ケー・ドルセー41番地

ケー・ドルセー41番地

毎月月末、館より届く鈍色の便り

第28書簡「変わり者の友情哲学」

 「好事家たるもの、孤高であれ」というようなことを、動画でよく口にする。変わり者であるせいで周囲から孤立しているだけであるのを、まるで自ら選び取った独立であるかの如く傲岸不遜に誇れと、以前第五書簡「好事家の矜持」でも書いたことではあるが、私はいつも動画の中で捲し立てている。

 家族に囲まれていても、孤独でないとは限らない。それは遺伝子を幾何か共有しているだけのただの他人であって、血の繋がりはあっても、魂まで共鳴し合えるかは別問題だからだ。恋人を手に入れても、伴侶を持っても、ひとりぽっちでないとは限らない。その繋がりには性愛セックスが少なからず加担している場合がある。

 橋本治によれば「友情というのは、SEXぬきの恋愛である」とのことだが、崇高な、純粋な好意のみによる結び付きを得ようとすれば、それは友人関係をおいて他にない。

 では頑迷固陋がんめいころうなることで右に出る者はないであろう我々好事家には、そのお友達すら不要なのだろうか。

 

 

 

 その清々しいまでの性根の悪さと痛々しいほどに感傷的センチメンタルな筆致で今なお「乙女の聖書バイブル」と名高い嶽本野ばらの『それいぬ 正しい乙女になるために』は、「お友達なんていらないっ」と題された有難い箴言しんげんから始まる。

「乙女にお友達なんていりません。乙女は気高く孤高なものなのです。男のコのヒーローは徒党を組んで行動します。トム・ソーヤにはハックル・ベリー、ゲッターロボは三人で合体、『十五少年漂流記』なんて十五人もいなけりゃ一人前じゃないんです。だけども少女は違います。」

────嶽本野ばら『それいぬ』(2001)文藝春秋, p.15

 乙女とは唯一の「絶対的存在」なのだから、心開いて世俗に迎合する必要など微塵もない。ヤクザ映画の健さんのように、乙女とはカッコよく孤独なものであるべきである。

 そんな野ばら大先生の厳格なる教えを忠実に守り、教室でペヨトル工房の『夜想』片手にひとり弁当をつついていた自身の滑稽な学生時代を時折苦く思い出したりもするが、好事家とは乙女な意地の悪さと触れれば割れてしまうような繊細さを兼ね備えた者なのであるから、その孤独を恥じること自体、何よりもの恥であろう(実態は聖書の敬虔なる実践者ではなくただ陰気な嫌われ者であっただけなんだが)

 

 

 

 確かに孤高の乙女は、荒野あれのの野百合の如くまことたっとく麗しい。しかし、揺るがぬ信頼で結ばれた関係の、真夏の日輪のような眩しさに思わず目をしばたたかせることは、果たして我々にとって屈辱か。

 決闘の結果互いの強さを認め合い無二の友となったエンキドゥギルガメシュ(『ギルガメシュ叙事詩』)。共に幼少期を過ごし親友のために戦場に立ったアキレウスパトロクロスイーリアス』)小竹祝しののはふりを病で失った哀しみに耐えかねその遺骸に伏して自害した天野祝あまのはふり(『日本書紀』)

 神話の時代から描かれる熱い友情物語の数々よ! そのなんぴとたりとも立ち入れない、誰ひとり脅かすことのできない神聖な絆に漂う同性愛ホモセクシュアルのにおい。乙女の脆さを抱えながら、そのプライドの高さ故に男伊達でもありたい我々は、そうした男の友情に拙い夢を見る。

ニコライ・ゲー《パトロクロスの死を嘆くアキレウス》。
イーリアス』ではこのパトロクロスの葬送がオリンピックの起源だとしている。

 女の友情物語は男のそれに比べれば、呆れるくらいに乏しい。メロスはセリヌンティウスのために命を賭けシラクスまで走り抜いたが、女は友のためには走らないし、死にもしない。ラテン語の「友情アミーキティア」という言葉は「アモル」から来ているというが、男の友情が愛そのものと密接であるのに対して、女の友情と愛の間には何処かしら断絶が、溝があるように思われる。女の友情は確かに同性に向けられるだろうが、愛に於いては、凡そパートナーか子供にしか与えられないだろう。

 嗚呼、間違っても好事家は、究極の友愛によってギリシア最強の部隊となった神聖隊ヒエロス・コロスの気高い喇叭ラッパを、昼飯ランチの剣呑な合図と聞き違える女でありたくはない。そうして男伊達を志すほどに、否応に友人という存在への憧憬の念もまた深まる。

 ちなみにこれはどうでも良い話だが、GLガールズラブよりもBLボーイズラブの市場の方がはるかに大きいのは、男性同士の盤石ばんじゃくの如き友情の確かさを、女性は女性同士には見出せないために、その揺るがぬ男の友情フィリア性愛関係エロスまで連想してしまうからだと聞いたことがある。

ジャン・デルヴィル《プラトンの学苑》



 

 友が無ければ、余分に金銭を浪費することも、随時変化する人間模様に心掻き乱されることもなく、有限な時間と資本を自分だけに投資できる王国を手にすることができる。夢想の国の主で在り続けることは、好事家の永遠の悲願である。

 だが一方でその権力が徐々に人を狂わせるであろうことも、容易に想像は付く。王はじきに、ひとりよがりな独裁者と化す。人との交わりによって発生する面倒事をことごとく避け続けた結果、忍耐も柔軟性も失われ、自分自身が面倒な人間そのものになっていく。まさかと笑う者は見よ、この画面の向こうにいる私という人間を。(ここは笑うところです)

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」

────夏目漱石草枕

 友人の多さは、生き抜く術の多さである。友人の少なさは、それによって発生する不利と不都合の多さに等しい。「友情」という呼称によって概ね包括される関係性がもたらす実益を数えてみれば、友を持たない手はない。いくら人間嫌いであろうと、好意の前にまず、保身と援助のために友人が有用であることは頭で分かる。

 古代ローマの政治家であり哲学者であったキケローは、著書『友情について』の中で、ガイウス・ラエリウスにこう語らせている。友情が利益を追うのではない、利益が友情を追うのだと。

「友情は欠乏からというより人間の本性から生まれるもののように見える。そこにどれほどの実益がありそうかを計算することではなく、愛する気持ちを込めて心を振り向けることにより、友情が生まれるのだ」

────キケロー『友情について』(2013)岩波文庫, p.31

 友人同士の好意の中に安らいを見出さない人生が、どうして(略)『生きるに値する人生』たえりえようかと、ラエリウスは────正確にはラエリウスに仮託したキケローは言う。普段の懐古趣味の癖で古代の浪漫に思いを馳せるほどに、何だか我々も屁理屈を捏ね繰り回している暇があったら、損得抜きのお友達を持った方が良い気がして来る。

 

 

 

 だが現代に立ち返り書をつまびらけば、三島由紀夫のこんな言葉にまた我に返ったりもする。

「世の中を知る、ということは、他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得るとすれば自分の利害にからんだ時だけだ、というニガいニガい哲学を、腹の底からよく知ることです」

────『三島由紀夫レター教室』

 無意識であれ意識的であれ、愛情に損得勘定は必ずある。恋人に尽くすのは、返ってくる愛の言葉に承認欲求が満たされるからだ。親へ向けられた子供の無条件の愛は、庇護を得るための本能だ。まず射幸心や、胸算用や、不安や嫉妬や劣等感や、性的欲求なぞが先にあって、そうしてようやく他者への関心が生まれてくる。キケローも先述の著作の中でこう書いている。「大方の人は人間の問題でも、善きものといえば利益をもたらすものしか思いつかず、友人も家畜を見るのと同じで、最大の利益を得られそうな人を最優先で愛するのだ」*1と。

 そんな事実に立ち返り、何だか漠然と億劫な気持ちになって、我々は結局「お友達なんていらないっ」とそっぽを向く。人に期待をしたくなくて、書物の世界に安寧の地を得て、今の我々があることを思い出す。

 

 

 

 好事家にお友達は不要かと言われたら、人間のそれは特別必要ないように思われる。第一まず人間に好かれる人間でないくせに自分から友人を欲するというのは、分不相応な高望みというもので、そんな無様な真似はこの幼稚な矜持プライドが断じて許さぬ。

 だがこの胸の内の郷里にまで孤独の風が吹きすさんでいるワケでも、また一方ではない。我々は本の中に支えとなる言葉を、絵画の中に心華やぐ庭園を、映画の中に日夜戯れる者を無数に持っている。果たしてこれを友と呼ばずして、何と言うか。かくも喜怒哀楽の情動をこの胸裏に起こさせ、時に厳しく時に優しく叱咤と激励を寄越し、突き放すことも寄り添うことも気まぐれであるが、それらに対して泉水の如く無限に湧き出づる我が純真なる愛を、友情とは決して呼べまいか。

 世間からは、このような様は寄る辺なき者に見えるらしい。だからこそ、そのように了見の狭い世間に笑われることがあるならば、逆に傲岸不遜に世間を笑ってやれば良い。確かに私は逆立ちをしても二人以上には分裂しない、上から見ても下から見ても「ひとり」である。しかしその「ひとり」は、無数の内なる友に囲まれて成り立っていことを、知らぬ者は永久に知らずにいて、それで結構なんである。

 それこそが、「好事家たるもの、孤高であれ」の真意である。

 

「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである」

────寺山修司『ポケットに名言を』

*1:キケロー『友情について』(2013)岩波文庫, p.66