ケー・ドルセー41番地

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毎月月末、館より届く鈍色の便り

第31書簡「殺せ!心の今昔物語」

 平安時代の末期に成立したという、『今昔物語集』という説話集がある。

 日本から中国、天竺インドまでの説法、怪奇譚、恋愛物語等を多数収録した選集で、有名なものでは芥川龍之介の短編として馴染み深い『鼻』や『羅生門』の元ネタも、ここに収録されている。

ja.wikipedia.org

 この『今昔物語』の書き口にはテンプレートがあって、それが「今は昔(今となってはもう昔の話ですが)」という書き出しから始まり、「となむ語り伝えたるとや(と語り伝えられてるんだとさ)」という結びの句で終わるというものなのだが、どうやら私が普段YouTubeで公開している動画もそのような感覚で視聴されているらしい、ということをここ最近認識し始めた。

 

 

 

 先日このようなポストをした。

 普段私が自身のチャンネルで取り上げている話題トピックが古い時代のものばかりなので、「昔こんな作品や出来事があったなんて」というコメントを視聴者様から頂戴することは茶飯事なのだが、その「私が知らなかった」理由として「当時まだ私が生まれていないから」という説明をする人を時折見かけるのだった。それに対して毎度ある興味を感じて、上記のようなポストをするに至った。

 この「私が生まれていないから知らなかった」という説明には、ふたつの潜在意識が働いている。

  • 自分が生まれてからが「今現在」で、自分が生まれる前はすべて「昔という過去」に集約されるという自己存在の有無を中心とする歴史観
  • 自分が生まれる前のことは知らなくて当前だが、生まれた後のことなら何でも知っているという経験に多大な重きを置いた学習観

 私自身としては、今と昔の区別を自分存在の有無では定義しておらず、また世間知らずの程度が過ぎるが故に日夜恥ばかり搔いているものだから、生まれた後のことなら大抵知っているとはとても豪語できない。

 そんな自身の感覚は、もしかすると世間で一般とされている感覚と大きな隔たりがあるのではないかと急に気になって、次いで以下のようなポストをした。

 年齢まで聞いてしまったが故かあまりリプライをいただけず、充分なサンプル数は手に入れられなかったんですけども……。頂戴した回答を見る限り、そもそも歴史に強い関心があったり、演劇といった親しんでいる文化芸術があると、今昔の判断基準がその動向に依拠していくようになるが、そうでない限りはやはり自分存在や、普段自身が親しんでいるモノ(例えばスマートフォン等)の有無で今昔が区別されているように思われた。

 

 

 

 実際、私の上記のような「150年程前までは最近」という感覚も、歴史と文化芸術を俯瞰した時にそう思われてならないという側面が強い。Xでは書き切れないため、その理由をここに少々詳しく記しておきたいが興味がない御仁は読み飛ばされたし。

 産業革命を経て、英国イギリスを筆頭に欧米諸国が封建的社会から近代的なそれへと変貌を遂げるのが、19世紀初頭から半ばにかけてである。勿論それは日本も例外ではない、明治維新と言う名状と共にその変革はやって来た。

 手仕事は工場生産に取って代わり、人々は各地に点在していた農村を捨てて、工場労働者として都市に雪崩なだれ込んだ。都市に人口が集中し周辺には閑静な郷里が広がっている、という今なお続く人口分布の傾向はこの時代に形成されたし、決まった時間に職場に出勤して決まった時間に帰宅する、という生活サイクルもこの頃に一般化した。

 それまでの仕事────農耕であったり畜産であったり────は好きな時間、適切な時間に勤しむものであったのが、19世紀以降は時間を厳守して取り組むものとなる。家でいくら赤ん坊が泣き喚いていようが、今晩居間を暖めるたきぎや夕飯の食材を切らしていようが、出勤時間には何としてでも間に合わなければならないんである。そんな多忙な労働者に代わって、誰かが赤ん坊を預かってくれたなら、たきぎや食材を用意しておいてくれたなら、何と助かるんでしょう!

 ……そうしてこの時代に、「サービス」が初めて商品として成立するようになった。それまでは赤ん坊なんて代物シロモノは畑を耕しながら背負っておくものだったし、たきぎも食糧も自分たちで生産して賄うものだった。

人口集中はサービスの多様化を促す。これは窓や扉を鳴らして意地でも叩き起こしてくれる目覚まし屋さん。アラーム時計の登場と共に消えた。

 苦しい労働を終えた後には、娯楽の時間が待っている。労働者は工場を退勤すると、酒場パブで安酒を煽って束の間の休息を得た。

 今現在、苛酷な5連勤を終えたサラリーマンが花金に飲酒を楽しみ、土曜と日曜の休日はプライベートな趣味に勤しむ……という光景は誰しも想像に難くないだろう。このONの時間(労働時間)とOFFの時間(プライベートの時間)という概念が誕生したのも、労働形態が急速に変化した19世紀だ。

 都市にひしめく人々の需要に応え多様な商売ビジネスが展開されると、顧客もまた取り合いになる。商品やサービスの魅力を伝えたり、質の高さ、内容の面白さを訴えて、幾多の中から自社製品を選び取って貰う必要がある────そうして次に発現し高度に洗練されていくのが「広告」という概念だ。

1897年のアメリカのデパートカタログ。洋服の形が違う以外は完全に現在のファッションカタログと同じ。手製ではなく既成の服を買う習慣が成立していること、品質の宣伝が有効であることが見て取れる。

 識字率が向上し、庶民の娯楽として「雑誌」が人気を博し始めたのもこの頃なのだけれど、その一角に洋服や食品を宣伝する小さな枠が現れるようになり、街頭には芝居やレヴューの公演を告げるポスターが貼られるようになる。

1894年の子育て雑誌の一角にはコンデンスミルクの広告が。

戯曲『ジスモンダ』の広告のため1894年にミュシャが描いたこのポスターはあまりに有名。その出来栄えの良さに、勝手に剥がして持って帰る人が何人もいたとか。

 19世紀末に活躍していたオーブリー・ビアズリーという英国イギリスイラストレーターを紹介した際にも、私は彼が画家ではなくイラストレーターであること、彼の絵は「絵画」ではなく「イラスト」であることを再三注意した。ビアズリーのグラフィックは、雑誌を特色付ける美術として、他の雑本と差別化を図るための物語の挿絵として、公演を宣伝するポスターとして施された。これは、それまでの純粋芸術ファインアートとは明確に区別される大衆芸術ポップアートである。そしてそこには広告コマーシャル的性格が色濃く内包されている

 街中に広告が溢れていて、モノには差別化を図るためのデザインが施されている────そんな今では当たり前の光景が初めて現れたのも、19世紀半ば以降というワケだ。

 ……以上長くなったが、要は「社会」と聞いた時に頭に浮かぶ都市のイメージや人々のライフスタイルが現在の形態とほぼ同様になったのが、19世紀半ばという話(この言い方にはやや語弊があるかもしれない。150年前の人々が我々と同じ生活を発見したのではない。現在の我々が150年経っても未だにこのような社会システムから抜け出せていないだけだ)

 故に150年前までの大衆文化は体感的に理解がしやすく、現在巷に溢れている様々な表現、デザインへの影響も未だに顕著で、それらを私は自身と切り離された「昔」ではなく、地続きの「最近」と捉えている。

 この100年以上前の時代に覚える親近感のワケには、あとは確実に「慣れ」の問題もあるだろう。

 

 

 

 先程まるで歴史愛好者マニアのような屁理屈を連ねてしまったが、そしていつも動画で古めかしい話ばかりしているが、ならば物心付いた頃からそんな時代錯誤を常としていたのかと言えば、全くそうではなかった。

 騎士道物語や剣と魔法の世界ハイ・ファンタジーにのめり込んだせいで、幼少期から古風な西洋趣味を拗らせていたのは事実ではある。が、それはいざという時の心の逃避行先────つまり「今」「ここ」とは全く別の異世界としてそれらを認識していたからこその愛着であって、自身と地続きのものだと思えるから親近感を覚えていたというワケでは決してなかった。

 今でも思い出すのは、両親の古いアルバムを目にした時の、言いようもない不快感だ。TVテレビで懐かしの昭和歌謡特集なんて番組を目にした時にも、目を覆いたくなった記憶がある。イカすのかダサいのだか判断が付かない化粧とファッションで、聞き馴染みのない歌を、珍妙な踊りと共に歌ってみせる当時の人気歌手たちの姿を見て、まるで噴飯ものだというような嘲笑と、人の恥ずかしい姿を目にして自分まで居た堪れない気持ちになってくる共感性羞恥のような錯覚を覚えていた。

 つまり当時の私は、自身が生まれる前、両親の世代以降はすべて自身と切り離された「昔」と認識していたと思われる。そう、冒頭で提示した「自己存在の有無を中心とする歴史観」を、私も確かに持っていたのだ

 そしてその昔の光景に嘲笑と羞恥を覚えていたという事実は、「昔」の文化は知らない、つまらない、ダサいものであり、「今」巷に流布している文化こそ私が知っている、面白い、イカすものだという思い違いを露呈させる。それは自身が経験したものだけが正しく至高であるという、「経験に多大な重きを置いた学習観」であり、無知故の傲慢であった。

 

 

 

 今では日々嬉々として昭和の大衆文化ポップカルチャー調べてディグっている有様である。一体どこで裏返ったんだと首を傾げるのだが、やはり高校時代に、花の24年組に代表される少女漫画群を読んだこと、寺山修司という詐欺師(大いなる褒め言葉だ)に出逢ったことが大きいかもしれない、等と想像したりしている。

 それは熾天使まなこのように燃え盛る彗星コメット黒鉄くろがねのような隕石メテオが私の頭頂で激突したかのような大事件だった。自分が生まれるより何十年も前の表現が、新鮮で、斬新で、未だ比類するものがないくらい燦然と輝いて見えるということを、その時私は初めて知った。

dilettantegenet.hatenablog.com

 自閉していた価値観を完膚なきまでに叩きのめされて、瓦礫と化した卵殻の下からおずおずと周囲に伸ばし始めた食指で少しずつ「昔」の文化をつまみ食いしている内に、咀嚼の方法が何となく分かって来て、「今」の文化とはまた違ったその舌触りや風味に余計に好奇心を刺激され、段々と食わず嫌いをしなくなったような気はしている。

 その内どんどん枝葉が伸びて、日夜インターネットで19世紀の書物をも漁るようになり、当時の表現もすっかり見慣れてしまったので、今では150年前程度なら全く最近の感覚になったというワケである。

しょっちゅうお世話になっているNY公共図書館のデジタルコレクション。検索が使いやすいのがオススメポイント。

 昔の作品について会話をすると、稀に「なかなか手を出す勇気が湧かないんですよね」という返答を貰うことがある。「面白そうだから見る/つまらなさそうだから見ない」ではなく、「新しい作品だから見る/古い作品だから見ない」という判断基準が存在することに気が付かされる

 その人はきっと自分のそれまでの平穏な世界が揺るがされるかもしれないおそれを、無意識に察知しているのかもしれない。かの岡本太郎「不動のものが価値だというのは、自分を守りたい本能からくる錯覚に過ぎない」と看破しているが、逆に「価値の置き所を変えることは、自分が破壊される恐怖を伴う」とも言える。私の少女漫画と寺山修司との邂逅のような衝撃は、いわば「今という旧世界・・・・・・・」を転覆せしめんとする暴動クーデターであった。その革命の必要性は誰もが理解しながらも、自ら果敢に飛び込める人ばかりでもまたないだろう。

 だから私は動画で、その暴力テロリズムを────己の「今」を見つめ守るためだけにあつらえた殻を殴って粉々にするための拳を振るいたいと夢想する。

 

 

 

 「昔」をこそ尊ぶべきと豪語するつもりは微塵もない。「昔」ばかりが面白いワケでもない。だが、今現在とある表現がなされており、とある価値観が形成されているその背景には、「昔」を模倣していたり、「昔」を否定したり反省したからそうなっている……というような文脈が必ず存在する。例外は100%ない

 だから今見えている表層のみに焦点フォーカスを当てても、深淵までは察知できない。それはちょうど、本を一頁も読まずして装丁の美しさだけを賛美しているような状態に近い。そのような態度が一般的である限り、我々は薄っぺらい稚拙な表現に囲まれていようがいつまでも満足しているだろうし、表現は、感性は、文化は豊かな成長も複雑な変貌も見せぬまま停滞していくだろう。もっと大袈裟に言ってしまえば、現代人が現代人であることのみを誇りに思い続けるならば、その蒙昧もうまいはいつか愚かな歴史を繰り返す火種にもなるかもしれない。

 私の動画は『今昔物語集』ではない。「今は昔……」等という文句を、今こそ我々の心の中から消し去ってみたい。すべての時代と表現が等質フラットに、自分存在へ連綿と続いている物語として感じられる時、おごれる自我エゴは消滅し、超大な流れの中に意識だけが揺蕩うような感覚に陥る。私は2020年代の病理を、行き過ぎた個人主義がもたらした自意識の誤った頑なさに見ているが、その詳しい考察はひとまず次回記事に譲るとして、しかしこの「今」あまりに強固な自我エゴを「昔」で溶解させていく行為には、ひとつの癒しをもまた期待している。

 「今」と「昔」の合間に横たわる黒い俊峰を爆破せよ。その分水嶺の地底には、文化の輝く水脈が、煌めく鉱脈が、網目のように無数に繋がっている。

 

「知る勇気を持て Sapere Aude

────カント『啓蒙とは何か』