乙訓の久子へ。
君に斯 うして手翰 を書くのは初めてだ。否、書く事自体は実の処 初めてでない、此 れ迄 何度も浅猿 しい情念 に駆られ便箋を乱筆で汚しては、否、僕の心情 は此様 な易しいものではない、本当の最後の仕事を一段 真剣になって綴らねばならぬと臆して送れず、幾月も過ぎてしまった。
だが今囘 こそは確信する、此の便りは必然 君の手元 に届くだろう。明日一日の朝零時に、友人の河野と八坂に初詣に行く口約束をしている。どうせ晦日を口実に四股 酒を呑んで臥 ているであろう僕の為に、下宿の玄関口まで迎えに来て呉 れるという手筈になっている。叱言 は云われたが、點頭いて呉れた彼は善 い奴だ。
半纏を羽織って玄関先の河野を睥睨したお主婦 さんは、階下から僕の名を呼ぶだろう。そして返辞がない事に、彼 の皺の刻まれた眉間に更に皺を寄せ、檜木の階段をみしゝゝ云わせながら僕の部屋へと上がってくるだろう。腰高障子を開けた目先 に在るのは最後まで放棄 れなかった書匣 に赤毛布 に、少しの調度抔 、そして悉皆 片付けた文机の上に置かれた此の書状だ。封筒の表に、此れを河野に渡す様明確 記しておく。爾 うでなければお主婦 さんが読み兼ねない。後は河野が如何為べきか解っているから、随分迷惑を掛けて仕舞う事を申し訳無く思うが、総て任せたい。
然う云う訳で、河野という名前から届いた君宛への書翰 に此れが同封されて居た事を、何卒訝らないで欲しい。彼は善 い奴だ。
今、夜の九時二十分だ。此処暫く裏の竹林を強く揺さぶって居た空風も、今日は寂然として凪いでいる。此の四帖一間に聞える物────火鉢の楢炭の小さく爆ぜる音、咥えているPeaceの火先 が燻る音、斯うして用箋にPILOTの万年筆を滑らせる音────其れが総て。十一時迄には書き上げたい。睡眠剤 は充分にある。此れを片手に、河野が来る前に、終電で保津の峡谷に向かう心算で居る。
君は今、急度嘲笑っただろう。過日僕が其の様な決行を批判したから。彼時は確か三月、僕たちは瓦斯ストーヴを挟んで対坐い煙草を吸っていた。君は先日、三原山で女学生が心中騒動を起こして以来、追随者が跡を絶たない事に就いて、
「私も女学生の内に三原山のような処で心中したいわ」
と云ったのだった。「三原山の灰色に立ち上る噴煙が位牌だなんて、恨みがましくって不貞ゝゝしくて素敵ね」と。
僕は其れに大人気もなく勃然となって、「自殺と云うのは人間の尤も意識的な自由選択で在るのに、幼稚な憧憬で他人の猿真似に終るなんて世話が無いぢゃないか。華厳滝で藤村の後を追う奴輩と同等位軽蔑する」と云う様な事を口走った。すると君は莞爾として斯う云ったね。
自殺とは生涯最後の仕事だが、其の大仕事を、今迄奴何程の人間が成し遂げて来たと思うか。自殺であろうと爾うで無かろうと、肉体存在が消滅すると云う結果が同等である事を考えれば、此の世に死んだ事が無い人なぞ独りも居ないのだから、死という仕事を成し遂げられ無かった人も又独りも居ない。詰り貴方が恰も未だ開拓されていない自由選択の最前線だと錯覚している其れは、既に創意工夫され、あらゆる人間が疾に語り尽くして居り、何処に着地しようと決して普遍を超越しえ得ないのだ。と。
君は三、四年前に死んだという或る仏蘭西人の話を持ち出した。弾丸が確実に心臓を貫通する様に定規で念入りに計測し、三十歳で拳銃自殺をした醒めた伊達男。彼が特別なのは、命を絶つ道具に拳銃を選んだ事でも、燃える銃口から熱い臓器までの距離を計った事でもない。決行に至るまでに為された十年分の周到な準備に就いて、興奮と反する葛藤とを大いに綴った筆跡を遺したからだ。此の身体を縊る手段の選択抔ほんの些末な事象に過ぎない。其処に至る迄の軌跡が重要なのだと。
其時僕は首肯せず、嚴乎となって彼是云い返したが、其れに就いての弁明は最早此処では致すまい。只、今晩の決行を君に納得して貰う為には、君の云う軌跡の控書が必要だと思ったのが、今斯うして早急に筆を走らせている理由なのだ。君は、三原山の投身に追従するのは先人の仕事に敬意を表す事だと云った。先学に倣う大切さは、熟く勉強している貴方なら熟く解るでしょうと、皮肉も副えられて居たけれど。
然々、熟く解るとも。故、此の手記が僕の巖頭之感である。
君のカーラーで膨らませた耳横の黒髪の色沢が、瞼の裏に揺れている。年末も年始も君は凝然として過ごすと云うから、斯う為て独りでインキを散らしている。階下の柱時計が鐘を打っている。十時だ。風が出て来た。隙間風が薄ら寒い。世棄てを決意しても寒い物は寒い。西行が其様な歌を詠んでいた。すてはてて身はなきものと思へども。
寒い事は不幸だ。不幸者と呼ばれる事には、何処か変った安心が、幸福が在る。幸福者とされる事は不幸だ。貴方の優越は其様な処にしか無いのかと云われれば、然うだと応える。幸福の為に行われる挙動は愚かだ。否、幸福で在る事を目的にしている内は何も彼も駄目だ。
斯うも書いてみよう。誰何にとって何者かで在りたいという願望が人を人たらしめるので在るが、其様な低処に囚われている限り、僕は僕に成れない、と。君にとって僕は一体何だったか。爾う考えれば考える程、迚も苦しい。自責の念に駈られる。
自罰は自傷に拠ってしか満たされないで在ろうし、自傷は陶酔に拠ってしか成功しないだろう。而して成功は信念を持ってこそ成し得るに相違ない。信念とは人生を賭すると決意した、殉死を宿命付けられた、万有への心意気だと思う。其れで、手段は喩え如何様であろうと、僕は前述の決意に到った訳だが、此の強烈な自意識がもう些たァばかり僕の精神の火室を燃やす石炭に成れば好かった。神経が余に悲痛に痙攣し、幾ら甘美な死を渇望しても、遂に其れ等が真なる道理を見出す糧と成り得なかった事を、僕は容認められなかった。併し、正しく苦しみもしなかった。惨憺だ。自分で自分を惨憺にしている。
昨晩は好く睡れなかった。僕は血走った眼で、此の筆先が最早望ましい言葉を綴って呉れなく成った様子を眺めている。手が悴んでいる。疾の昔に十一時の鐘は鳴り終わっている。拒んでも明日は来る。耐え難い。結局此れも又、凡庸な嘆きに満足している白痴を晒すための診療録に終始してしまった気がする。今囘 こそ気持は静寂になる物だと思っていたが、書けば書くほど何一書き切れていない気持になってくる。何という業の深い男。僕は未だ地獄に行けない。河野が来る。お主婦 さんが玄関の引戸を開ける音がする。もう幾度目だろう、又手翰 を出せなかった。
君の、花を活けた部屋を思い出す。懐古しい部屋。後日で新年の挨拶に行く。
十二月三十一日
午後十一時五十分
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