これは今から約10年ほど前の話だ。
まだ10代だった私は、無味乾燥な日常にうんざりして、心安らぐ箱庭欲しさに夢遊病者のように街を徘徊する日々を送っていた。どこを歩いても、ルートヴィヒ2世の狂気のノイシュヴァンシュタイン城は現れないし、デ・ゼッサントの美と退廃のヴンダーカンマーは見つからない。ヴェルレーヌは詩作と堕落の旅に攫ってくれないし、美少年ジルベールにも美少女メリーベルにも出会えない。退屈で発狂しそうなのに、流薔園(中井英夫が描いたサナトリウム)からの招待は永遠に来ない。
「日本の街並みは世界で一番醜い」と言ったのは、果たして誰だったか。
コピー&ペーストしたようなビルと住宅の羅列。バグ増殖したような無数の看板。文化と完全に断絶された、まるで安い書き割りのような没趣味な街で、私は感性の飢えに耐えかねていた。そうした日本の猥雑な都市風景が、むしろ『ブレードランナー』を初めとするサイバーパンク作品のビジュアルイメージに多大な影響を与えたと知るのはもう少し後になってからだ。梶井基次郎の『檸檬』に多大に感化されていた私は、こんな低俗で薄っぺらい街なんか爆破してやると、空想の檸檬片手に毎日苛立っていた。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終
圧 えつけていた。」
どこを歩いても真に感性に訴え掛けてくるようなものがひとつもない苦痛は、際限のない厭世観を呼ぶ。暇さえあれば
特に新宿は
そういえば新宿のそんな独自の文化を考察した、2016年の早稲田大学演劇博物館の「あゝ新宿―スペクタクルとしての都市」という展示はなかなか良かった。60年代の新宿は、血気盛んな才能たちの熱気で爆発せんばかりだったという体感を肌身で感じられる、気鋭の企画だった。
と新宿語りが少し長くなってしまったが、何はともあれ汽車しか存在しない時代でも田舎育ちでもあるまいに、私の東京への憧れは異常なもので、その内アルバイトで小銭を稼いでは東京に出奔するようになった。深夜バスに揺られ続けた、長い長い夜の暗いあたたかさを、今でも忘れないでいる。
東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京
書けば書くほど恋しくなる
────寺山修司『誰か故郷を想はざる』
それは、2、3回目かの東京逃避行でのことだった。
その日はちょうど気になる展示をやっていたというので、京橋のパラボリカ・ビスに向かっていた。このギャラリーは今は閉館してしまったが、雑誌『夜想』等の編集長である今野裕一氏が経営されていて、耽美というか幻想的というか、サブカルチャーと呼ぶにはちょっと
勿論知り合いなどひとりもいない空間だ。誰かに話しかける勇気がなかなか出ずにオドオドと周りを見回していた矢先、窓際に一人で腰かけている人物を見つけた。
縒れたチューリップハットを被り、ロマンスグレーの髪を肩まで伸ばし、サングラスを掛け膝の破けたパンタロンを履いたその男性は、私の憧れる60年代からそのまま抜け出して来たような姿をしていた。そしてここからが思い返しただけで赤面しそうになる記憶なのだが、私は彼を見て何を思ったか、「この人物こそ今野氏ではないか?」と勘違いしたのだった。お恥ずかしい話だが、当時の私は今野氏の容姿について、「髪が長い50代くらいの男性」ということしか知らなかった。
「今野さんですか?」と声を掛けた。「え?」という戸惑いの返事があった。
彼はパーティーの参加者の誰某と知り合いでその場にいたということだったが、その口からは美術と音楽の用語が無限に飛び出すので、私はいたく感動して熱心に聞き入り、自身が求めていたのは卑しい世間話ではなくまさにこういう高尚な会話なのだと、ロクな文化も教養もない生活空間で如何に精神を気高く持ち続けるか、それこそが人生を掛けた問題なのだと……そんなことを偉そうに捲し立てた。
何て大袈裟な、と貴方は笑うかもしれない。しかし当時の私にとって、美の欠片もない日常で息をし続けることの困難さは、初対面の人に噴火した火山の如く撒き散らしてしまうほどに切実だった。
彼はマニエリスムの絵画を愛し、美術と数学の共鳴を信じ、ロックとクラシックの間に彷徨う霊的な関係を察知していた。インド煙草のビディをくゆらせながら、極色のモディリアーニのような油絵を描き、自宅を日本で唯一のヨーロッパの美術館にするという計画に燃えていた。彼は「生活におわれている人ばかりで、耽美的な人に出遭えない」「毎日現実に吐き気を催す」というようなことを言って、幼稚な私を高く評価してくれた。すっかり舞い上がってしまった私は、彼を「先生」と呼ぶことを許してもらった。耽美を恋う者として如何に在るべきか、彼を師と仰いだ瞬間だった。
東京に出奔した時は師匠に会い、会えない時は文通をするという日々が始まった。
と言っても、対話をしても難易度が高く「ええ」だの「はあ」だの曖昧な相槌しか打てなかったし、離れていても彼の論文(と言う名の詩文)が大量に送られて来て、意気込んで読んではみるものの逆立ちしてもよく分からん、という毎日であった。けれど、美に
例として、師匠の教え(?)をここに少し共有してみよう。
例えば、ベルギー象徴主義の代表するひとりであるジャン・デルヴィル Jean Delvilleは「精神の美」「造形の美」「技術の美」を唱えていたという。しかし師匠に言わせれば、昨今の世の中には「精神の美」を欠いた画家が多すぎる。正しく美しく壊れた絵が描けるのは、やはりデルヴィルに限るという。ちなみにこの「壊れた絵」というのが一体何かと言えば、エラン・ヴィタール(生の躍動)とフラン・ヴィタール(生の制御)のふたつのベクトルが直交して内積ゼロを奏でた時に生まれる絵画である、とのこと。
師匠は何十年も前にベルギーのブルージュのグルーニング美術館に行き、デルヴィルの《人神》という作品を生で見て、真理の認識の光を学び得たと語った。そして安藤忠雄の「光の教会」はこの《人神》のパクりなのだと看破した。
また、アブレヒト・デューラーの作品に《メランコリア Ⅰ》という銅版画があるが、これは、ヴェルヴェットアンダーグラウンドの『ジ・エンド』のレコードに針を落とした瞬間に立ち現れる光景そのものだという。この《メランコリア Ⅰ》には右上に四次方陣が描かれていて、16の枡目からなる各々の数字の和は34なのだが、これはダンテの《神曲》の地獄編34曲であり、『イザヤ書』の中でリリス(宿命の女の原型でアダムの陰の妻)について書かれた第34章であり、イエス・キリストの死んだ年齢であり、そしてニコが『ジ・エンド』を発表した年齢であるという。ロックとは最初の一音で決まってしまう音楽だが、その一音の瞬間に『ジ・エンド』から《メランコリア Ⅰ》の絵画風景が顕現するのは、まさに《メランコリア Ⅰ》に描かれた
それは何の学説的根拠もない、傲岸不遜な連想ゲームのようなものであった。しかし次々と浮かんでは消えるドラッグの幻覚に身を委ねるように、止めどないイメージの連続に陶酔することで一種のトランス状態に陥ることも可能で、それは耽美なる遊戯の愉悦であった。梶井基次郎の『檸檬』にだって、心地良い錯覚の中に現実の自身を見失うことを楽しむ描写がある。現にそうしたトレーニングを積んだことで、私は荒涼とした日常風景の中に、隠れた美の地下水脈を見出すことが可能になった。その技術は私を、幾何かこの世に生きやすくした。
師匠はよく「魂の連鎖」という言葉を使った。真に美に生きれば、真に美なるものに呼ばれ導かれる、というようなニュアンスだった。
ある日、神保町に連れられて共に各々の目当てのものを渉猟していた折、師匠はベルギーのロップス美術館で開催されたことがあるというデルヴィルの大回顧展の画集を探していたのだが、とある古本屋の軒先に、タイミングを見計らったが如くそれが堂々と出ていたのだった。目にした時は、思わず鳥肌が立った。聖書の「求めよさらば与えられん」という文言の発現に立ち会ったくらいの衝撃だった。
それをただの偶然だと片付けることなら、誰にだってできる。実際、ただの偶然であっただろう。しかし何もかもを偶然と切り捨ててしまう抒情の無さ、感性の枯渇と無縁で居続けることは、誰にでもできることではない。視界に映る無秩序の中から一本の美の鉱脈を見つけ出そうという耽美的努力を24時間365日続けることは、決して平易ではない。そうして浮世の卑しさに吐き気を催しながらも切実な尽力を続けた先に、「魂の連鎖」は起りうる。
これは別段スピリチュアルの話ではない。もっと卑近な話で説明することができる。例えば何かのアニメキャラクターが好きなAさんがいたとして、本気であればあるほど熱意は自然と周囲にも伝わることだろう。ある時、景品だったりオマケだったりとふとしたことでそのキャラクターグッズを手に入れた人は、(そう言えばAさんがこのキャラクター好きだと言ってたな……今度会った時にあげよう……)と思い付く。そうして、Aさんは一言もそれが欲しいと言いふらしていないのに、ある日突然キャラクターグッズが手に入るというワケだ。
本当に求めていると、磁石が引かれ合うような出来事が不思議と起こる。この「求めていたものが向こうから来る」という現象は、趣味の世界では割とよくあることだ。逆に言えば、「来ない」時は、裏返せばまだまだ本当に求められていないという証左でもあるかもしれない。
しかし、耽美主義者の背中に学んだ美しい季節は、1年足らずであっけなく終わりを迎えることとなった。
師匠がとある小さなギャラリーで個展を開催することになり、私はオープニングセレモニーにご招待いただいた。だが様々な事情で開催時間に間に合わず、花の一本も持って行くことができなかった。師匠はそれに大変失望し、魂の矜持を失ってして見る絵などこの世にはないと、私は破門されてしまったのだった。
これを些細な出来事だと笑う人は、生きる切実さを知らない人だ。野暮な世間に辟易し、それが日々魂を堕落させてゆく虚しさに震え、
私に、耽美主義者である資格は、きっとなかったのだろう。
古傷が痛むように、今でも師匠の面影をふと思い出すことがある。まるで通り過ぎる嵐のようだったあの交感は、本当に現実だったのだろうかと。タルティーニの『悪魔のトリル』のように、それは私が眠っている間に悪魔から施された美のレッスンだったのではないか、と。しかし私の手元には実際、楽譜を書くようにのたうつ字で綴られた大量の手紙と、詩文と論文を印刷した大量のコピー紙がある。
10代の後半から20代の前半にかけて、私は人生の方向性を決めてくれた先生と呼ぶべき大人に有難くも何人か出遭うことができた。その内のひとりについてはロフトプラスワンWestのトークショーで以前お話した通りだが、もうひとりは、このたった数か月の間、火花を散らすようにして美術論議を交わしたこの師匠である。そして髪をざんばらに伸ばし常に世に反駁し、ビディの煙の中で狂人のように美の如何なるかを語る師匠を見てきたからこそ、「耽美」という言葉が軽薄に使われる瞬間に今でも敏感になってしまう。
何故こんな話をしたかというと、最近美少年や某2.5次元系の舞台俳優への形容詞に「耽美」が乱用されているを見て、それは耽美ではなく貴方の性欲(リビドー)ではと思い…多くの女性がそこに見出しているのは美ではなくイドへの刺激なんだよあ。性欲の隠れ蓑に「耽美」という言葉を使って欲しくないな
— 好事家ジュネ (@DilettanteGenet) 2021年8月3日
耽美なる情熱の在り方について、師匠は手紙の中でこう綴った。私の精神を随分と支えてくれ、今でも自身の訓戒として持ち続けているこの言葉を、師匠も以下に勝手ながら引用することを許してくれるだろう。
「人生とは知識、論理ではなくPassionなのです。Passionには情熱と受難と二つの意味がありますが、情熱が受難に屈した時、人は凡俗な精神の
人間 になるのです。〇〇さん(私の本名)、
人間 になる冥い情熱を持ち続けることが、ほんとうの知識なのです。」