今月頭、兵庫県尼崎市にある「シャレコーベ・ミュージアム」という施設に撮影取材に赴いた。
何でも趣味が高じた1コレクターが膨大な個人コレクションを収蔵するために建ててしまった博物館ということで、まさに趣味人の理想を具現化したような
陳列されたコレクションは、しゃれこうべがデザインされたものなら片っ端から蒐集しているとでも言うほどに凄まじい数と量で、本物の頭骨や、頭骨を模した美しい工芸品の放つ厳かな雰囲気、生者に語り掛けて来るような存在感は圧巻であった。
動画は以下のように完成したので、未見の方は是非に刮目されたし。
シャレコーベミュージアムの見学を通して、チティパティ Citipati(屍陀林王)というチベット仏教における守護神の存在を知った。
その昔、墓地の近くで瞑想に励んでいた男女の苦行僧が、深く瞑想するあまり盗賊の接近に気付けず、首を跳ねられて殺されてしまった。信心深い僧侶は、殺されたこと以上に瞑想を邪魔されたことに大変怒り、悪党、果ては悪霊を懲らしめる
ただ祓魔の神とは言っても自分たちが死んだ墓場からは出ることができないようで、悪党が侵入して来るまでは、踊って時を過ごしているという。
チベット仏教の祭典として有名な仮面舞踏「チャム Cham」の中では、そうして踊り過ごすチティパティの再現を確認することができる。
絵画においてチティパティは、もっぱら男女対になって踊る骸骨として描かれる。その愉快そうな様子からは西洋の「
……と若干チティパティの説明が長くなったが、ミュージアムでこの名に触れた際、私はその既知の響きに不思議な心地がしていたのだった。帰ってから調べたところ、それはどうも恐竜の名前でもあるらしい。
こちらはチティパティではなく「キチパチ」「シチパチ」と音写されることが多いようだが、幼少時恐竜図鑑を持ち歩くほどには恐竜好きだったため、音だけ記憶していたのかもしれない。初めて発見された化石の頭部が欠損していたので、首のない僧侶であるチティパティに
巷では「恐竜の末裔が鳥」という言い方を耳にすることもあるが、恐竜とは現在における鳥そのものだ。何百、何千種もいた恐竜の中の一種が、現在の鳥類(獣脚類)であって、この分岐群のみが絶滅を免れて現在まで健在しているのだ。
以下の記事の例えが分かりやすい。「人間は哺乳類の末裔である」という形容がおかしいことは誰にでも分かる。人間は哺乳類の末裔ではなく、哺乳類そのものだからだ。鳥が恐竜の末裔ではなく、恐竜そのものであるというのも、同じことである。
チベット高地及びチベット仏教圏のブータンやネパールの一部の地域では、人を埋葬する際に鳥葬という手法を取ることがある。遺体を切り刻み荒野に安置して、
鳥とは「運搬する者」であり、「人にそれを知らせる者」である。
北欧神話の最高神にして知恵の神・オーディンにはフギン Huginn とムニン Muninn という名の二匹の
そしてもうひとつ、オーディンは知識に貪欲な神である以上に、争いを引き起こし戦局を意のままに操る、戦争と死の神でもある。そういう点においては、フギンとムニンは戦場の死神に仕える鳥である、という見方もできる。
旧約聖書の創世記では、方舟に閉じ込められたノア一行の代わりに大洪水の終わりを確認しに発ったのは
オウィディウス『変身譚』では、鴉の密告によって太陽神アポロンは不貞を働いた恋人コローニスを射殺する。が、その悲劇の原因となったとして、輝く純白の羽毛に覆われていた鴉は黒く醜く染められてしまった。死んだコローニスの胎内から取り出されたアスクレーピオスは、その後
アラスカやカナダの
エジプト神話では
鳥が羽ばたかなければ、どうやら我々は
盗み、運び、知らせ、そしてそれが我々の生死と知恵に多大な影響を及ぼす────以上は神話からのエピソードだったが、死をにおわせる使者として鳥を、特に鴉を描いた名文としてエドガー・アラン・ポーの『大鴉』も引用しないワケにはいかない。
レノアという名の愛する乙女を亡くし悲嘆に暮れる主人公は、夜半に窓を叩く音を耳にして、恐る恐る鎧戸を開けてみる。騒がしい羽ばたきと共に室内へ飛び入って来たのは漆黒の大鴉だった。主人公は部屋に置かれた女神パラス────つまりアテナの胸像の上に留まったそれに尋ねる。
様々な問い掛けに対して、鴉は繰り返し "Nevermore" と答える。主人公は次第に心掻き乱されてゆき、激昂し、深く落胆し、ついには鴉が床に投げ掛ける巨大な
彼はそれまで、何とか脳裏から恋人の面影を追い払おうと、死が引き起こす耐え難い苦痛を和らげようとしていたが、大鴉の来訪と彼の "Nevermore" という冷酷な託宣によって努力は踏みにじられ、失敗に終わる。綺窓を閉じ切って主人公が行おうとしていた試みとは、自己の殻に閉じ籠り、心理的な逃亡を遂げることだった。そこに鴉が「知らせ」を運んで来る。それは「死」という現実の無情の宣告であった。主人公は悲嘆の嵐の中に投げ出されてしまい惑乱するが、それは彼が人生の辛苦に未だ成す
鴉という鳥が主人公に突き付けたのは、悲惨な現実以上に、それに向き合う知への挑戦であったのではないか。さながら洪水が引いた後の大地を果敢に求めるような、精神と虚無への深い洞察のはじまりが、例えその身が黒く染まりきってもいずれ逞しい生に結実する学問に、哲学に至る糸口がそこにはあった。それは鳥の運ぶ「黎明」であった。
しかし『大鴉』の主人公はその苛酷さに耐えることができず、敢え無く挫折した。窓を開け放って氷のような夜風を浴びるに至っても、我々はついに
私がこよなく愛する
「脚のない鳥がいるらしい。
脚のない鳥は飛び続け、疲れたら風の中で眠り、そして生涯でただ一度地面に降りる。
────それが最期の時。」
テネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』の一節からの引用だということだが、死ぬまでどこにも着地できない、風の中を彷徨う鳥のことを思う。この思考の翼が、血塗れた臓器が上下する間は、留まる枝木も、それを掴むための逞しい脚も持つことは叶わないとでも言うような。
ヘーゲルは自著『法の哲学』の序文に、こう記している。
「ミネルヴァの
哲学なんてものは人生が終わる、時代が終わる頃合いになってようやく立ち現れて来るものだという。何の答えも見出せず迷うばかりの日々に、この言葉によって一抹の諦念を覚えたりもする。我々は晩年という夜になって、ようやく始まりの光を見るのだという。
ちなみにミネルヴァとはローマ神話における、知恵や芸術、工芸を司る女神のことである。ギリシア神話との交雑によって、それは同じ知と
パラス・アテナ────それは黒い大鴉が留まる、真白い、無垢の胸像であった。