ケー・ドルセー41番地

ケー・ドルセー41番地

毎月月末、館より届く鈍色の便り

第12書簡「貧しさと洗練」

 日本は貧しくなったという。

 フムなるほど、と俗な価値観で卑近な駄菓子を思い浮かべてみる。永らくずっとお札型のイメージだったキットカットは、そういやハンケチのような正方形型に似てきた気がするし、雪見だいふくは気が付けば昔の半分ほどのサイズになっていた。値段は変わらないのに内容量が減っている────支払った金額に対してのリターンが年々目減りしているということなんだろう。

  最近酒屋に行くたび、「すいません、値上げしまして」と申し訳なさげに声を掛けられる。あァまたウヰスキーが値上がりしたと、軽い財布をぎゅっと握りしめる。穀物の不作、戦争による物流ストップ、要因は色々あるだろうが、海外の富裕層による買占めも相当大きいと聞く。日本の良い樽が、続々と海外に流出している。結果、もともと生産地ではなかったのに関わらず世界に名を響かせるようになった旨いジャパニーズウヰスキーを、日本人は今、気軽に吞むことができない。

 そういえば煙草も毎年狂ったように値上がりするし……これは関係ないか……。

 上海に行った時も、香港に行った時も、ムンバイに行った時もバンコクに行った時も、昼を喰らい夜闇を切り裂くような、都会の未来感に立ち眩みがした。自分が30年も昔からタイムスリップしてきた人間であるかのように錯覚した。日本の東京は、もはやアジアの「懐かしい場所」になりつつあるのだな、と思った。

ヴィクトリアピークから撮影した「香港100万ドルの夜景」(2018)。

 大体、上記↑のシンフォニー・オブ・ライツの光景を「100万ドルの夜景」と称するのだって、その昔(当時のレートで)月に100万ドルも電気代がかかるという意味で煌びやかな夜景をそう表現したことに由来するが、もともとは六甲山から見下ろした神戸の、つまり日本の夜景を形容する言葉だったのだ。

 でもまァ、独り立ちしてからと言うものずっとその日暮らしをしてきた私にとっては、やれ国の経済がどうだ国民の生活がどうだと言われても、浮草デラシネ のような生活が今後も続くことは変わりないので、何だかすべて別世界の時事を聞いているような錯覚に陥る。金がないならないなりに、金があればあるなりに暮らすだけで、やりたいこともやれることもきっとそこまで変わらない。これまでの無頓着な人生が、現にそうであった。

 ただそんな私でも唯一、「貧しさ」を感じることがある。私たちの感性のそれである。

 

 

 

 根っから出不精な自身の関心事は、もっぱら部屋の居心地を改善することに向きがちだ。人見廣介ひとみひろすけ としてパノラマ島という広大な理想郷を作るより、デ・ゼッサントとして密室の人工楽園を作る方が余程我が使命であると心得る。

 しかし悲しいかな、我々日本人には土地スペース がない。メルカトル図法の歪みを直せば日本列島は案外デカイということに気が付くが、土地の面積=住める土地ではない、という残酷な現実がある。

意外とデカイ、日本。(https://bit.ly/3JjBoxj)

 例えばイギリスやドイツは日本より国土は小さいが、可住地は日本の約2倍もあるという。日本は国土の大半を山地や森林に侵食されているので、私たちは残った3割にも満たないわずかな可住地を取り合って生きるしかない。当然、家々はひしめき並び、住居は狭く陰鬱になる。こんな住宅状況でどうしてカバラや秘教哲学、神秘思想の装幀本から象徴主義ロマン主義銅版画エッチング 蝕刻凹板アクアチント まで、錬鉄製の寝台からナイトテーブル代わりの祈祷台まで置けるというのだろう!

 ここで金にものを言わせて広大な土地に移住する、などという建設的で現実的な選択肢はない。こちとら伊達に怠惰には生きていない。怠惰こそ芸術と高貴な美徳の母だ、とかのポール・ラファルグも『怠ける権利』の中で言っている。委縮した脳髄が、「ものぐさに、しかして同時に病的で神経質な拘りを強行せよ」と謳う。結果私は、「狭い居住空間で如何に創意工夫をするか」というみじめったらしい足掻きに着手し始める。

一切合財怠けよう、恋するときと、飲むときと、怠けるときをのぞいては。

───レッシング

 YouTubeで部屋の紹介動画を見漁ってみる。何畳一間で如何に自己演出をするか、というけなげ努力に、しみじみと日本人の宿命を感じて涙ぐむ。しかしそこに置かれるのは大抵、無地のベッド、合板のローテーブル、DIYの小棚に、そして空間に対してあまりに似つかわしくないバカでかいテレビ。私はパソコンの前で万歳と両手を上げる。

 私はそこに2mの本棚ふたつと、巨大な両袖机を収める方法が知りたいのだ!

 どうやら「オシャレ」と文化資本は、彼らの中では両立しなければならないものではないようだ。

 

 

 優秀なAIのお陰で、YouTubeのオススメ欄はどんどん「良き生活のためのハウツー」へとカスタマイズされていく。なるほど目指すべきは「ていねいな暮らし」というものらしい。生活に根源的な意義を感じ、家事にささやかな充足感を見出すその姿勢には、修道士のような敬虔ささえ感じて、自堕落から抜け出せない自身にとっては尊敬以外の言葉が見つからない。

 背伸びをしたり見栄を張ることなく、ありのままの生活に誠実に向き合うライフスタイル。もはや一種の自然主義だなと感心しながらYouTube画面をスクロールしてふと気が付くのは、並んだ動画のサムネイルがどれもこれも画一的であることだった。部屋の色合いも、インテリアも、投稿者が心がけていると語るポイントも、何となく全部同じに見える。人の生活の在り方は、人それぞれ違うはずなのだけど。

ミレー《パンを焼く女》
バルビゾン派のミレーでさえパンを焼く様を「自然的」として描いたのだから、「ていねいな暮らし」で自然派を志す人々がパンを自作し始める理由もよく分かる。

 

 空間やインテリアのデザインには、「インダストリアル」だとか「ホテルライク」だとか、「北欧風」だとか「モダン」だとか色々あるけれど、「ていねいな暮らし」はもしかするとここに並ぶジャンルなのだろうか、と思った。そして「ていねいな暮らし」というのは、所作を丁寧にして暮らすことを言うのではなく、「丁寧とされている所作」をこなす暮らしなのかもしれない、とも思った。彼らが目指すのは、自分の生活を実直に見つめ直し再構築することではなく、「ていねいな暮らし」という名前のファッションスタイルに準ずることなのかもしれない。

 そのジャンルの中では、自然派であること、ミニマリストであることがしばしば「洗練」として持て囃される。なるほど確かに生活を見つめ直せば、自分にとって不要な無駄も見えてくるだろう。そうして断捨離を繰り返して、最後に何が残されるかというと、やっぱり装飾性の欠けたベッドとローテーブル、小棚とバカでかいテレビ(時にバカでかいプロジェクター)だけの生活空間なのだった。人にとって必要なもの、不要なものは、それぞれ違うはずなのだけれど。

「ていねいな暮らし」では自然派であることがしばしば重要視され、それはアナログな手仕事や挿花や観葉植物の設置、装飾性の排除、化学嫌悪という形で現れる。(写真はイメージ)

 

 

 そして私は初めてここに、日本の貧しさというものを見たのだった。洗練されていることと、文化と知性を欠いていることが別物だということに、私たちは気が付けないのだ

 洗練とはあらゆる試行実験の結果、自然に余剰が削ぎ落とされてゆくことを言うと認識している。しかしその削ぎ落すべき「余剰」とは決して、物が多いことや装飾過多であることと同義ではないはずだ。

 例えば普段あまり本を読む機会がない人なら、意味もなく場所を占領するだけの本棚を部屋に置く必要はないだろうが、熱心な読書家は勿論、そうではなくとも私のように動画を作ったり文章を書くためにそれなりの蔵書が必要な人間は、そこそこの大きさの本棚と書籍の数がなければ日常に支障が出る。その瀟洒な背表紙が並んでいるワケでも、小洒落たオブジェをバランス良く配置したワケでもない、実用性しかない本棚のある風景なぞは、「ていねいな暮らし」の目指す「洗練」とはかけ離れたものとして扱われるのだろう。「ていねいな暮らし」は、打ちっぱなしのコンクリートやウッドカラーの壁に囲まれた、物の少ない空間にしか存在しないのだろうか。(勿論、本棚にアレもコレも無造作に突っ込んでどこに何が入っているか定期的に分からなくなる私が「ていねいな暮らし」をしているなどとは口が裂けても言うつもりはない)

 「オシャレは我慢」とよく言う。プロポーションを維持するためには欲のまま食べてはいけないし、細いウエストのためにはコルセットの苦しさにも、長い脚のためにはヒールの靴擦れにも耐えねばならない……というような、オシャレには自己犠牲が要されるという言い回しだ。

 ならば「ていねいな暮らし」というオシャレには、文化資本の犠牲が要されるのかもしれない

↑1年前の本棚。今はもっと「オシャレ」とはかけ離れた有様になっている。youtu.be

 

 

 ミニマリズムは物量を減らすのみならず、視界の情報を減らす努力にまで及ぶ。

 「ていねいな暮らし」系動画の中で頻繁に目にするのが、「ユニクロ」と「無印良品」という企業名だ。私がまだ幼い頃は、ユニクロは「デザインを施さない代わりに価格を抑えた安かろう悪かろうな服」というイメージだったし、無印良品も「ブランドによるデザイン性はないけれど使用に耐えるもの」を扱っている印象だった。実際、ユニクロ無印良品で商品を購入したことは、あまり口外するようなものではなかった。安物を買ったことをわざわざひけらかす人はいないだろう。安く買えたことを自慢する人はいるけども……大阪のオバチャンとか。

 しかし今や、ユニクロ無印良品は、「チェーン」から「ブランド」へと変身を遂げた。これは企業努力と言う他ない。両者とも、「その商品を用いた生活スタイル」まで演出することで、商品価値の付与とイメージの向上というブランディングに成功した。

 形状や色遣いを見る限り、両者の商品は決して「洗練」されているとは言い難い。正直、野暮ったい印象を受けることの方が多い。しかし、あの気兼ねなく使えるシンプルなデザインは多くの人に好まれるであろうし、シンプルなデザインが好きなことも何ら悪いことではない。ただ私がひとつだけどうしても首肯できないのは、「ていねいな暮らし」の中で、それらが「洗練」されたものとして扱われている感性だ。

 ここに私は、もうひとつの「貧しさ」を見た。私たちは「シンプル」なものと「洗練」されたものの見分けがつかない。 シンプルであることと殺風景であることを、混同しているのだ

 もののついでにもうひとつ企業名を出してしまえば、Appleにも似たようなにおいを感じることがある。私はAppleユーザーではないので大きな口は叩けないが、蚊帳の外から見る限り、洗練の極みのような美しい製品もある一方で、ただ地味なだけの製品もあるように思われるのが実情だ。しかしその区別が我々にはできない。私たちができるのは「Appleの商品を用いた生活スタイル」という漠然としたブランド演出を盲信することだけだ。勿論、デザインに関係なく利便性の面からデバイスApple製品で統一している人の是非は、また別の話。

 

 

 

 色は黒か銀、柄は曲線的で有機的な植物紋様、拷問のように締め上げられ、夏の腐りかけの果実のように爛熟した、優雅で邪悪な、教会の祭壇に据えられるような聖性と、苦行僧の鞭のような厳しさを併せ持つものが好ましい────自身がそんな過剰装飾なものが好きだからこそ、色々屁理屈を言いたくなるのだろう。

 しかし悪趣味だと知りながらも今尚そうした嗜好でいるのは、私は装飾を削ぎ落とし自然体であることが「洗練」のすべてだとはどうしても思えないからだ。先ほど「洗練とはあらゆる試行実験の結果、自然に余剰が削ぎ落とされてゆくこと」だと書いたが、例え装飾過多であろうと、無骨で野暮だった装飾が、熟考され直した末に美しく雅やかな装飾に進化することもまた「洗練」と呼べる。

 余剰過剰をただ機械的に削ぎ落としていった先にあるのは、「デザインがもたらす精神的豊かさ」の喪失だけではないか?

 

 

 

 「昔はどんな小皿にも1輪の花が描き付けてあった」というのは、かの美輪明宏氏の発言だったと記憶している。手元にある『天声美語』を読み返してみたが、どうも本書の記述ではないらしい……出典が曖昧なので話半分に読んでいただきたいのだが、まァつまりは戦後の貧しく物資のない時代でも、皿に花一輪を描き付けるような情緒を我々は忘れなかった、というようなニュアンスだ。如何に劣悪な生活環境の中の粗悪な皿であろうと、花一輪描くだけで心が華やぐことを私たちは知っていた、と言い換えても良い。

 そういう貧しい中の心の豊かさを考えた時、目に見えるノイズを片っ端から排除していくような「ていねいな暮らし」流「洗練」の在り方に、言いようのないわびしさを感じたりもした。手仕事の喜びを思い出せ、とはかつて19世紀末イギリスでアーツ&クラフツを牽引したウィリアム・モリスも主張していたことだが、「ていねいな暮らし」にあるのはクラフツの部分だけで、アーツの部分がどうにもすっぽり抜け落ちているように思う。のちにアールヌーヴォーに引き継がれてゆくアーツ&クラフツの精神性や装飾性は、次のモダンの時代に突入した途端「金を食うだけの俗悪なデザイン」と批判されるようになるが、心華やぐ創造に金をかけないで、一体何に金を使うというのだろう。

 その問いに、歴史はすでに答えを出している。モダンが浪費に敏感だったのは、何を隠そう、その時代に戦争が起こっていたからである。

ウィリアム・モリスと彼がデザインした壁紙

 「丁寧とされている所作」を労働者の如くこなすだけで、その他の余剰を一切排する生活を、洗練された「清貧」と呼ぶことはどうしてもできない。それは自らの魂で感じ入る余裕がないだけの「貧しさ」ではないか。そこにある人の心は、戦時のそれと大差ないのではないか。

 

 

 

 金がなくても工夫次第で心は豊かになる、などと綺麗事を言うつもりはない。まず金がなければ、豊かさを楽しむための心の余裕も生まれない。しかし一方で金を得たところで、豊かな感性がなければ、どうせくだらないことに浪費して終わることもまた事実だろう。

 日本は貧しくなったという。でも経済が回復したところで、懐に転がり込んだ小銭を、本当に心理的な豊かさのために有効活用できるだろうか。私たちの金銭的な貧しさは、私たちが持ちうる感性の身の丈に、案外合ってるのかもしれない。なるほどここが沈みゆく国ならば、「ていねいな暮らし」を試みるのも悪くないだろう、とふと思った。それはちょうど、落城の前に自刃する王のように。