10代後半の頃、70年代に発表された少女漫画を熱心に読んでいたことがある。
萩尾望都『ポーの一族』や竹宮恵子『風と木の詩』、池田理代子『ベルサイユのばら』、大島弓子『綿の国星』、木原敏江『摩利と新吾』、山岸涼子『日出処の天子』、三原順『はみだしっ子』、一条ゆかり『砂の城』
嗚呼、仰げば尊し、ペヨトル工房────(by.村崎百郎)*1
70年代の少女漫画との邂逅は、それまでの美意識を180度変えてしまうほどのショックを私に与えた。制服なんて着崩してナンボや、と
受けた衝撃の大きさは当然作品の卓越性ゆえであるが、それまで少女漫画というものを忌避して読んでこなかったのも一因であるやもしれなかった。実を言えば、それまでは少女漫画なぞ恋愛しか関心事のない女児の与太話だと、白雪姫や
勿論これは少女漫画を読んだことがない人間の多大な偏見である。が、主体性のない女性、あるいは男性を前に平気で主体性を捨てる女性への
そしてそうした少女漫画と女性への軽蔑心が、「少女」という何者かへのイメージをも著しく損なわせていた。「少女」とは、純粋で眩しいものでも、儚く美しいものでもない。幼さ故に知能は低く、言葉も貧しく、しかし淫欲だけはすでに一丁前な「小」さい「女」────「小女」なのだと。
その憎悪の念を抱いていた頃というのは、私自身が「少女」に該当する年齢であったはずなのに、当時の私の中の「少女」の印象は、私と対峙し、白濁した
勿論、そうした「
「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ、……」
────ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』
まだ12歳という年齢でありながら、蠱惑的な気配を漂わせるドローレス・ヘイズ(愛称:ロリータ)。彼女は年増の男性ほど、その抗い難い魅力で惹き寄せていく「ニンフェット nymphet」である。それは年不相応な色香を、年不相応な対象へ放つ者。
かつて少女文学紹介動画でも紹介した、森茉莉『甘い蜜の部屋』の
ここでの少女は「小女」と呼ぶべき、私の忌み嫌う対象ではあるが、それでも私が上記の作品群を愛しているのは、「小女」の持つ
これが現実世界に現れた時、通俗的なメディアに露見する時に、媚態の悪臭を放つ。
少女が成人男性の性的対象になるのは、本来は「おかしい」ことではある。
未成年の女児を性的に求めるのは大人として間違っているだとか、ロリータ・コンプレックスは異常者だとか、世間の常識や良識の如何を問うているのではない。その是非は私の知るところではないし、知るつもりもない。私が言いたいのは、理屈や当否はともかく、旧来の社会では成人の情欲の矛先に少女が含まれるのは「おかしい」という前提がまずあって、だからこそナボコフの『ロリータ』は異端文学として成立したし、ロリコンブームは屈折したカウンターとして機能した、ということだ。
そういう大きな前提が多様性の名のもとに瓦解している今、「少女」はますます「小女」として卑俗で性的なところで消費されるのみになってゆくだろうし、物語の中でさえ、秀逸な異物として在りえなくなってゆくだろう。
※ロリコンブームについては虫塚虫蔵氏の膨大な調査記録がとても勉強になるため僭越ながらここに引用させていただく。
それまでの成人漫画というのは所謂「劇画」で(ゴルゴ13のようなタッチを想像していただければ良い)、大人同士の性事情が描かれたり描かれなかったりしていた。それが、ロリコンブームのような潮流が起こってから、まだ二次性徴も迎えているか定かでない童顔の少女が性的アイコンとして描かれるようになっていった。
今や(設定年齢はともかく)発達しきった豊かな乳房や臀部を持つ身体に、贅肉のない枝のような四肢と
ここまでくると欲望の極致という感じがして最早一種のすがすがしさまであるが、ある意味「幼いが性的魅力は存分にある」というニンフェット的属性を絵で表現した際の、最も分かりやすく即物的な手法ではあるかもしれない。
「
しかし70年代の漫画に登場する少女たちにそうした嫌悪感を抱かなかったのは、今思えば不思議なことだ。単純に、同世代の漫画は感覚が近いが故に生々しいが、一昔前の漫画は感覚的な遠さがあるがために適度な距離感を持って読めていた、というのもあるかもしれない。ともあれ、日焼けで茶色くなった頁の中に生きづく少女は、これまで私が知っていたどんな少女よりも透明で眩しくて、心を切なく捉えて離さなかった。
「きみはだまって そこにいる なにもいわずとも そしてわかってくれる────」
今尚狂おしいまでに愛してやまないのは、何といっても『ポーの一族』に登場するメリーベルだ。萩尾先生の唄い上げるような、心の琴線のかたちをなぞるような美しい線であるからこそ紙の上に多少顔を見せる気になってくれた、何処かに息付くやさしい
よく読んでみれば、メリーベルも旅先で出逢った少年と一丁前に恋なんかもしているのだが、私は彼女にどこまでも透明な、未分化の愛らしさを感じて、これぞ私の「少女」だと心中で咽び泣いた。女性性が「少」ない「女」────娼婦の戯れではなく幼子が人を恋うような愛しか持ちえない、無臭の硝子細工────それが「少女」だと。
だが理想の「少女」像の獲得は、同時に喪失をも意味する。その虚ろな少女は最早現代のメディアに登場することは叶わず、当然、現実世界でも存在しえないからだ。今後の人生の中で、「少女」に新しく出逢うことは永遠に叶わない絶望。
仮に自身を「少女」であると自覚した子がいたとする。しかし生身の人間である以上は異性の眼に否応なしに晒される。その異性のまなざしを、自身の魅力によって操作しようとするならばそれは「小女」だ。一方でまなざしを拒んだとしても、それによって男性性に対する女性性を意識させられている時点で「性的な分化」を経ているから、未分化のまま天真爛漫であれる「少女」では既にない。
男性は男に「成っていく」のに対して、女性は自らの中に女を「発見していく」のだとよく言われる。女性性の発見の否定は、際限のない自己否定に陥るのみだ。肉体の成長は、死なない限りは止めることはできないから。
「少女と相語ることには、あるいは生涯的伴侶が内包されている」
「女はだれでも『女』に相違いないからだ。女性は模型自然だと云えるが、(中略)庭木や鉢植えが同じ模型自然に属している限り、別に素敵な美女でなくともわれわれを十分に愉しませてくれる」
と語る。例え女に「小女」だった瞬間があったとしても、「少女」だった瞬間など、一度たりとも有り得なかったのかもしれない。私はあの頃、自分が「少女」であったことに気付かなかったのではなかった。「小女」であることを認められなかったのだ。
もしも、もしも刹那「少女」だった瞬間が何らかの偶然であったとしても、その先には「性的な分化」のY字路が必ず立ちふさがり、女性性という名の卑しい選択肢しか待ち受けていない。それは望まなくとも引きずり出される、永遠に平和が訪れることのない戦場である。
「少女」の発見とは、自分が生まれ持った呪いの、発見でもあったのかもしれない。