ケー・ドルセー41番地

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毎月月末、館より届く鈍色の便り

第七書簡「虚無という悦楽」

 ごく幼い頃、どんぐりの蒐集に凝っていたことがある。原始的な所有欲を満たすに、あのアンバー色に光沢するすべらかな長楕円の果実は充分な魅力に満ちていた。特に価値が高いのは種子がみっしりと詰まった肥えたどんぐりで、飢えた栗鼠のように、落穂を拾う農夫のように、それは重大な労務であると言わんばかりに、暇さえあれば無心でどんぐりを拾っていた記憶がある。

 しかし紅葉に埋め尽くされた黄金色の地面にその宝石が最も散りばめられる頃には、決まって小さな、しかし強大な天敵が現れる。どんぐりの中身を喰らう幼虫である。どんぐりを手に取って、耳元で振ってみせる。カラッと小さな音がする。慌てて親指で押して割ってみれば、手の中からポロポロと黒褐色の滓が零れ落ちる。

 掌に残るのは、四方に割れた殻と、朽ちた種子の残滓。

 つややかな美しい殻の内に、何の実りも遺さなかった種子を見るたびに、いつも強烈な胸騒ぎを覚えた。それは虫にお宝を奪われた怒りでも、自らの手でそれを潰した背徳感でもなかった。

 

 

 少しして、望まずして通わされていた子供向けの英会話教室で、イースターの催しを経験した。復活祭 イースター とはご存知の通り、イエスが死後3日目に蘇ったことを記念したキリスト教圏の祝祭だが、この時の室内外の飾り付けに使われるのがお馴染み「イースター・エッグ」だ。あの時、教室の誰かからカラフルに着色された卵を受け取った私は、予想だにしていなかった卵の軽さに戦慄した。

 イースターエッグは、白身と黄身を抽出して作るのだと初めて知った瞬間だった。

 外見は斯くも美しく彩色されているのに、中はただのがらんどうなのだという事実に、思わず指に要らぬ力が籠ったのを覚えている。それは破壊衝動というには未熟だった。私は結局、卵を握りつぶさなかったから。形容するなれば、それは未知に出会った瞬間の身震いに似ていた。恐怖ではなく、罪深い好奇心であったことは確かだった。

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1909年のアメリカのポストカード。
多産の象徴として兎がよく描かれるが、これはカトリックプロテスタントなど西方教会のみの風習で東方教会にはない。

 

 その感動は随分と長い間忘れ去っていたのだけれど、ある日突然思い起こすきっかけとなったのが、かつて私のチャンネルで特集した押井守天使のたまごというアニメ作品だった。当の動画は残念ながら問題があったために削除されてしまったが(またその内作り直したいと思っているので気長に待っていただけると嬉しい)、この作品は、目に見えない卵を男の手が握り潰すシーンから開幕する。『天使のたまご』は、世界の希望である天使がとある卵の中に眠っていると思われたが、それは幻想で、本当は卵の中には何もおらず世界には希望も遺されていなかった……というような筋書で、冒頭の見えない卵を握り潰すシーンはその顛末の暗示になっているのだけれど、劇場でそのシーンを観た時────卵が割られる音を聞いた時、私の背筋を恍惚が走り抜けた。

 脳内に、かつて私が割り潰さなかったイースターエッグが蘇った。同時に、大昔私が割り潰したどんぐりも。「中に何もない」という状況が、自身にとって非常に重要なファクターであることに、その時私は愕然と気が付いた。「虚ろ」というキーワードとの出会いであった。

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 虚ろであることの魅力は、期待を裏切られることにある。外形だけで満足するのは下品な人間のやることで、大抵の人はそのものの中まで揃って初めて満足するものだ。カッコイイ車は性能も伴っているからこそカッコイイし、美人は性格まで伴って初めて美人になる。もちろん中身が必ずしも希望通りとはいかないワケで、燃費が悪くて壊れやすいけれどカッコイイ車なんてのもあるだろうし、ワガママで奔放だけれどやっぱり美人ということもあるだろう。しかしどちらにせよ、結局何らかの中身がなければ成立しない話だ。虚ろは、そうした期待すべてを否定する。

 そこに「ある」のは、何も「ない」状態だ。ないものは如何様にも評価できない。ただ茫漠とした絶望だけが広がっている。期待してそれを開いて、中に何の果実も詰まっていなかった時の、胸の内に一陣の風が吹き去ってゆくような感覚。

 裏切りは決して逆方向であってはならない。つまり、劣った外形に優れた中身が存在してはならない。それは最も低俗な希望の在り方だ。優れた外形に劣った中身があってもつまらない。それは最早見飽きた世の常だ。求めるのは、「何もない」という抗いようのない完璧な絶望の在り方である。その絶対性は、ニヒリスティックな快楽を誘う。自虐的なエクスタシーと言い換えても良い。あの時、どんぐりを潰した瞬間に私の胸をざわめかせたのは、イースターエッグを割ることで私が得ようとしたのは、虚無の悦楽だった、と今なら思う。

 最も美しい裏切りは、優れた外形に何の中身も存在しないという時に成立しえる。外見が美しいほどに、中身の期待も比例して膨らんでゆくのが人の性というもので、その内実にがらんどうが広がっていた時の失望もひときわ大きくなる。美しい虚ろを求めて、私が知らず知らずの内に人形を好きになったのは、故に自然な成り行きだった。

 

 

 本来愛玩対象として設計されているはずのビスクドール球体関節人形を、むしろ恐ろしいと感じる人は意外と少なくない。巷の怪談に影響されていることもあるだろうし、人形の造形がリアルであるが故に、不気味の谷現象が発生していることもあるだろう不気味の谷とは、人はロボットなどが人間の姿かたちに近ければ近いほど好感を感じるが、ある一定のラインを越えた瞬間に突然嫌悪感を覚えるようになるという心理現象のことだ)

ja.wikipedia.org

 恐怖の理由は人によって様々なのだけれど、そのひとつの形としてこういうものがある。

「確かな視線を向けてくるのに、何を考えているのか分からなくて怖い」

 なるほど我々ホモサピエンス不信な視線を警戒することで、捕食者の存在を察知し、敵を事前に淘汰して生き延びてきた動物だ。真意の読み取れない視線に恐怖をいだくことは、ヒトのもっとも原始的な危機察知能力としてごく自然な反応である。

 ここで相手が話の通じる人間ならば、かつては彼の視線が恐ろしかったけども、話してみると彼にはまったく敵意はないことが分かり、今は彼に視線を向けられても友愛のそれだと安心するようになった、なんてこともあるかもしれない。しかし人形はそうはいかない。人形の視線の意味するところは、我々が自己本位な妄想に浸らない限り、永遠に不明慮である。初対面の人間よりも人形が恐ろしく感じられる理由は、その視線の意図が分からない以上に、仮に意図を尋ねてみても絶対に答えが返ってくることはない点にある。人形の視線の内には黙する空洞しかないことに、人は真に恐怖する

 

 

 人類の最大の発明であり叡智なるものは、「分類」することだ。観察し、分類することで、得体のしれないモンスターは名前のある「動物」になり、妖しい呪術は論理的に操る「科学」になった。謎と恐怖に満ちた世界を執拗に分類していくことで、私たちホモサピエンスは、闇につつまれた未知の世界を知恵の松明で照らすに至った。

 これは逆に言えば、分類できないものは、ヒトにとって大きなストレスとなりうるということでもある。例えば林檎を食べようとした時、私たちが躊躇いもなくその物体に手を伸ばせるのは、それを他の数多の果実と区別できているから、食べても問題のないものだと分類できているからだ。これが、色合いは林檎らしいのだけど、苺のようなヘタが付いていて、バナナのように細長い果物だったなら、私たちはきっと安易に手を伸ばさない。それは、その果物が林檎なのか苺なのかバナナなのか「分類」できないからだ。そしてその分類できないものを、私たちは恐怖するようにプログラミングされている。

 言語能力の低さが感情コントロールの困難さに直結するのも、似たような理由だ。自身が何を快とし、何を不快としているかを言葉にすることは、感情を「分類」することに他ならない。この的確な言語化ができないと、ただ漠然とした不快感を鬱積させることになり、その個体にとっていつか暴発するストレスになりうる。かの『ケーキの切れない非行少年たち』でも、著者の宮口幸治氏が、少年院の子供たちは言語能力が低い傾向にあり、「何となくムカつく」が積み重なった結果非行に走ったケースが多いという指摘をしている。

 

 少し話が逸れた気もしなくはないが、ヒトが理性的に振る舞える分岐点は「分類」できるか否かというポイントにあるということが分かっていただけたと思う。なれば「虚ろ」であることは、ヒトが最も恐怖する状況に違いない。それは分類できるか否かという問題を通り越している。「ない」ものは分類しようがないからだ。ただぽっかりと暗い穴が開いているだけで、いくら呼びかけても、帰ってくるのは自分の虚しいこだまだけ。

 しかしそこにこそ、人形の深淵は存在する。人形の視線が空恐ろしく思われるのはその意図が読み取れないからと先述したが、意図を読み取る────つまり相手の隠れた感情を観察し「分類」しようとしても、人形の内にあるのはがらんどうの「虚ろ」にすぎず、分類のしようがない。人形とは、「不信な視線」と「答えのない空洞」という、ヒトにとってふたつの「未分類」────恐怖を湛えた存在なのであるしかし恐怖することが悪いことではない。冒頭で説いた裏切りの悦楽の話を思い返してほしい。美しい人形の中身がもし仮に美しい人格者だったとして、一体それのどこが面白いというのだろう。何のひねりもない綺麗事に辟易して、私たちは好事の道を歩み始めたのではなかったか。崇高な芸術品として、親しいパートナーとして優れた外形を持ちながら、その中身は空恐ろしい「虚ろ」であるという人形にこそ、仄暗く、しかし強烈な恍惚がある。私たちがいくら想像力を掻き立てようが決して覆らない、絶対的な否定。その力の前に膝を折るしかない惨めさは、宗教的な敬虔さに似る。宗教とは原始、森羅万象への恐れから始まったものである。

 「虚ろ」に対して畏怖の念を抱いた時、仏教の基本教理は「 くう 」であったと思い出す。この世の一切のものは虚しく、存在すらしていないという概念だ。生きることはただ虚しいという個人的な実感にこの仏の教えは随分と寄り添ってくれたが、「虚ろ」を体感することに自身が悦を覚える所以も、この辺りにあるのかもしれない、と想像する。それは自身の懊悩が、事実として目の前に在るとして、まるで肯定されているような錯覚を覚えるからだろう。何もないことは絶望であるかもしれないが、救いでもある。

 『天使のたまご』のラストを思い返してほしい。あの少女だって、男に卵の中身が「虚ろ」であることを知らされたが故に、あんなにもおだやかな微笑みを浮かべて天に昇っていったではないか。「虚ろ」であることは期待の拒絶である。そして同時に、心優しき諦念への導きである。

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 そもそも私たちの内側にだって、一体何が「ある」というのだろう。性格? 人格? それは私たちが自己スキーマとして作り上げただけの虚像にすぎない。言動をパターン化し生き易くなるために作り上げた、都合の良い幻想にすぎない。せいぜい私たちの中に詰まっているのは、血と肉と、臭い脂くらいだ。しかしそれも燃やせば何も残らない。

 時代に中指を立てて死んだ村崎百郎は、かつてこう言った。

 「人は死ねば、燃えるゴミだ」