ケー・ドルセー41番地

ケー・ドルセー41番地

毎月月末、館より届く鈍色の便り

第一書簡「麻薬商人の告白」

 YouTubeを始めて、早1年と半分が経過した。

 動画の編集なんて一度たりも挑戦したことがなかった全く無学からのスタート、ああでもないこうでもないと次から次へと湧いて出るトラブルに右往左往している内にも月日は無慈悲に過ぎて、あっという間だったというのが正直な感想だ。未だに納得のいく動画が作れた試しがなく、自身の進歩のなさ、技術不足に辟易する日々である。

 さて、そんな肝心の動画さえ満足に作れない私が、何故こんなところで駄文を書き連ねているのか。ただでさえ更新頻度の低い好事家ジュネのチャンネル、文字を並べている暇があったら少しでも動画を作れというお叱りの声が聞こえてきそうだが、以下に並べるのはそれに対する言い分────ある告白である。

 

 

 

 私の動画は原稿ありきだというお話はすでに何度もしているところだが、その原稿を書くために資料として様々な書籍を横断している。

 その中には、日誌や批評、エッセイの類も存分にあって、例えば最近だと中井英夫を特集したので、彼の『彼方より』『月蝕領崩壊』といった日記集や、『黒鳥の旅もしくは幻想庭園』『薔薇幻視』といったエッセイを読み漁った。動画制作に急かされて本を読むというのは、熱心な読書家ではない私にとっては良い尻叩きで、お陰で中井の暗く美しい深淵を今まで以上に覗くことができた。動画を通して勉強をさせてもらっているのは、何よりこの私当人である。

 しかし、資料の内容に「ソウダソウダ」と賛同するたび、その感動を書き殴りたいという気持ちが胸の内を幾度も過ぎった。「んなワケあるかバカヤロー」と憤怒するたび、反論を捲し立てたいという衝動に何度も駆られた。こうした作者の思想や心境が綴られた書籍を読むたびに、私の中で「自分も書きたい」という思いが膨らんで、ここ最近抑えがきかなくなっていたのである。

「他人の言葉ばかり扱っていると、自分でものを言いたいという衝動が、抑えきれなくなる」

────寺山修司『ポケットに名言を』

 

 

 

 YouTubeで活動しながら、私はずっと「他人の褌で相撲を取っている」という感覚が拭えないでいた。いくら高評価ボタンが押されても、賞賛のコメントを頂戴しても、素晴らしいのは私が動画の中で紹介している文化や人物であって、私ではない。

 勿論、私は人気者になるためにYouTubeをやっているワケではないというのは繰り返し発言している通りだ。こうしたカルチャーが誰かの心の拠り所になればと、そして自身の孤独だったインナーチャイルドの供養のためにこの活動を始めたから、アイドルのように扱われたいという願望は微塵もない。むしろそうされることは不本意であり、そのような囃し方をする人はチャンネルの意図を理解していただいていないと言い切っても良い。

 だが評価されたいという想いからではなく、このままでは自分はただの卑怯者だ────文化という宿主から美味い汁を吸っているだけの寄生虫だという想いから、本当の意味で自分自身のコンテンツを持たねばならないという念に駆られていた。

 そしてそんな時首をもたげた「自分も書きたい」という欲求に、つい溜息が漏れた。やはり私は「書く」という業から逃れられなかったという自嘲だった。

 

 

 

 一部の方はご存知だろうが、私はもともと物書きだった。

 物書きといっても職業として肩書きにできるような大層なものではない。人生のまばたきするような一瞬だけライター業を経験し、作家を目指すも原稿用紙を無駄にしただけに終わった、物書き崩れである。私の書いたものを誰も評価することはなかったし、私自身、箸にも棒にも掛からぬ悪文をよくもこんなに量産できたものだと、残された原稿の山(正確に言えば原稿データ)を眺めながら常々思う。それでも書くことが辞められないのは、書くことは呼吸をすることに他ならなかったからだ。

 だいたい世間ではまず思想があって言葉が出てくるのだと思われているが、それは大きな間違いだ。確かこれは寺山修司も似たようなことを言っていて、今それをここに引用しようとしたが、手持ちの著作を引っくり返しても見当たらないのでひとまず持論を進めよう。

 そもそも誰しもが何かモノを考える時、必ず頭の中でブツクサと独り言を呟いているはずだ。人は言葉がなければ、何も考えることができない。思想があって、言葉があるのではない。逆である。言葉があって、次に思想があるのである。書くこと────言葉を連ねることは人が考えることに他ならず、パスカルは「人間は考える葦である」と葦と人の差異を思考の有無であると定義した。つまり人が人として在るためには書かねばならないという三段論法がここに成立する。それを「書くことは呼吸すること」────人が生命活動する上で必要な呼吸をすることだと言い換えるのも、ちょっとした比喩にはなるまいか。

 動画制作に必死になればなるほど、自身の形がグニャグニャと歪曲して掴みようのない異物と化していく恐怖に襲われていた。人としての形を留めておくためには、私はやはり、どうしても書かねばならなかった。

追記 (2022.10.27)

 この寺山修司の「言葉が先、思いは後」という創作態度について、私は寺山が自身の著作に記していたものと思い込み文献を振り返っていたのだが、これは記憶違いで、正しくは寺山文学及び演劇の本質を分析研究した三浦雅士氏による『寺山修司────鏡のなかの言葉』における評であった。三浦氏は本著の中で、それまでの俳句や短歌の世界では、思いが言葉を引き寄せるのであって、言葉が思いを引き寄せるのではないと考えられていた。しかし寺山は、まずはじめに言葉があり、思いはそれからやってくると考えていたため、言葉を操作し俳句や短歌をまるでコラージュするが如く作った、という旨を述べている。

 

 

 

 YouTube動画など、無料コンテンツという娯楽に脳死した患者に贈る粗悪な麻薬にすぎない。そう自責しながらも、これまでの私は麻薬商人の身分に甘んじてきた。世界のすべてが恐ろしかったかつての私は、この束の間の安息を齎してくれる麻薬をこそ求めていて、麻薬を精製し続けることが未だ胸の内で泣いているインナーチャイルドへ供物を捧げることに他ならなかったからだ。そうして惰性で1年以上麻薬商人を勤めた私だが、今ここでハッキリと書いておこう。

 YouTubeでは、何も知ることはできない。何を伝えることもできない。

 「分かりやすくて勉強になる」というYouTubeへの評価は皮肉なものだ。YouTubeというプラットフォームにおける動画コンテンツは初めから「何も考えず画面の前に座っているだけで何か知った気にさせる」ことを最大の目的として作られているのだから、分かって当たり前なんである。逆に言えば頭を使わなくても分かる範囲しか動画にはされないんである。

 無論一方でそれが学びのキッカケ、趣味の入り口として優秀なのも確かであって、私も動画を作ることでそんな水先案内人────文化という名の無数の水路の入り口を案内する────になれたらという想いがあったが、良くも悪くも案内できるのは結局「入り口だけ」だった。YouTubeという阿片窟の中では、どれだけ言葉を工夫しても、ごくごく簡単なことしか語り得なかった。そうして作る低俗な動画は、視聴者をロクデナシにする阿片にしかならず、私の私自身の言葉を封じる口枷にしかならなかった。

 開き直るしかなかった。YouTubeを続ける限りは、いくら雄弁な水先案内人を名乗ろうと私の実態は無言の麻薬商人だった。せめて中毒者の中から、未来のウィリアム・バロウズやトマス・ド・クインシーが誕生してくれることを願うしかない。YouTubeを辞めることも考えたが、このチャンネルを心の拠り所としてくれている孤独な好事家たちのことを思うととても決心できなかった。何よりも、こんな動画が欲しかった、こんなチャンネルと出会いたかったと願っていたのはかつての自分ではなかったか。「好事家ジュネの館」を1年半運営して最も楽しませてもらったのは、何を隠そう私自身だった。

 YouTubeを捨てる決意はついに付かなかった。しかしその代わりに、もっと思うままに表現できる場を作ろうと思い立ったのであった。YouTube動画という浅薄なコンテンツではとても表現しきれない、もっと自由な思索、猥雑な記録を残せる場を。

 そうして、このブログは開設された。

 

 

 

 ケー・ドルセー41番地とは、かつてロベール・ド・モンテスキュー伯爵が豪奢な館を構えていた仏・パリの一住所だ。

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アンリ・ルシアン・ドゥーセ作《ロベール・ド・モンテスキュー伯爵》1879年

 この伯爵は耽美と頽廃をその一身に具現化したようなダンディズムの権化であった。芸術家を庇護し、自らも詩文を書き、その傲岸不遜な振舞と才気煥発な会話からサロンの寵児だった彼は、プルースト失われた時を求めて』に登場する倒錯したシャルリュス男爵や、ユイスマンス『さかしま』の偏屈な貴族デ・ゼッサントのモデルになった。

 この『さかしま』こそ私が人生手本とするデカダンの聖書であるが、幻想絵画や奇書悪書に囲まれたデ・ゼッサントの「人工楽園」も、このケー・ドルセー41番地にあった伯爵の私室や美術コレクションからインスパイアを受けたと言われている。ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』の主人公ドリアン・グレイの白い胴着もこのモンテスキュー伯爵の服装を参考したとの噂で、彼が世紀末の文化人たちにとって創作欲を掻き立てられる魅惑の人物であったことは想像にかたくない。その放縦な生涯については、国書刊行会の『1900年のプリンス』が詳しい。

 私は彼のことを澁澤龍彥の『異端の肖像』を通して知り、その豪華な住まいがケー・ドルセー41番地に在ったらしいという典拠もこれである。澁澤のことだから、果たして本当に正しい情報なのかは何とも怪しいところではあるが、ここはYouTubeではないのだから、大切なのは真偽ではなく「澁澤龍彥がそう書いている」ということである。信じるならば、無味乾燥とした事実よりも、瀟洒な嘘。

 モンテスキュー伯爵が美男子・ガブリエルと暮らし、そしてデ・ゼッサントの人工楽園が顕現した土地に、「好事家ジュネの館」が屹立しているのを夢想する。そしてその館から、毎月末日になると1通の便りが届く。要領を得ない、取り留めもない、しかし確かに館の主が貴方に宛てた鈍色の手紙が……。

 そんなイメージを巡らせて、このブログのタイトルを決めた。

 更新は毎月末日。筆不精だから続くか分からないが、更新が止まったら、館の人工楽園はついに完成を見せ主人は外界への思慕をようやく断ち切ったと思ってもらって良い。貴方が引っ越さない限りは────この好事の世界に関心を失い去りゆかない限り、手紙は届き続けるはずだ。

 ちなみに鈍色とは、銀が変色して黒ずんだあの色であるが、その語源は刃物が錆びて切れなくなった「鈍る」だという。そして黒が広く喪服の色とされる以前の、日本人が服した喪の色であった。ざりざりとした語感を持つ、沈鬱だがやわらかなこの色が、私は大層好きである。

 

 

 

 架空のケー・ドルセー41番地から、この便りを送りたくて仕方なかった想いの丈を以上に記して、まずは第一書簡としたい。

 なお、この内容はブログ開設の知らせと称して以下の動画にも収録した。ご覧いただくと、私がこの手紙の中で散々綴った、動画というコンテンツが如何に薄っぺらいものか、動画にすることで私の伝えたい重要なニュアンスが如何に抜け落ちてしまっているかというイロニーがよく分かっていただけるだろう。