中の異世界に飛び交う無数の活字の群れの中に魅力的な標的を探し出す遊戯に耽った。今も残るノートの罫線の上には、そうして集めてきた数多のきらびやかな言葉たちが静かに並んでいる。彼らには死んだ昆虫のごとく、音が付随しなかった。それらは私にとってコミュニケーションのために揃えた道具ではなかったからだ。それらは発語するためではなく、書かれ、愛でられるためにあり、物事を説明するためではなく、世界を装飾するためにあった。私はそんな音のない言葉たちの、花の化石のような、古い銀器のような、乾いた静けさをこそ愛した。世間ではそれで恥を掻くのだという事実を、私は不幸にも(幸福にも?)長らく知らないでいた。

 

 長野まゆみの著作に『ことばのブリキ かん という本がある。精美な言葉遣いが広く支持を受けている長野が、「食べ物」「鉱石」「色彩」「天文」など各項目に分けて、自身の好きな固有名詞を並べて編んだ、小さな字典だ。例としてその一部をここに少し引用してみよう。

 例えば「花ぬすびと」と称された植物の項目には、ハリエンジュ 満天星 まんてんせい サルトリイバラ夜合樹 ねむ といった言葉が並ぶ。「ねむ」なぞは「合歓」と書くのが普通だが、「私は夜合樹と書く方が好きだ」という作者のコメントがわざわざ添えられている。また「卵から生まれた少年」と称された鳥の項目には、 不如帰 ホトトギス 斑鳩 いかる 翡翠 小啄木鳥 こげら といった言葉が並ぶ。カタカナもひらがなでもなくあえて漢字で綴るところや、そのどれもが小型の端正な鳥であるところに、ヘッセの『デミアン』に影響を受けたという、鳥と少年のイメージが強く結びついた長野らしい感性が垣間見える。この字典はまさに、彼女が蒐集したお気に入りの言葉たちを大切に仕舞った「ブリキ罐」なのである。

 私は長野まゆみの理科趣味や理想主義には共感しないが、彼女の言葉への偏執的なこだわりには大いに同族意識を覚える。私なら植物の項目には、 鎧草 アンゼリカ 月桂樹 ローリエ 銀盃花 ミルテ 迷迭香 ローズマリー などを並べるだろう。鳥……にはあまり興味がないので、動物の項目として、そこには石竜子 とかげ 金花蟲 ハムシ 白豹 アーミン あたりを挙げてみよう。それから私にとって一等美しく見えるのは建築物や服飾を示す言葉で、字典を編むならばこのふたつの項目は外せない。建築物の項目には、 方尖塔 オベリスク 天文台 オプセルヴァトワル 回廊 ガレリイ あたりを収め、服飾なら 頚飾 ネックレス 箍骨 クリノリン 頸垂帯 ストラ ……また金襴緞子と書いて「ブロケード」「ダマスク」と読ませたい。

 私は長野のようなすずやかな言葉よりは、銀細工のような冷厳さと、ゴシック教会のような荘厳さを湛えた言葉が好きだが、そのおごそかさのためには、上記のようなペダンチックな仮名を振っても決して滑稽に成り下がらないような重厚な「形」もまた重要である。美しい言葉には、美しい「綴り」も必要不可欠なのだ。しかし私たちの音声コミュニケーションは、概してその美しさを取りこぼしてしまう。発語に綴りなんて関係ないからだ。

 

 言葉がその厳格な綴りによって内包していた美しい「音なき音」。衣擦れのような、鈴の鳴るような、流氷が溶けるような、 虎落笛 もがりぶえ のような……耳ではなく、胸の内にこだまして聞こえてくるそれは、口にした瞬間にただの雑音に成り下がる。どんな玲瓏な言葉も、発語によって展翅に失敗した蝶のごとく崩れ、野卑な鼻息やけたたましい笑い声と一緒にドロドロに混ぜ合わせられてしまう。

 私は口をつぐむ。現代の私たちは自身の話し言葉をそっくりそのまま文字に、文章に落とし込むことができるけれども、かつてはきっとそうではなかった。話し言葉が決して書き言葉とリンクしなかった、そんな神聖な時代があったのだ。私は決意する。手元にあるこの言葉の標本箱を、決して安易に開けるまいこの硝子蓋の奥に詰まった美しい沈黙を決して穢すまい、と。

 そうして会話を拒否し続けて、いつの間にか私は、立派な「コミュ障」になってしまった。


 そんな言葉への偏執的な感性が、「雑木林」を「ぞうきりん」と読ませたのだと言ったら、流石に言い訳が過ぎるだろうか。「雑木林」という文字列からはサーカスのような妖しさと、背の高い何かが連立している様子が連想されて、何だかゾウとキリンと読めるような気がしてしまうのである。勿論、そんな戯言が誰にも伝わらないことも充分に理解している。「ぞうきりん」の誤りによってあの時現場に沸き起こった笑いに、私も一緒になって笑っていた。所詮、読み方なんてどうだっていいのだ。書き言葉の美しさ以上に言葉の美しさは在り得ないのだから、話し言葉しか扱えない場面なぞ下衆な態度で臨んでおけばいいのだ。どうだっていい下衆いことにだけは、人間はいくらだって笑っていられる。

 話すことを知らないまま、自身の大切な書き言葉だけで通じ合えたなら、僕たちはどんなに美しいいきものになっていただろう、と時々思う。互いの標本箱を見せ合って、そっと微笑みだけを交わすような。

 そう思いながら、私は今日もカメラの前で、低俗な話し言葉をまくしたてている。

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