ケー・ドルセー41番地

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毎月月末、館より届く鈍色の便り

第30書簡「鳥が運ぶ死考の黎明」

 今月頭、兵庫県尼崎市にある「シャレコーベ・ミュージアム」という施設に撮影取材に赴いた。

 何でも趣味が高じた1コレクターが膨大な個人コレクションを収蔵するために建ててしまった博物館ということで、まさに趣味人の理想を具現化したような驚異の空間ヴンダーカンマーなのだが、そのコレクターの蒐集しゅうしゅう対象というのが「頭蓋骨」というまた一風変わったもので、物好きを拗らせた好事家ディレッタントとしては訪れないワケにはいかなかった。

 陳列されたコレクションは、しゃれこうべがデザインされたものなら片っ端から蒐集しているとでも言うほどに凄まじい数と量で、本物の頭骨や、頭骨を模した美しい工芸品の放つ厳かな雰囲気、生者に語り掛けて来るような存在感は圧巻であった。

 動画は以下のように完成したので、未見の方は是非に刮目されたし。

 

 

 

 シャレコーベミュージアムの見学を通して、チティパティ Citipati(屍陀林王)というチベット仏教における守護神の存在を知った。

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 その昔、墓地の近くで瞑想に励んでいた男女の苦行僧が、深く瞑想するあまり盗賊の接近に気付けず、首を跳ねられて殺されてしまった。信心深い僧侶は、殺されたこと以上に瞑想を邪魔されたことに大変怒り、悪党、果ては悪霊を懲らしめる屍陀林しだんりん(墓場のこと)の守り神となった────というのがこの神様のあらましらしい。

 ただ祓魔の神とは言っても自分たちが死んだ墓場からは出ることができないようで、悪党が侵入して来るまでは、踊って時を過ごしているという。

 チベット仏教の祭典として有名な仮面舞踏「チャム Cham」の中では、そうして踊り過ごすチティパティの再現を確認することができる。

 絵画においてチティパティは、もっぱら男女対になって踊る骸骨として描かれる。その愉快そうな様子からは西洋の「死の舞踏ダンス・マカブル」を連想したりもするが、「死の舞踏ダンス・マカブル」が誰も逃れることができない無情の死の恐怖を示しているのに対し、チティパティの踊りは輪廻────永遠に続く生死のサイクルを暗示しているのが、宗教観の違いも相まってなかなか興味深い。

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 ……と若干チティパティの説明が長くなったが、ミュージアムでこの名に触れた際、私はその既知の響きに不思議な心地がしていたのだった。帰ってから調べたところ、それはどうも恐竜の名前でもあるらしい。

 こちらはチティパティではなく「キチパチ」「シチパチ」と音写されることが多いようだが、幼少時恐竜図鑑を持ち歩くほどには恐竜好きだったため、音だけ記憶していたのかもしれない。初めて発見された化石の頭部が欠損していたので、首のない僧侶であるチティパティになぞらえて命名されたらしいが、骸骨の神様の名前が恐竜に流用されていることに、私は名状しがたい感動を覚えたのであった。

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 巷では「恐竜の末裔が鳥」という言い方を耳にすることもあるが、恐竜とは現在における鳥そのものだ。何百、何千種もいた恐竜の中の一種が、現在の鳥類(獣脚類)であって、この分岐群のみが絶滅を免れて現在まで健在しているのだ。

 以下の記事の例えが分かりやすい。「人間は哺乳類の末裔である」という形容がおかしいことは誰にでも分かる。人間は哺乳類の末裔ではなく、哺乳類そのものだからだ。鳥が恐竜の末裔ではなく、恐竜そのものであるというのも、同じことである。

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 チベット高地及びチベット仏教圏のブータンやネパールの一部の地域では、人を埋葬する際に鳥葬という手法を取ることがある。遺体を切り刻み荒野に安置して、禿鷲ハゲワシなどに喰わせる埋葬方法だ。そこには鳥によって死者を天に送り届けてもらうという意味合いがあるようだが、鳥には────恐竜には────どことなく死と輪転のにおいが漂っていて、その名がチティパティという墓場の王であるというのは、なかなか象徴的シンボリックであるように思われる。

 

 

 

 鳥とは「運搬する者」であり、「人にそれを知らせる者」である。

 北欧神話最高神にして知恵の神・オーディンにはフギン Huginn ムニン Muninn という名の二匹のカラスが付き従っており、彼らは夜明けと共に飛び立ち日没になると舞い戻って、世界の様々な情報をオーディンに報告するという。古ノルド語でフギンとは「思考」を、ムニンとは「記憶」を意味するらしく、情報を記憶するだけでも、記憶なくして考えるだけでも不足で、記憶しその上で思考することこそまことの知恵である、というような暗喩をそこに錯覚したりもする。

 そしてもうひとつ、オーディンは知識に貪欲な神である以上に、争いを引き起こし戦局を意のままに操る、戦争と死の神でもある。そういう点においては、フギンとムニンは戦場の死神に仕える鳥である、という見方もできる。

オーディンとフギン&ムニン。足元に居るのはゲリとフレキという狼。

 旧約聖書創世記では、方舟に閉じ込められたノア一行の代わりに大洪水の終わりを確認しに発ったのはハトと鴉であった。また列王記でも、王女イゼベルに命を狙われ身を隠した預言者エリヤにパンと肉を運んだのは鴉だった。この時のノアやエリヤにとって鳩と鴉は、災害の終焉の知らせや日々の貴重な糧という、自身の命運を左右する鍵を一方的に握った審判者であっただろう。

 オウィディウス『変身譚』では、鴉の密告によって太陽神アポロンは不貞を働いた恋人コローニスを射殺する。が、その悲劇の原因となったとして、輝く純白の羽毛に覆われていた鴉は黒く醜く染められてしまった。死んだコローニスの胎内から取り出されたアスクレーピオスは、その後半馬族ケンタウロスの賢者に育てられたことで死者をも蘇らせる名医となる。間接的ではありながら、鴉が結果的に人の生死を分ける発端となっているところに、個人的には着目してみたい。

 アラスカやカナダの先住民族インディアンであるリンギットに伝わる神話では、盗みによって人々に光をもたらした悪戯者トリックスターとして鴉には凡そポジティブな性格が与えられている。が、そもそも何故鴉が光を盗んだのかと言えば、森羅万象を創った彼に唯一創れなかったものこそが光だったからである。最も重要なものを鳥は創らない。鳥はそれを運んで来る・・・・・

 エジプト神話ではハヤブサの頭を持って描かれるラーやホルスが太陽そのものと同一視されるが、これも太陽という移動する光源を、天空を移動する鳥が運んで来るというイメージから発想されたであろうことは想像にかたくない。どうりで月の神であるトトも、トキという鳥の姿をしているワケだ。

 鳥が羽ばたかなければ、どうやら我々は暗いまま・・・・であるらしい。

 

 

 

  盗み、運び、知らせ、そしてそれが我々の生死と知恵に多大な影響を及ぼす────以上は神話からのエピソードだったが、死をにおわせる使者として鳥を、特に鴉を描いた名文としてエドガー・アラン・ポーの『大鴉』も引用しないワケにはいかない。

 レノアという名の愛する乙女を亡くし悲嘆に暮れる主人公は、夜半に窓を叩く音を耳にして、恐る恐る鎧戸を開けてみる。騒がしい羽ばたきと共に室内へ飛び入って来たのは漆黒の大鴉だった。主人公は部屋に置かれた女神パラス────つまりアテナの胸像の上に留まったそれに尋ねる。

黄泉よもつくに 閻羅えんらきみの禁領にして 首長みおやの本名を何とかぶ?」日夏耿之介訳)

 テネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』の一節からの引用だということだが、死ぬまでどこにも着地できない、風の中を彷徨う鳥のことを思う。この思考の翼が、血塗れた臓器が上下する間は、留まる枝木も、それを掴むための逞しい脚も持つことは叶わないとでも言うような。

 ヘーゲルは自著『法の哲学』の序文に、こう記している。

ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ

 哲学なんてものは人生が終わる、時代が終わる頃合いになってようやく立ち現れて来るものだという。何の答えも見出せず迷うばかりの日々に、この言葉によって一抹の諦念を覚えたりもする。我々は晩年という夜になって、ようやく始まりの光を見るのだという。

 ちなみにミネルヴァとはローマ神話における、知恵や芸術、工芸を司る女神のことである。ギリシア神話との交雑によって、それは同じ知といくさの女神であるアテナと同一視されるようになった。

 パラス・アテナ────それは黒い大鴉が留まる、真白い、無垢の胸像であった。