ケー・ドルセー41番地

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毎月月末、館より届く鈍色の便り

第25書簡「落伍者の夜間学校」

 二十歳も少し過ぎた頃、私は遅まきながら家出同然で実家を出たのであるが、煙草と数着の衣服だけが入ったトランクケース片手の栄誉ある独立は、当然のごとくその後しばらくの貧乏生活を私に強要した。

 空の冷蔵庫を開けては途方に暮れたり、ようやく部屋を借りられたと思った矢先に職を失ったり、瓦斯ガスが使えず真冬に冷水で身体を拭ったり、振り返ればそこそこの綱渡りもして来たような気もするが、左程へこたれもせず案外ケロリとしていたのは、先人の極貧を多少見知っていたからだろうと思われる。

 稲垣足穂は丸一日水かパンひときれしか口にできず、拾ったシケモクを吸って失神していたし、内田百閒は「錬金術」と称して借金を借金で返す日々を送っていたし、坂口安吾は家財もろもろ差し押さえられても『負ケラレマセン勝ツマデハ』と国税庁を訴訟までしていた。青春時代に愛読した文豪たちのそうした困窮の小話エピソードを振り返ったり、鳩の餌で食い繋ぎ、ニューヨークで初めて個展をした際には電車賃を浮かすために巨大なキャンバスを担いで何駅分も往復したという草間彌生や、借金して「海の家」を借りたり、出世払いでイタリアン・コンチネンタル・スーツなどをオーダーしていた横尾忠則など、当時好きこのんでいた画家アーティストのことを思い返したりして、「武士は食わねど高楊枝」────それこそ梶井基次郎が自らをそう称していたという「貧乏なディレッタント」を、私も居丈高に自称していた。

「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要とし、より多くを欲しがることだ」

 とは、「世界で一番貧しい大統領」として知られたウルグアイホセ・ムヒカ元大統領が、2012年の国連の「持続可能な開発会議」にて行ったスピーチの一節らしい。老子の「知足者富(足るを知る者は富む:満足することを知っている者は、精神的に豊かで幸福であるということ)」にも通じる言葉だが、物欲にまみれた私はそんな高尚な精神を持っていたワケではなかった。ただ、以下の動画にあるような戦後まもなくの名もなき人々の逞しい姿なんかを見聞きして、成程彼らの苦労はこういうものなのだろうかという自己実験をしていた(させられていた)に近い。

 そういえば、上村一夫の『同棲時代』や林静一の『赤色エレジー』に描かれているような男女カップも、風呂も台所もない木造アパートで暗く煮詰まっていた。

 

 正座した後のような痺れが何日も脚にあるので調べてみたら、どうやら脚気の初期症状らしいということが何度もあった。「江戸煩えどわずらい」に掛かるとは私もいよいよ東京の一員になりつつあるワケだと、そして将軍や公家に多かったこの死に至る病に見舞われるとはすなわち私も高貴なる者である証左だと、当時は随分と愉快でいたが、まこと若さ故にできた貧乏だったと思う。

 かつて第十書簡において、その頃新宿にいたく憧れていたことを綴ったが、家出によってその新宿にいつでも立ち寄れるようになったことが、胸中にあらぬ希望を抱かせていたのかもしれない。地に足の着かない────足が痺れて着けることができない────夢遊病のような日々だった。

「そうしながらも、自分は自分を信じるちからが大きかったため、いまある生活がきっと自分を善くしてくれることを考えていた。茶ものめなかった旅行中のドストイエフスキイや、いつも愛と餓えとの永い彷徨をつづけたヴェルレエヌ、ミレエの窮乏、ミケランゼエロの苦しみ、そうした先人の道程を考えるとき、私はかえって指してゆくところに明るみ光り望み生命いのちを感じた。まだ来ない幸福や喜びや芸術の出生やを、私はあたかも一つの山嶽を前方に凝視するような心持で、それに近づくために忍ばなければならないもの一つ一つに、耐えゆかねばならないと感じた」

 金に窮していたはずなのに、懐に幾何か余裕のできた今よりも、当時の方が余程酒を呑んでいた。アルバイトで得たなけなしの日銭を、その晩の内に使い切ることも茶飯事だった。

 そこには、永井荷風太宰治の放蕩を真似てみたかったという幼稚な羨望も隠れていなくはなかったが、心持ちは生真面目な学徒のそれだった。それまで極力人との関わりを避け、デ・ゼッサントを師として家に籠ることを是とするあまり第12書簡「貧しさと洗練」参照)精神の自閉症に陥っていた自身にとって、酒場で会う人話すこと全てが、ツンとした皮脂の臭いと熱を帯びた、刺激的で、大いなる学びであった。

 酒場は真夜中の学校だった。昼夜の一食を抜いて、ウヰスキー一杯の授業料に充てる価値は、事実あった。

 

 

 

 貧乏すると、腹は勿論だが、何より魂が飢え乾く。

 夕陽がビルの地平線の向こうにすっかり隠れた頃になっても、心の空腹を満たすものが欲しくて、一向にウチに帰る気が起きない。街行く人の喧噪は大きくなり、呼び込みの声が丁々発止と飛び交うようになり、風俗の宣伝車はけたたましく、溝鼠ドブネズミはゴミ箱の蓋を跳ね上げパチンコ玉の速さで瀝青アスファルトの上を駆け抜けてゆく。「腹減ったなァ」という独り言が口から洩れる。これが夜の始業の振鈴チャイムだ。

 煌々と明るい電光看板の数だけ、教科書がある。私達は頭上に輝く時間割ネオンを見て、気が向いた授業を好きに受けることができる。

 焼酎一杯で出来るだけ居座りたくて、なかなか口を付けられない洋杯グラスに、水滴は透明な音符のごとく結露して、溶けた割氷がカランと鳴る。そこに音楽の理屈を発見する。

 客が吐いた煙草の紫煙の中から、自らを語る言葉を拾い、カウンターの隅で言い合いをする男女の痴話喧嘩から啖呵の切り方を学ぶ。くだを巻く中年サラリーマンの横顔に父を見て、酩酊して街の猥雑な景色が瞼に揺らぐ、そのまどろみに母を知る。

 他人ひとの語りに一秒でも長く耳を傾けることが、一枚でも多くの小銭を胸中に貯金する最善の方法だ。まこと貧するは幸いである。ない金がこれ以上減ることはない、増えるだけだ。その金は、学校の外では知識だの見聞などと呼ばれている。

貧乏とはひとりで学ぶことのできる徳である。

 Πενία αυτοδίδακτος αρετή. 

────ディオゲネス

アントニオ・マンチーニ《貧しい小学生》(1876)



 

 

 勿論真昼の定食屋や喫茶店にも、教室は開かれているけれど、くも夜間学校への通学を勧めるのは、そこにはすねに傷を持つ生徒達が少なくないからだ。

 人間は明るい、暗いといった「性格」だの、オタク、ツンデレといった「キャラ属性」だので表せるものではない。そうした記号で認識することで自身の仮面ペルソナを使い分けやすくはなっても、杓子定規で人を解そうとしている限りは、その枠の中に収まりきらない未分化のものへの不安や不快感と、永遠に決別することはできない。

 他者とは理解できない不安な存在である、他者とはどこまでも煩わしい不快なものである。脳裏に浮かぶ「地獄とは他者である」というサルトルの言葉を、栄養失調で荒れた胃袋に安いウヰスキーを無理矢理流し込むようにして、清濁併せ呑む。それが人間を知るということだ。

 こうした、昼の学校では絶対に教えてくれないことを、真夜中の学校では教えてくれる。そのような卑俗で不純な教えなぞ不要という者は見よ。昨今の、規則ルールを記した字面ばかり追って人の目を見つめることを忘れた者たちを。記号の組み合わせでしか人物キャラクターが描けない、人生ドラマを知らぬ者たちを。赦すことを説き伏せることだと勘違いしている者を。悪の対岸には必ず正義が存在すると信じ込んでいる者を。

 彼らは皆、架空フィクション空想ファンタジーでしか物事を見たことがない。人間存在の根源は、そんなところにはない。寺山修司はかつて『書を捨てよ、町へ出よう』と説いた。その映画版の有名な冒頭の文句を、私はこうパロディしてかつて自身の動画にて諳んじた。

「何してんだよ? 部屋の暗闇の中でそうやって腰かけて待ってたって、何も始まらないよ。スマホの中はいつでも空っぽなんだよ。ここに集まってる人たちだって、あんたたちと同じように何かに待ちくたびれてんだな。何か、面白いことはないかってさ」

 「スマホを捨てよ、町へ出よう」とまで言うつもりはないけれど、スマホはあくまで次なる人や場所と出逢うための手間を減らしてくれる便利道具として活用したい。文化とは人あってこそのものである。情報も結局、人にまつわることである。人を介さず/解さずして得られるものなど何もない。この事実からは、人間ホモ・サピエンスが社会的動物である以上、残念ながらなんぴとたりとも逃れることはできない。例え私のような、元来の人間嫌いであっても。

 何も、誰かと仲良くしたり、群れたり騒いだりしろと言うワケではない。ただ粛々と夜の街に出て、綺麗事に疲れて凝り固まった脳味噌を酒精アルコホルで柔らかくして、斜に咥えた煙草を鉛筆代わりに、見聞きしたことを心に書き付けておけば良い。酒代という授業料がなくても、拾ったシケモクでも吸いながら辺りを見回してみれば、駅前の広場であったり、公園であったり路地裏であったり、いくらでも学校は見つかるものだ。

 もしかすれば、金が無い方が、手元のデバイスでの調べ物を一旦止めてみた方が、今日も夜闇の何処かから聞こえてくる始業の振鈴チャイムに気が付きやすいこともあるかもしれない。

 

 

 不登校だった君にも、勉強が得意でなかった君にも、素寒貧で入学費が払えない君も、病んで勉学もままならない君にも、学びの門戸を開いている────それが落伍者のための学校だ。それは主婦が暇をしている長閑な住宅街や、子供たちが無邪気に遊ぶ時間にはあまり見かけられない。

 それは多様な人が同じ坩堝るつぼの中でかき混ぜられている、臭くて、猥雑で、何より眩しい、深夜の繁華街の中にある。

「いろんな学校があるんだよ、坊や!何も教科書持って自転車にのってゆく、黒板のある建物だけが学校だって訳じゃないんだよ。感化院が学校だったり、酒場が教室だったりするんだよ」

「母さんの学校は刑務所だった。古くさいコンクリート建ての学校で、同級生はみんな人殺しだの、掏摸すりだの、強盗ばっかり! でも、母さんは刑務所に、英雄だの冒険だのをさがしに行ったんじゃない。まじめな勉強しにいったんです……」

 

────寺山修司毛皮のマリー』角川文庫(1993)pp.115-116