今、時代は「第3次AIブーム 」を迎えている。
1950年代に萌芽を見せた人工知能 A rtificial I ntelligence は、現在のSiriの起源になったとも言われるELIZE ( イライザ ) が60年代に誕生したことによって一躍注目を浴び「第1次AIブーム」を巻き起こした。寺山修司 や唐十郎 が活躍したアングラの時代に人工知能 もまた躍進しているという乖離 ( ギャップ ) に個人的には戸惑うばかりなのだが(一方で経済と科学が凄まじい発展を遂げた時代だったからこそ当時の前衛文化人は土着的日本の忘却を警告していたのだと、彼らの切実さがより迫って感じられもするのだが) 、80年代にも再び巻き起こった「第2次AIブーム」も、技術的に頭打ちとなりじきに鎮火した。
以前『完全自殺マニュアル 』を取り上げた動画の中で、「80年代にはアーティフィシャル・インテリジェンス(人工知能 ) の研究などSF的想像力がよく話題になっていたような気がしますが……」という宮沢章夫 氏『NHKニッポン戦後サブカルチャー史 』からの一文を引用したのを記憶されているだろうか。この文章は、80年代にAIに再び注目が集まっていたという「第2次AIブーム」を暗に語るものである 。
それが2020年代 現在。ビッグデータ による機械学習 が実用化されたことで、AIに目覚ましい技術革新が起き「第3次AIブーム」が到来した 。
簡単に言えば、AIが猫と犬を識別するために、これまでは「犬の特徴は○○。猫の特徴は○○」と人間が事前に細かく指示しておく必要があった。それが、犬と猫の画像を大量に読み込ませれば、自動で犬と猫の特徴を理解し識別することが可能になったというワケだ。
が、ここでひとつの問題が浮上する。「既存の画像から学習させるのは、著作権 違反にあたるのではないか 」という論争が巻き起こったのだ。
AIの種類、用途は多種多様ではあるが、特に画像や音声、映像などを作成する「生成AI 」に対して、その批判は凄まじい。最近では、X(旧Twitter ) が「サービス上にアップロードされた画像データを生成AIを含むトレーニン グに使用することに同意するものとする」と利用規約 を改訂したことに非難の声が相次いだ。アカウントのプロフィール文に、自身の作品を画像生成の学習元に使うべからずという「無断学習禁止」の文言を掲載する者も現れた。生成AIに否定的な論者の中心 ( メイン ) は、ネット上で積極的に作品発表を行うイラストレータ ーと、その支持者であるように思われる。
私個人としては、SFで描かれてきた未来世界への予感、ブレイクスルーの歴史的瞬間に今まさに居るという興奮────と書くと大層に見えるが、要は浪漫 ( ロマン ) を掻き立て妄想を刺激してくれる情報に常に飢えているだけという軽薄 ( ミーハー ) な好奇心から、AIに多大な関心を抱いており、それは生成AIに対しても同じだった。よってこの新しい玩具を小手先で弄っては、以下のように度々遊んだりしていた。
が、過去に行ったこうした投稿に対し、「AIを使うなんて幻滅した」という批判を複数受け取った。生成AIの賛否については沈黙しているつもりだったが、これら反応には正直疑問を覚えることがあり、そろそろこの辺りで自身の立場を明確にする必要を感じた。
……ということで前置きが冗長になったが、今回は「生成AIを使ってイラストや写真を出力する行為は悪なのか 」という論争に対しての、現時点での自身の見解を綴ることとしたい。このブログでは普段「如何に世の中を僻 ( ひが ) んで捉えるか」「如何に根性曲がりの美学を持つか」という陰湿な精神論を提案しているが、今日はそうしたおふざけは一旦引っ込めておく。
なお主に議題とするのは絵画、イラスト、写真、映像といった、平面で展開される視覚芸術 ( ビジュアルアーツ ) のAI生成であり、その他は触れるに留めておく。またイラストレータ ーの間で生成AIが毛嫌いされている理由のひとつに、AI出力した絵で金銭を得ている通称「AI絵師 」が従来のイラストレータ ーを小馬鹿にするような言動を繰り返していることがあるようだが、これはAI絵師の人間性 と品格の問題であって生成AIの技術問題とは何ら関係がないため、感情論として取り合わない。あくまで「AIで視覚芸術 ( ビジュアルアーツ ) を生成するという行為」の是非について考えたい。
① 生成AIの仕組み:著作物をコピー&ペーストしているワケではない
まず権利問題云々の前に、生成AIが画像を出力するまでにどのような作業を行っているのかを理解しておきたい。
生成AIが行っているのは、既存の画像の合成ではない。画像から学んだ「特徴」や「パターン」の再現だ 。
例えば吸血鬼の画像を生成してみる。AIは何億にものぼる画像データから、吸血鬼の「特徴」を学習している。この「特徴」とは、吸血鬼は犬歯が長いだとか、唇から血を垂らしているだとか、黒い西洋貴族のような恰好をしているだとか、要は「それによって受け取り手が吸血鬼が描かれていると認識できる表現パターン 」のようなものだ。「象徴」とか「記号」と言い換えても良いかもしれない。
試しに、OpenAI(という企業) が提供するDALL-E3 と、Stability AI(という企業) が提供するStable Diffusion というAIで、画像を生成してみた。どちらも命令文 ( プロンプト ) は、 ”Create a vampire image. (吸血鬼の画像を作って) ” という至極簡潔 ( シンプル ) なものにした。
DALL-E3とStable Diffusionで出力したそれぞれの吸血鬼。
左は夜の古城を背景に立て襟のマントを羽織って佇む古典的なイメージであるのに対し、右はスーツジャケットにワイシャツを着けた現代風な出で立ちと、若干趣が異なる。だがどちらも吸血鬼を描いたものだと、何となく分かるのではないだろうか。
それは貴方がこれまでに、多くの吸血鬼に関する情報を見聞きし学習して、 「こうした要素を携えていたら吸血鬼だろう」という吸血鬼の普遍的な「特徴」を理解しているからだ 。左の画像で言うなれば、尖った犬歯や貴族的な服装、城、満月、蝙蝠 ( コウモリ ) 、墓石。右の画像で言うなれば、病的な白い肌、血を連想させる赤い目や唇、装飾品等がその「特徴」に当たる。
AIはこの「特徴」の理解を、インターネット上の無数の画像を読み込むことで行っている。何年もかけて様々な経験を通しながら学ぶのと、一瞬でネット上の画像から学び取るという、時間と手段の差異があるくらいで、人間とAIが行っている「普遍性の学習」の過程そのものには大した違いはない。
つまり生成AIの正体とは、
あるキーワードに纏 ( まつ ) わる「特徴」を、膨大な数の画像を参照することで学習し、
どの「特徴」を取捨選択して強く前面に打ち出すかという組み合わせによって、
無限の画像パターンを生み出すプログラム
ということだ。上記の吸血鬼の出力結果に違いがあるのは、DALL-E3とStable Diffusionで、学習した吸血鬼の「特徴」の、数や内容、組み合わせ方等に差異があるからだ。間違っても、左はクリストファー・リー が演じた吸血鬼ドラキュラと『インタビュー・ウィズ・バンパイア』におけるトム・クルーズ の写真を合成したものではないし、右はマリリン・マンソン とMAYHEM ( メイヘム ) の面子を融合させたものではない。生成AIは写真やイラストといった著作物を、原型 ( オリジナル ) が判別できないように歪めてからコピー&ペーストする機械 ( マシン ) ではない 。
さて、ここで次の問いが浮かぶ。既存の画像そのものを流用していないことは分かった。しかし、既存の画像からピックアップした「特徴」を再利用することもまた、著作権 違反なのではないか?
答えは、否である。
② 芸術 ( アート ) という行為の本質:それは感性と唯一性の競技ではない
「特徴」の再利用が許されているワケを理解するために、著作権 云々より先に、創作とは、芸術 ( アート ) とはそもそも如何なる行為であるのかを押さえておく必要があるかもしれない。
極論を言ってしまえば、芸術 ( アート ) とは、記号の模倣と破壊である 。既にある形式 ( フォーマット ) 、構図 ( コンポジション ) 、題材 ( テーマ ) 、技巧 ( テクニック ) 等を学んで、真似たり混合 ( ミックス ) してみたり、あるいは反発し新しい手法に変化させたりして、ひとつの情報として具現化させたもの────それが芸術 ( アート ) だ。例えば絵画においてはその情報は、時に歴史や伝説を語り継ぐため、時に身分や格式を証明するため、時に状況や出来事を説明記録し、感情を吐露するために機能しただろう。
例として、以下の2作品を挙げてみる。
ティツィアーノ 『ウルビーノ のヴィーナス』(1538年頃)とマネ『オランピア 』(1863年 )
左が16世紀にイタリアのティツィアーノ によって描かれた『ウルビーノ のヴィーナス 』、右が19世紀にフランスのエドゥアール・マネ が描いた『オランピア 』という作品だ。構図や題材が非常によく似ていることが一目で分かるが、これは「パクり」とは見做されない。
事実、マネはティツィアーノ の絵画を真似ている(マネだけに) 。有名な絵画の構図を真似ることで、『オランピア 』は見る側に古典的な美しさを湛えたヴィーナスをまずは想起させる。女神という既存の記号を引用しているワケだ。
しかし『オランピア 』で女神のポーズを取っている女性は娼婦である(オランピア は19世紀フランスの娼婦の源氏名 あるあるで、当時の鑑賞者はタイトルを聞いただけでも察することができた )。ここに女神という記号を娼婦という記号に置き換えるという、記号の挑戦的な破壊、読み替えが行われている 。
ティツィアーノ の絵画と比べると、マネの絵画には奥行きがない。また陰影が希薄である代わりに、黒と白の強い明暗 ( コントラ スト) で構成されていることにも気が付く。これは当時のフランスで日本趣味 ( ジャポニズム ) が流行し、浮世絵の平面的な構図、パッキリとした大胆な色遣いが西洋絵画にも影響を与えたからだと言われている。マネは浮世絵のそうした特徴的な要素────記号を模倣したワケだ 。
既存の画像からピックアップした「特徴」の再利用が著作権侵害 に当たらないのは、以上のようなワケにある。マネは『ウルビーノ のヴィーナス』から、女性の裸体やポーズという「特徴」を引用し、浮世絵からは色遣いや構図という「特徴」を流用しているが、これは芸術に普遍的な行為で、芸術という創造の営みそのものだ 。
以前、第31書簡「殺せ!心の今昔物語」 にも書いたが、この世の全ての表現は過去を踏襲、あるいは否定した文脈上にあり、そこ切り離された表現はひとつたりとも存在しない。作者が意図していようがいまいが、無自覚の完全な偶然であろうが、全ての創作物は記号の模倣と破壊という観点から批評することができてしまう。
③ 唯一無二 ( オリジナル ) という自尊:芸術を誤解したことで陥る罠
しかしSNS では、自身の創作物を、過去の如何なる表現からも影響を受けていない完全な元祖 ( オリジナル ) とする態度に遭遇することがある。
ProfiteroleMixで生成。
例えば以上のようなイラストがあった時、19世紀末英国のメイドが着けていたエプロンとヘッドドレスが装飾部品 ( パーツ ) としてリデザインされている、と指摘することができる。目頭や粘膜の描写を省き、上瞼の線は太く、下瞼の線は細く描く手法は、日本の漫画の中で発展してきた目の描き方だし、鼻口の矮小さや輪郭や頭身の幼さも同様だ。
そもそもこのイラストは輪郭線の中を塗り潰すような方法で描かれているが、こうしたスタイルは中国唐代の仏教絵画や日本の大和絵 に既に見られるものであり、そこから何百年にも渡って脈々と受け継がれ変化、進化してきた技術と言える。
今の我々がこうしたアニメ風の絵を描く時、まさか大昔の英国や中国を思い浮かべることはないだろう。しかし過去に触れたアニメや漫画、ゲーム等のビジュアルは、無意識の内にその手癖にきっと影響を与えているはずだ。メイドっぽい部品 ( パーツ ) や、独特の目の描き方、線描と彩色を組み合わせたスタイル等────こうした「特徴」を、我々はこれまでに目にしてきた数々のデザインから無意識に抽出し、脳内で再混合 ( リミックス ) して出力している 。先述の通り、これは生成AIが画像出力する過程と極めて似ている。
あらゆるアイデア が出尽くしたと言われる現代において、「オリジナリティ」はもはや、無から記号を発明してみせたか否かという「唯一性」よりも、過去の記号を如何に面白く再混合 ( リミックス ) してみせたかという「独創性」のことになりつつある 。小説やファッションの界隈 ( ジャンル ) では、特に分かりやすく顕著な傾向ではないだろうか。筋書き ( プロット ) には神話の時代から続く雛型 ( テンプレート ) があり、ファッションは20年毎に過去へと再接続している。
そうした中、どうもイラストにばかり、過去の如何なる表現の文脈にも属さないという「唯一性」が主張されがちだ。作者の不勉強も少なからず背景にあるだろうが、それよりも、先述した「記号の模倣と破壊という論理的 ( ロジカル ) なゲームこそ芸術 ( アート ) である」という意識が欠けているところを、私は問題視している。
つまり、「感情の赴くままに独自に描いた絵こそ真の創作であり、人を感動させられる芸術作品 ( アートワーク ) たりうる。過去の表現を参照する行為は商業 ( ビジネス ) では行われるだろうが、それは純粋な芸術家 ( アーティスト ) のすべきことではない。そのような『パクり』の意図を持って描かれたもので、人の心を動かすことはできない」 という、芸術への誤った認識 が根底にありはしないか。
そしてその誤解の元凶のひとつを、私は日本の教育現場に見ている。
④ 日本の誤った美術教育の弊害:イラスト界隈で反AIが多い理由
専門学校ではない一般的な小学校や中学校で、美術の時間、先生にこう言われた記憶がある人は多いのではないか。
「好きなように作ってみましょう」
そうして好きなように作ってみた矢先には何かと文句をつけられる、という理不尽が待っていたりするのだが、この指導こそ諸悪の根源だと私は睨んでいる。
歴代の美術作品の構造や技巧 テクニック ) をロクに学ばせないまま、作品を創らせる。そこでは、作品読解はもっぱら「作者のお気持ち」を察する行為として行われる。技術的な仕掛け ( ギミック ) や、根底にある歴史文化、時代精神 ( ツァイトガイスト ) を探る図像解釈学 ( イコノロジー ) 的な学びは一切なされない。こうした教育が、芸術 ( アート ) とは自由に感情や感性を表現するもので、過去の表現を真似るのは創造性を欠いた卑怯な行為である、という偏った自意識を培養する。
一見好き勝手描いているように見えるこの『記憶の固執 』等で有名なダリも、「昔のことを教えてくれない」という理由で学校を辞めているくらい、過去から学ぶことを重要視していた。
本来、絵画や彫刻、作曲、建築といったあらゆる表現は、古代から近世に至るまで、宗教や権力に奉仕するための技術によって生み出された「仕事の成果物」でしかなかった。またそれに携わる者も、高度な技術を持った一職人でしかなかった。そこには注文主の都合で左右される予算と納期があり、作者の性格や事情は作品に影響しない(と言いながらそれが垣間見えちゃう瞬間がまた面白くもあるのだけど) 。
芸術 ( アート ) が、個人の感情や創造性 ( クリエイティビティ ) を表現するものとして工芸技術と区別されるようになったのは、18世紀後半以降の話である。感性至上主義は、何千年も続く長い長い美術史の中で、ここ最近、ほんの100年程度流行っているだけの、極めて特殊なものだ。
よって「芸術 ( アート ) =『私 ( ワタシ ) 』の思いの丈を表現する方法」という指導は、完全な間違いではないにしろ、ごく局所的な歴史にしか触れていないことが分かる。教師自身も美術史を学んでいないことが多く、上記のような偏った指導は、日本の教育が抱える問題だ。
美的価値と感情を表現するためだけの芸術 ( アート ) の前に、その表現の術 ( すべ ) となる技巧 テクニック が発見されるに至った、長い試行錯誤の歴史がある。その史実を無視して、「構図も題材も技術も全て自分だけで編み出した。自分の作品は他のどんな作品からも学んでいない唯一無二 ( オリジナル ) だ」と主張するのは、ハッキリ言って無知ゆえの傲慢だ 。線を引いた中に色を塗る、というたったそれだけの手法にさえも、長大な歴史があり無数の先人がいる。そして貴方は、いつかどこかでそれを見て、無意識に学習し、生成AIのように「特徴の再現」として出力している。それを認めないというのは、芸術 ( アート ) の歴史にまるで敬意がなく、不勉強ゆえの謙虚さを欠くという点において、明確な意図をもった「パクり」より悪質だ。
小説や音楽という界隈 ( ジャンル ) ではそれほどでもない生成AIへの反発が、絵画やイラストという界隈 ( ジャンル ) で極めて大きいのは、小中学校の美術教育────必ず一度は絵を描かせるその現場で、以上のような歪んだ自意識が育まれているからではないか。あくまでSNS を観測している限りの所感ではあるが、ひとつの問題提起として記しておく。
⑤ 著作権 の曲解:それはクリエイターの絶対権ではない
ここまで書いて、ようやく著作権 の話に踏み込んでいきたい。
生成AIが画像を出力するまでの過程は既に説明した通りだが、よって著作権 と生成AIの関係は2段階に分けて考える必要がある。
まず1段階目に、生成AIが学習をする過程に著作権 が問えるかどうか。これは否だ 。
著作権法 第三十条の四
著作物は、次に掲げる場合その他の当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合には、その必要と認められる限度において、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる 。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権 者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
一. 著作物の録音、録画その他の利用に係る技術の開発又は実用化のための試験の用に供する場合
二. 情報解析 (多数の著作物その他の大量の情報から、当該情報を構成する言語、音、影像その他の要素に係る情報を抽出し、比較、分類その他の解析を行うことをいう。第四十七条の五第一項第二号において同じ。) の用に供する場合
三. 前二号に掲げる場合のほか、著作物の表現についての人の知覚による認識を伴うことなく当該著作物を電子計算機による情報処理の過程における利用 その他の利用(プログラムの著作物にあつては、当該著作物の電子計算機における実行を除く。) に供する場合
laws.e-gov.go.jp
AIは著作物の思想や感情は享受しておらず、学習段階では他人に享受もしていない。また著作権法 では、過去の情報の「特徴」を抽出し学習することを禁止していない。(ただし、例えば反社会的なメッセージをピカチュウ に喧伝させようとして、ピカチュウ という特定のキャラクターの画像ばかりをAIに学習させるなど、明確な悪意があり、明らかに著作権 者に不利益をもたらす、というような場合はその限りでない)
なので、先日Xが改訂した「サービス上にアップロードされた画像データを生成AIのトレーニン グに使用する」ことは法律的には問題ないということだ。また「無断学習禁止」という文言は、個人的な感情からの主張はできるが、法律的には主張できない。
2段階目は、生成AIが画像を出力して、ユーザーがそれを利用するフェーズ。著作権 の侵害が問われるのは、この段階だ 。
例えば人が人の著作物を、何の創造性や革新性もないままそっくりそのまま真似して利益を得ると、著作権法 に引っ掛かる。誠実な記号の模倣、面白い引用ではなくただの利己的な転用にすぎないので、芸術 ( アート ) と擁護することもできない。それと同じような判定 ( ジャッジ ) が、AIに対しても下される。
出力された画像の内容が著作権法 に抵触するケースについては、まだ判例 が乏しく、あまりにケースバイケースがすぎるためここで細かく見ていくことはしないが、特定のキャラクターのような先行の著作物に似すぎていて尚且つ創造性や革新性が付与されていないもの、明確な悪意があり、その画像の利用によって著作者に金銭的、社会的な不利益が発生するものが、司法では問われることになる。
生成AIで問題となるのは、先行作品との近似性が著作権侵害 に該当するか否かであって、先行作品を学習することではない ということは押さえておきたい。
そして、この「近似性」の指摘についても、我々はもう少し慎重になっておきたい。
昨今はインターネットで似た画像を簡単に探すことができるため、イラストで「パクり」「パクられ」が起こった場合も比較的すぐに見つけることができる。しかし、格好良い楽曲のコード進行が似るように、絵画やイラストでも題材 ( テーマ ) や意図 ( メッセージ ) が同じである場合、構図やデザインがたまたま似てしまうことがある。
例として、「こちらに向かって笑顔でおはようと挨拶している女子高生」という場面を、頭の中に思い浮かべてみよう。女の子の髪色や制服のデザインは人それぞれ違うものを想像するだろうが、こちらに向かって手を挙げているポーズを、多くの人がイメージしたのではないか。
これは、「挨拶をする時に人は片手を上げることがある」という習慣や、音声の伴わない画像や映像で受け取り手に「挨拶をしている様子」を理解させるためには、「手を上げている」という記号を描き込むことが有効だと、我々が知っているからだ。
試しに生成AIで、「こちらに向かって笑顔でおはようと挨拶している女子高生」というプロンプトを実行してみた。
ProfiteroleMixで生成。
指の本数や制服はワケの分からないことになっているが、やはり手を上げている 。これは我々と同様に、AIが「人が手を上げている=挨拶をしている」という「パターン」を学習しているからだ。
このような構図のイラストは探せばいくらでも見つかる。では上記のAIイラストは「パクり」なのか? ────否、これは「パターン」や「特徴」の再現なので、著作権侵害 にあたる近似性とは言い難い。 ネットでは、こうした近似性まで「パクり」と指摘する声を時折見かける。しかし先述の通り、創作とは、芸術 ( アート ) とは「この構図は私しか描いていません」というような唯一性を主張する競技ではない。記号と記号の再混合 ( リミックス ) の結果が偶然にも似てしまうことは、往々にして起きる。そしてその偶然性まで過剰に非難し、作り手を委縮させることは、むしろ逆説的に著作権法 に違反することになる 。
著作権法 とは何か。それは、文化をより豊かに発展させてゆくためのものだ 。
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意 しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて 文化の発展に寄与することを目的とする 。
laws.e-gov.go.jp
「公正な利用」とはフェアユース fair use のことだ。著作物を許可なく利用しても、それによって社会や文化に貢献するところが大きい場合、著作権法 には問われない。
論文における引用が分かりやすい例だろう。本来、誰かの文章を自身の文章に我田引水することは著作権 の侵害と見做される。が、論文は調査研究の重要な記録であり、それによって学問への、ひいては社会や文化に利益をもたらすものとして、論文で他者の文章を引用することは許可されている。
これと似たようなことが、あらゆる界隈 ( ジャンル ) で検討、適用される。
ja.wikipedia.org
二次創作も、興味深い例だ。例えばアニメのキャラクターという企業の著作物を使って勝手に漫画を描く、販売して利益を得る、という行為は、本来ならば明確な著作権侵害 と言える 。しかし現実には、多くの企業がこれを黙認している。それによってファンが増えることで商業的な利益もまた増え、支持者が盛り上がることで、アニメや漫画という文化に多様性と将来性がもたらされるからだ 。
「文化の発展に寄与している」場合、厳密には著作権 を侵害していたとしても法律違反と見做されないことがある。著作権法 とは、最低限著作者の利益は守りながらも、我々の文化、社会を、多様な価値観と表現に溢れた豊かなものにするために制定されている。そのために適切に活用されているのなら、生成AIも規制の対象ではない。著作権法 は、クリエイターの絶対権でも、著作者がユーザーの創造の権利を侵害して良い免罪符でもない 。
著作権 を主張すれば、生成AIも如何なる表現も規制することができる、と言わんばかりのキャンセルカルチャーまがいの行為には疑問を呈したい。著作権法 は定規杓子に守るものでも絶対正義でもなく、フェアユース や文化への寄与を充分考慮した上で初めて問われるものだということを、今一度確認したい。
⑥技術発展の冷徹さ:時代は「良い子」に報いない
ただ、いくら論理的 ( ロジカル ) に生成AIについて語ろうが、一度感じた忌避感や嫌悪感はそう簡単には拭えないだろう。我々はAIのようなお利口なプログラムではない、合理性を欠いた人間だからだ。
自身が何年もかけて習得した技術 ( スキル ) がものの数秒で会得され、何日も掛けて作り上げたものが瞬く間に再現され、自身が社会に対し負っていた役割と誇りが今日明日にでも奪われるとなっては、心穏やかではいられない。ここ最近も、無断で声の複製や販売がなされているという訴えから、生成AIの適切な使い方を呼びかける「NO MORE 無断生成AI」という運動が声優界で起こっていた。
nomore-mudan.com
彼らの気持ちも陳情も、何も誤ってなどいないし一個人として共感できるものでもある。しかし、堰は切られてしまった後なのだ。この急速な科学発展の水流を、もはや誰も止めることはできない。
かつて馬車という乗り物 があった。自動車の台頭と共に不要となったので、馬車を操る御者もまた消えた。
その昔、街の灯りは瓦斯 ( ガス ) で輝いていて、夕方になると点火夫が火を点けて回っていた。電灯が普及すると共に、彼らは姿を消した。
かつて船に乗り込み、戦場に赴き、記録のために絵を描く職業画家がいた。彼らは写真技術の登場と共にいなくなった。
昔の電話はまず電話交換局に掛けて、交換手に回線を接続してもらわなければならなかった。電話交換の機械化が進んだことで、交換手はお払い箱になった。
技術発展の裏には必ず、追われて行った者の背中が、消えて行った文化の影がある 。その涙、虚しさ、悔しさは実に計り知れない。しかし彼らの訴えに共感し、頑なに前時代の技術に頼る者が果たしてどれほどいるのだろうか。電灯の下を自動車で走る人に対して、「お前は点火夫や御者を駆逐した人でなしだ」と罵倒できるのか。スマートフォン で電話をし、写真を撮る人に対して、「電話交換手や職業画家が可哀想じゃないか」と叫ぶことは本当に可能なのか。
「可哀想な」お話をひとつしてみよう。
昔の映画には音が付いていなかったので、映像の横で活動弁士 と呼ばれる話芸巧みな者が、状況説明をしたり、登場人物の台詞を代弁したりしていた。しかし1930年代になると音声の付随したトーキー映画が登場し、弁士は不要になってしまう。弁士をクビにしたい映画会社と、生活が成り立たぬと訴えを起こす弁士の争議団に板挟みにされ、当時、須田貞明 ( すだ ていめい ) という弱冠27歳の活動弁士 が自殺している。
本名を、黒澤丙午 ( くろさわ へいご ) という。かの有名な黒澤明 監督の兄である。
だが今彼の死を悼んで、活動弁士 を伴うサイレント映画 の復興を叫ぶ者が、果たして今の時代にいるのだろうか。声優と言う仕事は、音声の付いた映像があって初めて成り立つものだ。それはある意味、活動弁士 たちの涙と犠牲を「仕方のないこと」と無情に切り捨てたからこそ成立しているものではないか。
www.ss.i.ryukoku.ac.jp
かつて工業品を否定し労働者だちが工場を破壊して回ったラッダイト運動があった。生成AIの営みの否定には、それに似た虚しさを覚える。
技術発展という一見喜ばしく思われる人類史の進歩、時代の転換期は、いつも誰かしらに冷酷な仕打ちを強いることを認めなければならない。いくら努力家で篤志 家で、天賦の才と自慢の技術の持ち主だろうと、淘汰される側にならないという保証はない。勉強と仕事に熱心な「良い子」を、両親は褒めてくれたかもしれないが、時の奔放な流れがそれに報いてくれることは残念ながらない 。
それは勿論、YouTube の片隅で活動している私にも言えることだ。時代の牙は、私に対しても確実に向いている。
だから私は、AIの今を観測し続けているし、この恐ろしい新生児と遊ぶことを辞めない。
最後に
生成AIとその利用方法を取り巻く状況は、今後ますます変わってゆくだろうが、現時点での私の立場は以上のようなものだ。芸術 ( アート ) や法律の専門家 ( プロフェッショナル ) なぞではないから、手落ちも多々あるだろうが、それも含めてこの新技術について勉強を続けたいと思っている。
無力な我々にできることは、時代の大津波 に呑み込まれないよう、虫ケラの如く足掻き続けること、新たな科学技術をちゃっかり自分の筏 ( いかだ ) に転用してしまうこと、そしてそれを震えながら乗りこなしてみせることくらいだろう。今我々に問われているのは、それを愉快と思えるか否か、ということだ。そして私は、愉快だと思っていたい。
過去に取り残されたまま生きるのではない。未来の世界で死ぬために。
ChatGPTに生成させた。プロンプトは「未来世界で死ぬというイメージの画像を創ってください」。
15円から投げ銭 を送ることができます。 受取人のメールアドレスには「dilettantegenet@gmail.com」とご入力ください。