高校生の頃、同級生らとコピーバンドを組んでいた。目の周りを真っ黒に塗り潰して、髪を逆立てて、マイクに噛みついて狂犬病患者のように喚いていた。
ある時、他校のバンドと「対バン」することになり、私はいつも以上に
しかし、確かライブの後だった────そんな気負わないナリをしていた彼らが、楽屋の前で煙草を吸っている光景にバッタリ出くわしたのだった。動揺しなかった、と言えば嘘になる。確かに映画の中の青少年たちは何の躊躇いもなく煙草を咥えていたけれど、それを実際に目にしたのは初めてだったからだ。
灰皿を取り囲む彼らに一言二言、何か話しかけられたのだと思う。私は意気がった恰好をしているのにその輪に混ざらないのが急に恥ずかしくなって、持って来るのを忘れたと嘘をついて、煙草を1本分けてもらった。さっきまでステージで叫んで暴れていた興奮は、その時にはすっかり冷めてしまっていた。私が煙草をぎこちなくふかすことしかできなかったことに、彼らは気が付いていただろう。初めて吸った煙草は、あまりに、あまりに苦かった。
「この世を燃やしたって、一番ダメな自分は残るぜ!」
────大槻ケンヂ『踊るダメ人間』
当時の愛読雑誌は『KERA!』と『SHOXX』で、紙面で輝いているモデルやバンドマンたちの、世間に迎合することを真正面から拒絶するような在り方に強い憧れを抱いてはいたけれど、真似できたのはせいぜい服装くらいで、髑髏がプリントされたジャケットや黒光りする
パンクファッションやゴシックファッションに傾倒し、心理的挫折を経験した過去については、すでに 第九書簡「無個性の欺瞞」で綴っているのでそちらを参照いただきたいが、未だにこんな年齢になっても私が派手な格好を辞められないのは、それを最もやりたかった時期に思う存分できなかったからだろう、と自嘲することがある。それはまるで、青春時代に「モテ」なかったコンプレックスを燻らせて、いつまでも若い女性の尻を追いかけている中年男性のように。若い時に望む不良になれないと、私のように永遠に滑稽な「不良ごっこ」をし続けることになる。
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例として、こんな話を持ち出してみよう。
「1980年代の日本の不良のリーゼントヘアは、1950年代のイギリスの不良の髪型だった」
この一文を読んで驚かない人は、相当な音楽好きか、あるいはその昔相当な「ワル」だった人だ。
「氣志團」といったロックバンドや『ビー・パップ・ハイスクール』といった漫画作品によって、未だ多くの人に「ヤンキー」の髪型として連想されるリーゼントヘア。「リーゼント」とは和製英語で、あのボリュームのある前髪は正確には「クイッフ」や「ポンパドール」、撫でつけた後頭部は「ダックテイル」なんて言うのだけれど、日本で不良の髪型と周知されるより30年も前、このヘアスタイルはイギリスですでに「不良の髪型」として確立していた。
1950年代にリーゼント────敢えてそう呼ぼう────をキメたイギリスの不良たちを、「テディ・ボーイズ Teddy boys」と言う。
1940年代後半。二次大戦の戦場から帰ってきた士官たちに向けて、サヴィル・ロウ Savile Row(ロンドンの高級紳士服の店が集まっている通り。日本の「背広」の語源は、この「サヴィル」が訛ったものだとも言われている)のテーラーたちは、新しいスーツスタイルを考案した。丈が長いドレープジャケット、ブロケードシルクで仕立てられたベスト、ハイウエストでツープリーツの細身のパンツ……ファッションリーダーとして名を馳せていたエドワード7世(在位:1901~1910)の時代をオマージュした、
が、これはテーラーたちの予想に反して全くウケなかった。価格が高すぎたのだ。かくして売れ残ったスーツは格下の店舗に廉価で並ぶ。これに手を伸ばしたのが、新しい刺激に飢えていた、貧しい労働者の若者たちであった。
彼らは上流階級の象徴であった3ピーススーツに身を包み、ポケットに剃刀を忍ばせ、映画館や路上で暴動を起こした。エディ・コクランやビル・ヘイリーなど、遠くのアメリカで興っていたロリカビリーやロックンロールに憧れ、その魅惑の8ビートに乗ってクラブで踊り狂った。そしてロックの帝王、エルヴィス・プレスリーの強い影響を受け、彼のヘアスタイルを真似て、髪をポマードで撫でつけリーゼントスタイルに固めたのだった。エドワード7世の愛称が「テディ」だったので、このリーゼントヘアに身分不相応なスーツを着こなした不良たちは、次第に「テディ・ボーイズ(略称:テッズ)」と呼ばれるようになる。
ジョージ・コックス GEORGE COX の「ブローセル・クリーパーズ brothel creepers」を好んで履いたのもテディ・ボーイズたちだった。日本では「ラバーソール」と呼ばれている、チェック柄の爪先とボリューミーな
今ではパンクスの履物というイメージが強いブローセル・クリーパーズだが、それは50年代以降一度廃れたテディ・ボーイズが70年代に「ネオ・テディボーイズ(ネオテッズ)」としてリバイバルして、当時のパンクスたちと混合したからだ。かのマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドのブティック「レット・イット・ロック Let it Rock」にも、商品としてブローセル・クリーパーズが並んでいたが、それは元はパンクスたちではなく、初期の顧客のメイン層であったネオ・テディボーイズに向けて売っていたものだった。
テディ・ボーイズの説明が長くなったが、これが何故80年代の日本の「ヤンキー」に繋がっていくのか?
今でこそ目新しくも何ともない光景だが、
という在り方は、このテディ・ボーイズが初めて行ったことであった。それは貧富も階級も関係なく、「趣味がイカした奴」が認められるという、革命的な世界の誕生だった。テディ・ボーイズは、まさに「若者のサブカルチャー」の元祖とも言っても良い。この偉大なる始祖から、様々なサブカルチャーが枝分かれしていく。
50年代も後半になるとテディ・ボーイズは、「タンナップボーイズ Ton-up boys」を経て、よりアメリカ文化に強い影響を受けた革ジャンにリーゼント頭の「ロッカーズ Rockers」と、彼らへのアンチテーゼとして発生した「モッズ Mods」に枝分かれしていく。このロッカーズとモッズの生態については、青春映画の金字塔『さらば青春の光』が詳しいのでそちらを参照いただきたいが、ここで重要なのが、このロッカーズやモッズの登場によって不良文化とバイク文化が融合していることだ。スーツが汚れるのを嫌厭してスクーターに乗っていたモッズは、その後バイク文化と決別し「スキンヘッズ Skinheads」や「ヒッピー Hippie」などに分裂していくが、オートバイに乗っていたロッカーズは、バイカー文化へと直結していった。
話題は日本に移る。テディ・ボーイズがロンドンの路上で徒党を組んでいた1950年代、日本は高度経済成長期を迎え、当時まだ高価であったオートバイを騒音と共に乗り回す「カミナリ族」が出現していた。時代が下りオートバイが安価になるにつれて、彼らは低年齢化、非行化し、70年代には今現在「暴走族」として知られている姿かたちになってゆくワケだが、そんな日本の若いバイク乗りたちがスタイルの参考にしたのが他でもない、一足先の60年代にアメリカやイギリスで成立していた若いバイカースタイル、「ロッカーズ」の姿だった。「レザーボーイズ Leather boys」という別称は伊達ではない、
不良を学ぶと、サブカルチャーが見えて来る、とつくづく思う。不良たちが何に反抗し、何を「カッコイイ」ことだとしたのか────彼らの「美学」が、音楽にファッションに当時の
サーファーファッションに茶髪、テクノやトランス、携帯電話の普及とそれに伴う援助交際や麻薬取引のアングラ化……これらは「ギャル」の存在を持ち出すことで連続性を見出しやすくなるだろう。
最近で言うなれば、「地雷系」や「量産系」と言われるコーディネート、ホストやアイドルに入れ込む「推し」文化、SNSの台頭による精神疾患やパパ活のポップ化、長らく続く経済不振────これらを「トー横キッズ」等に代表される、繁華街におけるストリートチルドレンの生態を理解することで分析できるのではないか、なんてと考えている。勿論、近年はインターネットの普及によって不良も多様化、細分化しているので、かつてのテディ・ボーイズのように安易に一括りにできるものだとは思っていないけれど。
嗚呼、ここに来てまた私の前に立ちはだかる不良という特権!
一度振り切ったはずの「ワル」への憧憬が、胸の内で再び
勿論そんな日は永遠に来ない。私は今日もパソコンの青白いライトを浴びながら、サブカルチャーとは何であるか、なんて頭でっかちなことばかり書き殴っている。本質的にそうであれなかった者に、不良の美学など語る資格もないというのに。
調べ物をした先には、いつも不良の背中があった。それはバイクの後部座席に飛び乗って、ついぞしがみつけなかった背中だった。
キーボードを打つ手を止めて、Peace Lightに火を付ける。喫煙者になった今でも、時々、煙草の苦さにふと俯きたくなることがある。