ケー・ドルセー41番地

ケー・ドルセー41番地

毎月月末、館より届く鈍色の便り

第32書簡「思考起爆剤としての病」

 ここしばらく、酷い風邪にかかっていた。

 いくら薬を飲んでも咳が止まらず、気怠さと熱っぽさに耐えかねウンウンと唸っていた。元来はそれほど風邪を引いたり拗らせる方ではなかったはずだが、ここ最近は季節が変わるたびに風邪を引くし、一度症状が出るとイヤに長引く。理由は分かっている。日頃の不摂生のせいである。要は自業自得というワケである。

 ウイルスなどという生物なのだかそうでないのだかよく分からないふざけたやっこに敗北を喫するのが腹立たしく、日夜つまらぬ考え事をするためだけに酷使したい脳味噌の重要なリソースを体調の快復などという雑事に割かれるのがまこと癪に障るので、こういう時は決まって書き物をすることにしている。生産的であることで気を紛らわせようという寸法だ。

 さながらベッドで朝食をとるハリウッド女優よろしく、ヘッドボードにもたれかかり足には毛布を引っかけて、膝上にキャンパスノートを開いてペンを走らせる。体調不良の鬱憤を書き殴っている内に、そうなった原因に思いを巡らせるようになり、もしそうなっていなかったら今頃は……という空想をするようになる。すると自身の不出来と至らなさが何となく身に染みてきて、私のような傲岸不遜な人間でも否応なしに反省する気になってくる。

 元気だったらば取り組んでいたであろう様々なことを頭に浮かべる内に、日頃やりたいこともロクにせず、如何に無下に時間を浪費していたかということも実感したりする。余命を宣告されたふたりの初老の男性が「棺桶リスト」という死ぬまでにやりたいことを記したリストを実行してくという『最高の人生の見つけ方』という映画があるが、何となくああした心地になるのである。

それにしてもベッドで朝食をとるって何て憧れるんでしょう。『イヴの総て』より、ベティ・デイヴィス

 

 

 

 病状記録によって促される内省は、健康的な生活を心掛けるためにはない。むしろ、如何に健康的に不健康ができるか・・・・・・・・・・・・・・・という工夫のためにそれはある。

 例えば安酒を朝まで呑み明かすような日が続いて、体調を崩したとする。それをノートに記録することによって導かれるのは、酒を摂生するということではなく、何故その時連日呑み明かさずにはいられなかったのかという気付きである。そこには埋まらない寂寥が、語るべくもないやるせなさが、人生の痛みがあったりなかったりする。飲酒する悲哀については、立派なアルコール中毒者だった中島らもの言葉がよく沁みる。

「酒をやめるためには、飲んで得られる報酬よりも、もっと大きな何かを、『飲まない』ことによって与えられなければならない。 それはたぶん、生存への希望、他者への愛、幸福などだろうと思う」

「内臓は頑丈でも、おれの心には穴がいくつもあいていた。夜ごと飲みくだすウイスキーは、心にあいたその穴からことごとく漏れてこぼれ落ちてしまうのだった」

────中島らも『今夜、すべてのバーで』

 酒を呑まないことが本当の「健康」ではない。酒を呑まねばやりきれないという不健康な自身の、未だ言語化されていない複雑な精神の機微に自覚的であろうとすることが人としての「健康」なんじゃないかと思う。

 ただ体調が良くてピンピンしているだけでは、生まれて間もない犬畜生と変わらない。

 

 

 

 体調が優れないとどうも気弱になる。気弱な日々が続くと憂鬱メランコリックにもなってくる。その憂鬱が、人に良いものを書かせる。

 私の手元には、風邪を拗らせた時、熱病にうなされた時、急病で入院した時なぞに書き散らした手記がいくつも残っている。折に触れてそれらを読み返すが、よくこんな文章が書けたものだと、我ながら関心することがある。別段文学的に優れているだとか、表現として卓越しているということではない。普段の自分なら絶対に書けないような言葉がそこには滔々とうとうと記されていて、まるで別人が書いた文章を読んでいるような錯覚に陥るのである。

 数年前に急性虫垂炎になって入院を余儀なくされた際も、術後の痛みを紛らわせようとして病室でずっと書き物をしていたが、今読み返せばそこには延々と食べたいものが並べ立てられていて、さながら円谷幸吉の遺書のようだ。その時は食事はおろか、水を飲むことさえ禁じられていたので、味覚の飢えが無限に筆を走らせていたのだろう、文体にとにかく速度がある。

当時の病状記録の一部。早く健康になりたいくせに情けない恰好付けをしている。

 それが快復するにつれて、文量も文体のキレもみるみる落ちていくのだから面白い。当時もその自覚はあったようで、ノートにはこう走り書きされてある。

 「食べられないことによって、思うように動けないことによって予想以上に萎んでしまっていたあらゆる気力が、徐々に食べられるように、自由に動けるようになったことで見る間に回復の兆しを見せ、人の根幹の如何いかんを思う。同時に、些細な感傷は失われ、内向的なセンチメンタリズムは外向的なコミュニケーション欲求に取って代わられ、人が細やかないとしみを忘れないためには、哀しいかな、痛みと苦しみが、病が必要らしい」

 2年前には当時猖獗しょうけつを極めていたコロナウイルスに罹患し、予定していたイベントも延期する羽目になって情けないやら申し訳ないやら、これまた怒りに任せて延々と書き物をしていたのだが、40度近い高熱を出していた時の筆致はなかなか凄まじいものがある。熱と関節の痛みでまんじりともせず意識朦朧とする中、どうも日頃の恨み辛みを吐き出すまでは死ねぬという思いに憑りつかれたらしく、相当な量の呪詛が書き殴ってある。多分あのまま死んでいたら、日本国の大魔縁となることを誓った崇徳天皇の如く、そこそこの怨霊になっていたかもしれない。

 それが平熱に近付くにつれて、すっかり書き口は穏やかになり、ただの体温とその日口にしたもののメモ書きしか残されていない。記録としては大切かもしれないが、読み物としては、まあつまらない。

 病が人を文学者とまでは言わないまでも、そこそこの書き手にするらしいことは、SNSを見ていても日々感じたりする。

 現在のX────かつてのTwitterでは所謂「メンヘラ芸」が盛隆していたことがあって、その思い出については第18書簡「メンヘラ表現変幻考」で記した通りだが、「メンヘラ芸人」と呼ばれるアルファツイッタラーたちのツイートには明らかに光るものがあった。彼らの自堕落で破天荒で、時に人騒がせな軽挙妄動は決して褒められたものではなかったが、それを自虐的にあっけらかんとひけらかす文章には、自身を徹底して他者化し客観視することで皮肉の効いたアイロニックな笑いに変換する、卓越したセンスがあった。

 彼らの一部は亡くなり、一部は今もSNSを続けているが、病状も穏やかになった後者のポストは既に一般的な生活者のそれになっている。

dilettantegenet.hatenablog.com

 病は人を内省的にし、ちょっとした表現者に仕立て上げてくれるらしい。

 

 

 

 実際、ネガティブな心境が人を創造的にするという指摘がある。

 コロンビア大学の2008年の研究では、他人に否定的な反応を示された人ほど創造性のあるコラージュ作品を作ったという旨が報告されている。ニューサウスウェールズ大学のジョー・フォーガス Joe Forgas 教授によれば、陰鬱な気持ちにある人は陽気な状態である人に比べて記憶力と集中力が向上しているという。

 どちらもやや古い研究であるから鵜呑みにするのもナンセンスだろうが、作家や芸術家に憂鬱気質な人が多いワケは案外ここにあるような気もしている。作家や芸術家だから抑鬱的になるのではない。彼らは繊細ナイーブだから、作家や芸術家たりえるのだ。

wired.jp

 「ぼんやりとした不安」という言葉を遺して服毒死した芥川龍之介。「恥の多い人生」を入水によって終わらせた太宰治梶井基次郎の『檸檬』に胸に迫る切実さがあるのは「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた」からだし、宮沢賢治も友人宛ての手紙に「わがこの虚空のごとき、かなしみを見よ。私は何もしない。何もしていない」と吐き捨てている。「世界の外ならばどこへでも」なんて現実からの逃避を叫ぶのはボードレール。「また自分の頭がおかしくなっていくのが分かります」と遺して死んだヴァージニア・ウルフも、長年神経衰弱に苛まれていたし、自らに散弾銃を撃ち込んだヘミングウェイも晩年は躁鬱病に悩まされていた────挙げればきりがない、偉大な作家の偉大な憂鬱。

 心臓に毛が生えた凡夫たる我々は、なかなか高尚に憂鬱を拗らせることはできない。しかし例え白痴であろうと、どんな人でも抑鬱状態を経験することができる機会チャンスが、不健康に、病気になることの中には眠っている。

 

 

 

 健康に代わる幸福はないだろう。如何なる幸福があったとしても、不健康な状況で噛み締めるそれは、今現在の苦しみを紛らわせ、束の間忘れさせる一助としての性格を免れない。

 それは裏を返せば、不健康であるならば、必ずそこには陰鬱のにおいが漂ってくるということだ。そしてその暗がりが、我々を透徹した何者かにする。ちょうど秋が────暗く冷たい季節の訪れを予感させる瞬間こそが人を詩人にするように。だから病に侵されている人は幸運に思ってほしい。賢者への道が、今まさに目の前に開かれているはずだからだ。病が憂鬱を呼び、憂鬱が人を思慮深くする。心身の病とは、思考の有用なる起爆剤である。

 ……なんて人の苦しみも知らないで。本当に面白くないことを書く奴だ、ですって?

 だって私の風邪は、もう治りかけていますから。

エドヴァルド・ムンク《病める子》(1896)

第31書簡「殺せ!心の今昔物語」

 平安時代の末期に成立したという、『今昔物語集』という説話集がある。

 日本から中国、天竺インドまでの説法、怪奇譚、恋愛物語等を多数収録した選集で、有名なものでは芥川龍之介の短編として馴染み深い『鼻』や『羅生門』の元ネタも、ここに収録されている。

ja.wikipedia.org

 この『今昔物語』の書き口にはテンプレートがあって、それが「今は昔(今となってはもう昔の話ですが)」という書き出しから始まり、「となむ語り伝えたるとや(と語り伝えられてるんだとさ)」という結びの句で終わるというものなのだが、どうやら私が普段YouTubeで公開している動画もそのような感覚で視聴されているらしい、ということをここ最近認識し始めた。

 

 

 

 先日このようなポストをした。

 普段私が自身のチャンネルで取り上げている話題トピックが古い時代のものばかりなので、「昔こんな作品や出来事があったなんて」というコメントを視聴者様から頂戴することは茶飯事なのだが、その「私が知らなかった」理由として「当時まだ私が生まれていないから」という説明をする人を時折見かけるのだった。それに対して毎度ある興味を感じて、上記のようなポストをするに至った。

 この「私が生まれていないから知らなかった」という説明には、ふたつの潜在意識が働いている。

  • 自分が生まれてからが「今現在」で、自分が生まれる前はすべて「昔という過去」に集約されるという自己存在の有無を中心とする歴史観
  • 自分が生まれる前のことは知らなくて当前だが、生まれた後のことなら何でも知っているという経験に多大な重きを置いた学習観

 私自身としては、今と昔の区別を自分存在の有無では定義しておらず、また世間知らずの程度が過ぎるが故に日夜恥ばかり搔いているものだから、生まれた後のことなら大抵知っているとはとても豪語できない。

 そんな自身の感覚は、もしかすると世間で一般とされている感覚と大きな隔たりがあるのではないかと急に気になって、次いで以下のようなポストをした。

 年齢まで聞いてしまったが故かあまりリプライをいただけず、充分なサンプル数は手に入れられなかったんですけども……。頂戴した回答を見る限り、そもそも歴史に強い関心があったり、演劇といった親しんでいる文化芸術があると、今昔の判断基準がその動向に依拠していくようになるが、そうでない限りはやはり自分存在や、普段自身が親しんでいるモノ(例えばスマートフォン等)の有無で今昔が区別されているように思われた。

 

 

 

 実際、私の上記のような「150年程前までは最近」という感覚も、歴史と文化芸術を俯瞰した時にそう思われてならないという側面が強い。Xでは書き切れないため、その理由をここに少々詳しく記しておきたいが興味がない御仁は読み飛ばされたし。

 産業革命を経て、英国イギリスを筆頭に欧米諸国が封建的社会から近代的なそれへと変貌を遂げるのが、19世紀初頭から半ばにかけてである。勿論それは日本も例外ではない、明治維新と言う名状と共にその変革はやって来た。

 手仕事は工場生産に取って代わり、人々は各地に点在していた農村を捨てて、工場労働者として都市に雪崩なだれ込んだ。都市に人口が集中し周辺には閑静な郷里が広がっている、という今なお続く人口分布の傾向はこの時代に形成されたし、決まった時間に職場に出勤して決まった時間に帰宅する、という生活サイクルもこの頃に一般化した。

 それまでの仕事────農耕であったり畜産であったり────は好きな時間、適切な時間に勤しむものであったのが、19世紀以降は時間を厳守して取り組むものとなる。家でいくら赤ん坊が泣き喚いていようが、今晩居間を暖めるたきぎや夕飯の食材を切らしていようが、出勤時間には何としてでも間に合わなければならないんである。そんな多忙な労働者に代わって、誰かが赤ん坊を預かってくれたなら、たきぎや食材を用意しておいてくれたなら、何と助かるんでしょう!

 ……そうしてこの時代に、「サービス」が初めて商品として成立するようになった。それまでは赤ん坊なんて代物シロモノは畑を耕しながら背負っておくものだったし、たきぎも食糧も自分たちで生産して賄うものだった。

人口集中はサービスの多様化を促す。これは窓や扉を鳴らして意地でも叩き起こしてくれる目覚まし屋さん。アラーム時計の登場と共に消えた。

 苦しい労働を終えた後には、娯楽の時間が待っている。労働者は工場を退勤すると、酒場パブで安酒を煽って束の間の休息を得た。

 今現在、苛酷な5連勤を終えたサラリーマンが花金に飲酒を楽しみ、土曜と日曜の休日はプライベートな趣味に勤しむ……という光景は誰しも想像に難くないだろう。このONの時間(労働時間)とOFFの時間(プライベートの時間)という概念が誕生したのも、労働形態が急速に変化した19世紀だ。

 都市にひしめく人々の需要に応え多様な商売ビジネスが展開されると、顧客もまた取り合いになる。商品やサービスの魅力を伝えたり、質の高さ、内容の面白さを訴えて、幾多の中から自社製品を選び取って貰う必要がある────そうして次に発現し高度に洗練されていくのが「広告」という概念だ。

1897年のアメリカのデパートカタログ。洋服の形が違う以外は完全に現在のファッションカタログと同じ。手製ではなく既成の服を買う習慣が成立していること、品質の宣伝が有効であることが見て取れる。

 識字率が向上し、庶民の娯楽として「雑誌」が人気を博し始めたのもこの頃なのだけれど、その一角に洋服や食品を宣伝する小さな枠が現れるようになり、街頭には芝居やレヴューの公演を告げるポスターが貼られるようになる。

1894年の子育て雑誌の一角にはコンデンスミルクの広告が。

戯曲『ジスモンダ』の広告のため1894年にミュシャが描いたこのポスターはあまりに有名。その出来栄えの良さに、勝手に剥がして持って帰る人が何人もいたとか。

 19世紀末に活躍していたオーブリー・ビアズリーという英国イギリスイラストレーターを紹介した際にも、私は彼が画家ではなくイラストレーターであること、彼の絵は「絵画」ではなく「イラスト」であることを再三注意した。ビアズリーのグラフィックは、雑誌を特色付ける美術として、他の雑本と差別化を図るための物語の挿絵として、公演を宣伝するポスターとして施された。これは、それまでの純粋芸術ファインアートとは明確に区別される大衆芸術ポップアートである。そしてそこには広告コマーシャル的性格が色濃く内包されている

 街中に広告が溢れていて、モノには差別化を図るためのデザインが施されている────そんな今では当たり前の光景が初めて現れたのも、19世紀半ば以降というワケだ。

 ……以上長くなったが、要は「社会」と聞いた時に頭に浮かぶ都市のイメージや人々のライフスタイルが現在の形態とほぼ同様になったのが、19世紀半ばという話(この言い方にはやや語弊があるかもしれない。150年前の人々が我々と同じ生活を発見したのではない。現在の我々が150年経っても未だにこのような社会システムから抜け出せていないだけだ)

 故に150年前までの大衆文化は体感的に理解がしやすく、現在巷に溢れている様々な表現、デザインへの影響も未だに顕著で、それらを私は自身と切り離された「昔」ではなく、地続きの「最近」と捉えている。

 この100年以上前の時代に覚える親近感のワケには、あとは確実に「慣れ」の問題もあるだろう。

 

 

 

 先程まるで歴史愛好者マニアのような屁理屈を連ねてしまったが、そしていつも動画で古めかしい話ばかりしているが、ならば物心付いた頃からそんな時代錯誤を常としていたのかと言えば、全くそうではなかった。

 騎士道物語や剣と魔法の世界ハイ・ファンタジーにのめり込んだせいで、幼少期から古風な西洋趣味を拗らせていたのは事実ではある。が、それはいざという時の心の逃避行先────つまり「今」「ここ」とは全く別の異世界としてそれらを認識していたからこその愛着であって、自身と地続きのものだと思えるから親近感を覚えていたというワケでは決してなかった。

 今でも思い出すのは、両親の古いアルバムを目にした時の、言いようもない不快感だ。TVテレビで懐かしの昭和歌謡特集なんて番組を目にした時にも、目を覆いたくなった記憶がある。イカすのかダサいのだか判断が付かない化粧とファッションで、聞き馴染みのない歌を、珍妙な踊りと共に歌ってみせる当時の人気歌手たちの姿を見て、まるで噴飯ものだというような嘲笑と、人の恥ずかしい姿を目にして自分まで居た堪れない気持ちになってくる共感性羞恥のような錯覚を覚えていた。

 つまり当時の私は、自身が生まれる前、両親の世代以降はすべて自身と切り離された「昔」と認識していたと思われる。そう、冒頭で提示した「自己存在の有無を中心とする歴史観」を、私も確かに持っていたのだ

 そしてその昔の光景に嘲笑と羞恥を覚えていたという事実は、「昔」の文化は知らない、つまらない、ダサいものであり、「今」巷に流布している文化こそ私が知っている、面白い、イカすものだという思い違いを露呈させる。それは自身が経験したものだけが正しく至高であるという、「経験に多大な重きを置いた学習観」であり、無知故の傲慢であった。

 

 

 

 今では日々嬉々として昭和の大衆文化ポップカルチャー調べてディグっている有様である。一体どこで裏返ったんだと首を傾げるのだが、やはり高校時代に、花の24年組に代表される少女漫画群を読んだこと、寺山修司という詐欺師(大いなる褒め言葉だ)に出逢ったことが大きいかもしれない、等と想像したりしている。

 それは熾天使まなこのように燃え盛る彗星コメット黒鉄くろがねのような隕石メテオが私の頭頂で激突したかのような大事件だった。自分が生まれるより何十年も前の表現が、新鮮で、斬新で、未だ比類するものがないくらい燦然と輝いて見えるということを、その時私は初めて知った。

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 自閉していた価値観を完膚なきまでに叩きのめされて、瓦礫と化した卵殻の下からおずおずと周囲に伸ばし始めた食指で少しずつ「昔」の文化をつまみ食いしている内に、咀嚼の方法が何となく分かって来て、「今」の文化とはまた違ったその舌触りや風味に余計に好奇心を刺激され、段々と食わず嫌いをしなくなったような気はしている。

 その内どんどん枝葉が伸びて、日夜インターネットで19世紀の書物をも漁るようになり、当時の表現もすっかり見慣れてしまったので、今では150年前程度なら全く最近の感覚になったというワケである。

しょっちゅうお世話になっているNY公共図書館のデジタルコレクション。検索が使いやすいのがオススメポイント。

 昔の作品について会話をすると、稀に「なかなか手を出す勇気が湧かないんですよね」という返答を貰うことがある。「面白そうだから見る/つまらなさそうだから見ない」ではなく、「新しい作品だから見る/古い作品だから見ない」という判断基準が存在することに気が付かされる

 その人はきっと自分のそれまでの平穏な世界が揺るがされるかもしれないおそれを、無意識に察知しているのかもしれない。かの岡本太郎「不動のものが価値だというのは、自分を守りたい本能からくる錯覚に過ぎない」と看破しているが、逆に「価値の置き所を変えることは、自分が破壊される恐怖を伴う」とも言える。私の少女漫画と寺山修司との邂逅のような衝撃は、いわば「今という旧世界・・・・・・・」を転覆せしめんとする暴動クーデターであった。その革命の必要性は誰もが理解しながらも、自ら果敢に飛び込める人ばかりでもまたないだろう。

 だから私は動画で、その暴力テロリズムを────己の「今」を見つめ守るためだけにあつらえた殻を殴って粉々にするための拳を振るいたいと夢想する。

 

 

 

 「昔」をこそ尊ぶべきと豪語するつもりは微塵もない。「昔」ばかりが面白いワケでもない。だが、今現在とある表現がなされており、とある価値観が形成されているその背景には、「昔」を模倣していたり、「昔」を否定したり反省したからそうなっている……というような文脈が必ず存在する。例外は100%ない

 だから今見えている表層のみに焦点フォーカスを当てても、深淵までは察知できない。それはちょうど、本を一頁も読まずして装丁の美しさだけを賛美しているような状態に近い。そのような態度が一般的である限り、我々は薄っぺらい稚拙な表現に囲まれていようがいつまでも満足しているだろうし、表現は、感性は、文化は豊かな成長も複雑な変貌も見せぬまま停滞していくだろう。もっと大袈裟に言ってしまえば、現代人が現代人であることのみを誇りに思い続けるならば、その蒙昧もうまいはいつか愚かな歴史を繰り返す火種にもなるかもしれない。

 私の動画は『今昔物語集』ではない。「今は昔……」等という文句を、今こそ我々の心の中から消し去ってみたい。すべての時代と表現が等質フラットに、自分存在へ連綿と続いている物語として感じられる時、おごれる自我エゴは消滅し、超大な流れの中に意識だけが揺蕩うような感覚に陥る。私は2020年代の病理を、行き過ぎた個人主義がもたらした自意識の誤った頑なさに見ているが、その詳しい考察はひとまず次回記事に譲るとして、しかしこの「今」あまりに強固な自我エゴを「昔」で溶解させていく行為には、ひとつの癒しをもまた期待している。

 「今」と「昔」の合間に横たわる黒い俊峰を爆破せよ。その分水嶺の地底には、文化の輝く水脈が、煌めく鉱脈が、網目のように無数に繋がっている。

 

「知る勇気を持て Sapere Aude

────カント『啓蒙とは何か』

第30書簡「鳥が運ぶ死考の黎明」

 今月頭、兵庫県尼崎市にある「シャレコーベ・ミュージアム」という施設に撮影取材に赴いた。

 何でも趣味が高じた1コレクターが膨大な個人コレクションを収蔵するために建ててしまった博物館ということで、まさに趣味人の理想を具現化したような驚異の空間ヴンダーカンマーなのだが、そのコレクターの蒐集しゅうしゅう対象というのが「頭蓋骨」というまた一風変わったもので、物好きを拗らせた好事家ディレッタントとしては訪れないワケにはいかなかった。

 陳列されたコレクションは、しゃれこうべがデザインされたものなら片っ端から蒐集しているとでも言うほどに凄まじい数と量で、本物の頭骨や、頭骨を模した美しい工芸品の放つ厳かな雰囲気、生者に語り掛けて来るような存在感は圧巻であった。

 動画は以下のように完成したので、未見の方は是非に刮目されたし。

 

 

 

 シャレコーベミュージアムの見学を通して、チティパティ Citipati(屍陀林王)というチベット仏教における守護神の存在を知った。

en.wikipedia.org

 その昔、墓地の近くで瞑想に励んでいた男女の苦行僧が、深く瞑想するあまり盗賊の接近に気付けず、首を跳ねられて殺されてしまった。信心深い僧侶は、殺されたこと以上に瞑想を邪魔されたことに大変怒り、悪党、果ては悪霊を懲らしめる屍陀林しだんりん(墓場のこと)の守り神となった────というのがこの神様のあらましらしい。

 ただ祓魔の神とは言っても自分たちが死んだ墓場からは出ることができないようで、悪党が侵入して来るまでは、踊って時を過ごしているという。

 チベット仏教の祭典として有名な仮面舞踏「チャム Cham」の中では、そうして踊り過ごすチティパティの再現を確認することができる。

 絵画においてチティパティは、もっぱら男女対になって踊る骸骨として描かれる。その愉快そうな様子からは西洋の「死の舞踏ダンス・マカブル」を連想したりもするが、「死の舞踏ダンス・マカブル」が誰も逃れることができない無情の死の恐怖を示しているのに対し、チティパティの踊りは輪廻────永遠に続く生死のサイクルを暗示しているのが、宗教観の違いも相まってなかなか興味深い。

ja.wikipedia.org

 ……と若干チティパティの説明が長くなったが、ミュージアムでこの名に触れた際、私はその既知の響きに不思議な心地がしていたのだった。帰ってから調べたところ、それはどうも恐竜の名前でもあるらしい。

 こちらはチティパティではなく「キチパチ」「シチパチ」と音写されることが多いようだが、幼少時恐竜図鑑を持ち歩くほどには恐竜好きだったため、音だけ記憶していたのかもしれない。初めて発見された化石の頭部が欠損していたので、首のない僧侶であるチティパティになぞらえて命名されたらしいが、骸骨の神様の名前が恐竜に流用されていることに、私は名状しがたい感動を覚えたのであった。

ja.wikipedia.org

 巷では「恐竜の末裔が鳥」という言い方を耳にすることもあるが、恐竜とは現在における鳥そのものだ。何百、何千種もいた恐竜の中の一種が、現在の鳥類(獣脚類)であって、この分岐群のみが絶滅を免れて現在まで健在しているのだ。

 以下の記事の例えが分かりやすい。「人間は哺乳類の末裔である」という形容がおかしいことは誰にでも分かる。人間は哺乳類の末裔ではなく、哺乳類そのものだからだ。鳥が恐竜の末裔ではなく、恐竜そのものであるというのも、同じことである。

www.gizmodo.jp

 チベット高地及びチベット仏教圏のブータンやネパールの一部の地域では、人を埋葬する際に鳥葬という手法を取ることがある。遺体を切り刻み荒野に安置して、禿鷲ハゲワシなどに喰わせる埋葬方法だ。そこには鳥によって死者を天に送り届けてもらうという意味合いがあるようだが、鳥には────恐竜には────どことなく死と輪転のにおいが漂っていて、その名がチティパティという墓場の王であるというのは、なかなか象徴的シンボリックであるように思われる。

 

 

 

 鳥とは「運搬する者」であり、「人にそれを知らせる者」である。

 北欧神話最高神にして知恵の神・オーディンにはフギン Huginn ムニン Muninn という名の二匹のカラスが付き従っており、彼らは夜明けと共に飛び立ち日没になると舞い戻って、世界の様々な情報をオーディンに報告するという。古ノルド語でフギンとは「思考」を、ムニンとは「記憶」を意味するらしく、情報を記憶するだけでも、記憶なくして考えるだけでも不足で、記憶しその上で思考することこそまことの知恵である、というような暗喩をそこに錯覚したりもする。

 そしてもうひとつ、オーディンは知識に貪欲な神である以上に、争いを引き起こし戦局を意のままに操る、戦争と死の神でもある。そういう点においては、フギンとムニンは戦場の死神に仕える鳥である、という見方もできる。

オーディンとフギン&ムニン。足元に居るのはゲリとフレキという狼。

 旧約聖書創世記では、方舟に閉じ込められたノア一行の代わりに大洪水の終わりを確認しに発ったのはハトと鴉であった。また列王記でも、王女イゼベルに命を狙われ身を隠した預言者エリヤにパンと肉を運んだのは鴉だった。この時のノアやエリヤにとって鳩と鴉は、災害の終焉の知らせや日々の貴重な糧という、自身の命運を左右する鍵を一方的に握った審判者であっただろう。

 オウィディウス『変身譚』では、鴉の密告によって太陽神アポロンは不貞を働いた恋人コローニスを射殺する。が、その悲劇の原因となったとして、輝く純白の羽毛に覆われていた鴉は黒く醜く染められてしまった。死んだコローニスの胎内から取り出されたアスクレーピオスは、その後半馬族ケンタウロスの賢者に育てられたことで死者をも蘇らせる名医となる。間接的ではありながら、鴉が結果的に人の生死を分ける発端となっているところに、個人的には着目してみたい。

 アラスカやカナダの先住民族インディアンであるリンギットに伝わる神話では、盗みによって人々に光をもたらした悪戯者トリックスターとして鴉には凡そポジティブな性格が与えられている。が、そもそも何故鴉が光を盗んだのかと言えば、森羅万象を創った彼に唯一創れなかったものこそが光だったからである。最も重要なものを鳥は創らない。鳥はそれを運んで来る・・・・・

 エジプト神話ではハヤブサの頭を持って描かれるラーやホルスが太陽そのものと同一視されるが、これも太陽という移動する光源を、天空を移動する鳥が運んで来るというイメージから発想されたであろうことは想像にかたくない。どうりで月の神であるトトも、トキという鳥の姿をしているワケだ。

 鳥が羽ばたかなければ、どうやら我々は暗いまま・・・・であるらしい。

 

 

 

  盗み、運び、知らせ、そしてそれが我々の生死と知恵に多大な影響を及ぼす────以上は神話からのエピソードだったが、死をにおわせる使者として鳥を、特に鴉を描いた名文としてエドガー・アラン・ポーの『大鴉』も引用しないワケにはいかない。

 レノアという名の愛する乙女を亡くし悲嘆に暮れる主人公は、夜半に窓を叩く音を耳にして、恐る恐る鎧戸を開けてみる。騒がしい羽ばたきと共に室内へ飛び入って来たのは漆黒の大鴉だった。主人公は部屋に置かれた女神パラス────つまりアテナの胸像の上に留まったそれに尋ねる。

黄泉よもつくに 閻羅えんらきみの禁領にして 首長みおやの本名を何とかぶ?」日夏耿之介訳)

 テネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』の一節からの引用だということだが、死ぬまでどこにも着地できない、風の中を彷徨う鳥のことを思う。この思考の翼が、血塗れた臓器が上下する間は、留まる枝木も、それを掴むための逞しい脚も持つことは叶わないとでも言うような。

 ヘーゲルは自著『法の哲学』の序文に、こう記している。

ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ

 哲学なんてものは人生が終わる、時代が終わる頃合いになってようやく立ち現れて来るものだという。何の答えも見出せず迷うばかりの日々に、この言葉によって一抹の諦念を覚えたりもする。我々は晩年という夜になって、ようやく始まりの光を見るのだという。

 ちなみにミネルヴァとはローマ神話における、知恵や芸術、工芸を司る女神のことである。ギリシア神話との交雑によって、それは同じ知といくさの女神であるアテナと同一視されるようになった。

 パラス・アテナ────それは黒い大鴉が留まる、真白い、無垢の胸像であった。

第29書簡「巡り来る最後」

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 東山の峻太郎さんへ。

 の御正月から、う1年も経つのね。去年の冬は随分と寒かったけれど、今年はうでも無くって、外套オーバーコート襟元 きつく締めて天神さんの長い石段を貴方と足早に上った朝を懐かしく思い出します。案外人気ひとけまばらだった境内の凍り付く様な冷気の中で、梅が一輪ほころび掛けて居るのを目にして、貴方は、

「梅は飛び 桜は散るる世の中に 何とて松のつれなかるらん」

 と道真みちざね公の歌をそらんじたわね。長寿の松を私の名前久子なぞらえたのだろうけれど、大して面白くも無かった。けれどの時悪戯いたずらに唇を歪めて私を一瞥いちべつした、朝陽で米国珈琲アメリカンコーヒー色に煌いたも、う記憶の淡雪となって溶け消えようとしている────れが我慢らなくて、おもむろうして筆を走らせて居ます。

 今、夜の九時二十分です。外は慄然ぞッとする程にしずかです。此の六畳間に聞える物は────時計の秒針の足音、瓦斯ガスストーヴの小さなうめき、用箋にMONTBLANCモンブランの万年筆を滑らせる音、時折階下で母が咳き込む声────ただ而已だけ

 手翰てがみ何処どこにも出しません。切手も貼らずに抽斗ひきだしに仕舞って、の内、気が済んだら破り棄てる心算つもり住処アドレスも、記しません。宛先なんてう、何処にも無いもの。

 

 

 

 今年の夏休み、東京の叔母さんの御家おうちを訪ねる機会がりました。

 私、一日だけ銀座に遊びにきますと嘘を付いて、三原山に行きました。独りだと怪しまれるから、従妹の由紀子さんも連れて。何故どうして三原山なんかに、と由紀子さんには随分と渋い顔をされたけど、彼女、大して趣味事も無いつまらない子だから、暇を持て余して居たのは知っていたのよ。結局叱言こごといながら同行してくれたわ。親切な子。

 銀座に遊びにていだったから、釣鐘帽子クローシェ清涼服アッパッパなんか着けてなりめかし込んで、とてれから山登りをするりじゃァ無かったのだけど、野暮ったい見物客達の中で場違いな華やいだ恰好をしているのも、れはれで愉快だったわ。兎も角、世を儚んでの三原の火孔に飛び込んだ女学生がくせいと、れに追従オベイした弟子達の墓は如何なる代物か、有難く拝ませて貰いに行った訳。

 遠目から既に白煙が濛々もうもうと上がっているのが見えたけれど、頂上に近付けば近付く程、地面が轟々と鳴動しているのを感じて、身震いしなかったとえば強情つよがりになるわね。覗き込んだ噴火孔は奈落の様だった。そこから立ち上る噴煙は地獄ゲヘナの業火の息衝きの様だった。れを位牌にして呉れと、死んだ女学生がくせいっていたのね。

 の大袈裟な不貞々々ふてぶてしさは、私の好むところでは在ります。けれど凝然じッと眺めている内、段々と莫迦ばか々々しくって来たの。此様こんな物、ただの巨大な御線香じゃないのって。

 途端に哀愁ペーソス抒情リリシズム悉皆すっかり褪せて仕舞った気がして、三原山の荒涼とした山頂で、私、黒々とした石塊いしくれ一つ拾って帰宅かえりました。御線香の、の陰気な白煙、私は最早もう真っ平だから。

 故に最近、私耶蘇キリスト教徒にでも為ろうかと思案おもったりもして居たのよね。でも屹度きっと駄目ね。私、礼拝ミサの時間に起きられないもの。

 

 

 

 何時いつか私がRigautリゴーという仏蘭西フランス人の話をしたのを、貴方は覚えているかしら。

 三十歳で拳銃ピストル自殺を遂げた彼は、引金トリガーを引く前に、弾丸が確実に貫通する様、銃口から心臓までの距離を念入りに計測した。けれど私にとって彼が特別なのは、道具に拳銃ピストルを選んだからでも、銃口から臓器までの距離を計ったからでもない。の決行に至る迄の十年分の周到な準備よういを、綿密な筆跡エクリチュールとして遺したからだ。

 貴方はストーヴの明りで顔に深い陰影かげを作って、煙草シガレットも咥えず口を横一文字に引き結んで居た。の左手のほぐちから線香の様に煙が立ち上って居るのを横目に、私は努めて笑顔で呟いたわ。

 己を断罪する手段の選択など、些細な差異に過ぎない。其処そこに至る迄に、如何なる精妙な機微が在り、個人的パーソナルな挫折が在り、緻密な懊悩と絶望が在り、して其様そのように病めるわたくし自身を徹底的に否定し切る事への決意と誇りプライドが在るか、の軌跡こそが重要だいじだ。して自殺で在ろうとうで無かろうと、何方どちらも死という全く同じ、普遍的な、有体ありていな事象に帰結する以上、の軌跡を筆跡エクリチュールとして遺すならば、自らの死は寸暇ほんの幾許すこしばかり特別な事物ものに成りるだろう。

 れは、他より優秀すぐれた成果として自身の結末を聖別サンクティファイする、という事では無い。丁度、私が三原山で無造作に一つの石塊いしくれを手に取った様な事と同義おなじ。取るに足ら無い石塊いしくれを、死を、自身がの掌の中に握って確乎しかと知覚出来る物にする────して他者から視た時に、石塊いしくれを「久子の石」と名の付いた唯一物にする、という事。

 更にえば、死への勇敢なる道筋を綴る事に関心を寄せれば、おのずと日々の生き様も、己の美意識に律された演戯パフォーマンスへと変る。他人に嗤われ唾棄される様な自傳じでんは、可能できれば誰も書きたくないでしょう。又、万物すべてを細かに言葉で捉えようとる様にも成るでしょう。心境きもちを器用に言葉に出来ない事程、しゃくに障る事は無いわ。

 私が一等重要だいじだと貴方につたえたかったのは、う事だった。生のみを定めて緩慢に死に向かうのでは無い。死に依って現在の生を毅然と定義し続けて居たい、と。の為に我々は、言葉に誰よりも誠実シンシア厳格ストリクトで在りましょう、と。

 結局の後、貴方が筆跡エクリチュールと呼べる物を遺したのか否かは、不明わからないままだったわね。

 

 

 

 先刻、時計が十一時の鐘を打ちました。去年と同じく、今年もうち凝然ぢッとして過ごすわ。後もう一仕事、べき責務ことが残っているから。

 貴方はれ以上、私達の間に交換かわす言葉が無くなったから、の永続の距離を選び取ったのね。の距離の遠き処へ、一抹の寂寥と懐しさを持って思慕おもいを馳せる事は在っても、の先へと投げ掛けるといや、叫喚さけぶ声など最早もう無いから、と。

 私は知ら無かったわ。私は貴方に、貴方の生の如何なるかを立証て欲しい訳では無かった。温暖 あたたかな、甘やかな、私達が束の間纏って居られたれを、貴方の口から聴きたい訳では無かった。貴方の、煙草シガレットを持つ痩せた左手、時折思い出した様にく溜息、勃然むッと引き結ばれた唇、淡い、深い米国珈琲アメリカンコーヒー色の眼────れこそ貴方の何よりもの言葉だった。雄弁なる、威厳ある、何よりもの。距離は私から、其れ等全てを奪ったわ。

 零時を回る前に、花を活けなきゃ為らない。季節外れの竜胆。すぐに枯れて仕舞う様な代物だけど、貴方に見せる訳でも無いのだから構わないわね。一度、野菊の民子ちゃんの素振ふりでもて、貴方を竜胆の様な人ね、とでもって見たかった。でも最早もう、全ては終った事。

 屹度きっと私は又、うして貴方に送りもしない手翰てがみを、貴方に宛てて書くでしょう。をして暖かいの部屋の片隅に、花を、枯れ掛けた竜胆を活けるでしょう。

 来年も。の来年も。の又来年も。屹度きっと

 

十二月三十一日

午後十一時五分

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第28書簡「変わり者の友情哲学」

 「好事家たるもの、孤高であれ」というようなことを、動画でよく口にする。変わり者であるせいで周囲から孤立しているだけであるのを、まるで自ら選び取った独立であるかの如く傲岸不遜に誇れと、以前第五書簡「好事家の矜持」でも書いたことではあるが、私はいつも動画の中で捲し立てている。

 家族に囲まれていても、孤独でないとは限らない。それは遺伝子を幾何か共有しているだけのただの他人であって、血の繋がりはあっても、魂まで共鳴し合えるかは別問題だからだ。恋人を手に入れても、伴侶を持っても、ひとりぽっちでないとは限らない。その繋がりには性愛セックスが少なからず加担している場合がある。

 橋本治によれば「友情というのは、SEXぬきの恋愛である」とのことだが、崇高な、純粋な好意のみによる結び付きを得ようとすれば、それは友人関係をおいて他にない。

 では頑迷固陋がんめいころうなることで右に出る者はないであろう我々好事家には、そのお友達すら不要なのだろうか。

 

 

 

 その清々しいまでの性根の悪さと痛々しいほどに感傷的センチメンタルな筆致で今なお「乙女の聖書バイブル」と名高い嶽本野ばらの『それいぬ 正しい乙女になるために』は、「お友達なんていらないっ」と題された有難い箴言しんげんから始まる。

「乙女にお友達なんていりません。乙女は気高く孤高なものなのです。男のコのヒーローは徒党を組んで行動します。トム・ソーヤにはハックル・ベリー、ゲッターロボは三人で合体、『十五少年漂流記』なんて十五人もいなけりゃ一人前じゃないんです。だけども少女は違います。」

────嶽本野ばら『それいぬ』(2001)文藝春秋, p.15

 乙女とは唯一の「絶対的存在」なのだから、心開いて世俗に迎合する必要など微塵もない。ヤクザ映画の健さんのように、乙女とはカッコよく孤独なものであるべきである。

 そんな野ばら大先生の厳格なる教えを忠実に守り、教室でペヨトル工房の『夜想』片手にひとり弁当をつついていた自身の滑稽な学生時代を時折苦く思い出したりもするが、好事家とは乙女な意地の悪さと触れれば割れてしまうような繊細さを兼ね備えた者なのであるから、その孤独を恥じること自体、何よりもの恥であろう(実態は聖書の敬虔なる実践者ではなくただ陰気な嫌われ者であっただけなんだが)

 

 

 

 確かに孤高の乙女は、荒野あれのの野百合の如くまことたっとく麗しい。しかし、揺るがぬ信頼で結ばれた関係の、真夏の日輪のような眩しさに思わず目をしばたたかせることは、果たして我々にとって屈辱か。

 決闘の結果互いの強さを認め合い無二の友となったエンキドゥギルガメシュ(『ギルガメシュ叙事詩』)。共に幼少期を過ごし親友のために戦場に立ったアキレウスパトロクロスイーリアス』)小竹祝しののはふりを病で失った哀しみに耐えかねその遺骸に伏して自害した天野祝あまのはふり(『日本書紀』)

 神話の時代から描かれる熱い友情物語の数々よ! そのなんぴとたりとも立ち入れない、誰ひとり脅かすことのできない神聖な絆に漂う同性愛ホモセクシュアルのにおい。乙女の脆さを抱えながら、そのプライドの高さ故に男伊達でもありたい我々は、そうした男の友情に拙い夢を見る。

ニコライ・ゲー《パトロクロスの死を嘆くアキレウス》。
イーリアス』ではこのパトロクロスの葬送がオリンピックの起源だとしている。

 女の友情物語は男のそれに比べれば、呆れるくらいに乏しい。メロスはセリヌンティウスのために命を賭けシラクスまで走り抜いたが、女は友のためには走らないし、死にもしない。ラテン語の「友情アミーキティア」という言葉は「アモル」から来ているというが、男の友情が愛そのものと密接であるのに対して、女の友情と愛の間には何処かしら断絶が、溝があるように思われる。女の友情は確かに同性に向けられるだろうが、愛に於いては、凡そパートナーか子供にしか与えられないだろう。

 嗚呼、間違っても好事家は、究極の友愛によってギリシア最強の部隊となった神聖隊ヒエロス・コロスの気高い喇叭ラッパを、昼飯ランチの剣呑な合図と聞き違える女でありたくはない。そうして男伊達を志すほどに、否応に友人という存在への憧憬の念もまた深まる。

 ちなみにこれはどうでも良い話だが、GLガールズラブよりもBLボーイズラブの市場の方がはるかに大きいのは、男性同士の盤石ばんじゃくの如き友情の確かさを、女性は女性同士には見出せないために、その揺るがぬ男の友情フィリア性愛関係エロスまで連想してしまうからだと聞いたことがある。

ジャン・デルヴィル《プラトンの学苑》



 

 友が無ければ、余分に金銭を浪費することも、随時変化する人間模様に心掻き乱されることもなく、有限な時間と資本を自分だけに投資できる王国を手にすることができる。夢想の国の主で在り続けることは、好事家の永遠の悲願である。

 だが一方でその権力が徐々に人を狂わせるであろうことも、容易に想像は付く。王はじきに、ひとりよがりな独裁者と化す。人との交わりによって発生する面倒事をことごとく避け続けた結果、忍耐も柔軟性も失われ、自分自身が面倒な人間そのものになっていく。まさかと笑う者は見よ、この画面の向こうにいる私という人間を。(ここは笑うところです)

「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」

────夏目漱石草枕

 友人の多さは、生き抜く術の多さである。友人の少なさは、それによって発生する不利と不都合の多さに等しい。「友情」という呼称によって概ね包括される関係性がもたらす実益を数えてみれば、友を持たない手はない。いくら人間嫌いであろうと、好意の前にまず、保身と援助のために友人が有用であることは頭で分かる。

 古代ローマの政治家であり哲学者であったキケローは、著書『友情について』の中で、ガイウス・ラエリウスにこう語らせている。友情が利益を追うのではない、利益が友情を追うのだと。

「友情は欠乏からというより人間の本性から生まれるもののように見える。そこにどれほどの実益がありそうかを計算することではなく、愛する気持ちを込めて心を振り向けることにより、友情が生まれるのだ」

────キケロー『友情について』(2013)岩波文庫, p.31

 友人同士の好意の中に安らいを見出さない人生が、どうして(略)『生きるに値する人生』たえりえようかと、ラエリウスは────正確にはラエリウスに仮託したキケローは言う。普段の懐古趣味の癖で古代の浪漫に思いを馳せるほどに、何だか我々も屁理屈を捏ね繰り回している暇があったら、損得抜きのお友達を持った方が良い気がして来る。

 

 

 

 だが現代に立ち返り書をつまびらけば、三島由紀夫のこんな言葉にまた我に返ったりもする。

「世の中を知る、ということは、他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得るとすれば自分の利害にからんだ時だけだ、というニガいニガい哲学を、腹の底からよく知ることです」

────『三島由紀夫レター教室』

 無意識であれ意識的であれ、愛情に損得勘定は必ずある。恋人に尽くすのは、返ってくる愛の言葉に承認欲求が満たされるからだ。親へ向けられた子供の無条件の愛は、庇護を得るための本能だ。まず射幸心や、胸算用や、不安や嫉妬や劣等感や、性的欲求なぞが先にあって、そうしてようやく他者への関心が生まれてくる。キケローも先述の著作の中でこう書いている。「大方の人は人間の問題でも、善きものといえば利益をもたらすものしか思いつかず、友人も家畜を見るのと同じで、最大の利益を得られそうな人を最優先で愛するのだ」*1と。

 そんな事実に立ち返り、何だか漠然と億劫な気持ちになって、我々は結局「お友達なんていらないっ」とそっぽを向く。人に期待をしたくなくて、書物の世界に安寧の地を得て、今の我々があることを思い出す。

 

 

 

 好事家にお友達は不要かと言われたら、人間のそれは特別必要ないように思われる。第一まず人間に好かれる人間でないくせに自分から友人を欲するというのは、分不相応な高望みというもので、そんな無様な真似はこの幼稚な矜持プライドが断じて許さぬ。

 だがこの胸の内の郷里にまで孤独の風が吹きすさんでいるワケでも、また一方ではない。我々は本の中に支えとなる言葉を、絵画の中に心華やぐ庭園を、映画の中に日夜戯れる者を無数に持っている。果たしてこれを友と呼ばずして、何と言うか。かくも喜怒哀楽の情動をこの胸裏に起こさせ、時に厳しく時に優しく叱咤と激励を寄越し、突き放すことも寄り添うことも気まぐれであるが、それらに対して泉水の如く無限に湧き出づる我が純真なる愛を、友情とは決して呼べまいか。

 世間からは、このような様は寄る辺なき者に見えるらしい。だからこそ、そのように了見の狭い世間に笑われることがあるならば、逆に傲岸不遜に世間を笑ってやれば良い。確かに私は逆立ちをしても二人以上には分裂しない、上から見ても下から見ても「ひとり」である。しかしその「ひとり」は、無数の内なる友に囲まれて成り立っていことを、知らぬ者は永久に知らずにいて、それで結構なんである。

 それこそが、「好事家たるもの、孤高であれ」の真意である。

 

「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである」

────寺山修司『ポケットに名言を』

*1:キケロー『友情について』(2013)岩波文庫, p.66

第27書簡「怠惰なる眼」

 先月の生放送でも話題に出したが、ここしばらく『伝説巨神イデオン』を少しずつ見ている。

 1980~1981年にかけて放映されたサンライズのロボットTVアニメで、1979年に放映された『機動戦士ガンダム』の後続番組として、富野由悠季氏が引き続き総監督を務めた作品だ。登場人物たちを敵のみならず味方まで容赦なく殺していくことから、富野監督は時に「皆殺しのトミノ」という恐ろしい異名で呼ばれているが、『伝説巨神イデオン』はその無慈悲な殺戮が前代未聞の規模で繰り広げられたアニメということで、それへの浅はかな興味だけで気楽に手を出した……のだが、最近だんだん見るのが億劫になってきている。

 決してイデオンのストーリーがつまらないということではない。確かに序盤は物語進行が緩慢でやや冗長な印象も受けるが、「イデ」という未知の古代エネルギーに運命を翻弄されていく人間のドラマは、放送回を追うごとに加速度的に面白くなっていく。それより自分は、このアニメを「見ている」ようで実は「見ていない」のではないか、という思いに突然囚われて、どう観賞すれば良いのかがよく分からなくなったのだった。参考程度に、観賞中のメモを一部書き出してみる。
 『伝説巨神イデオン』は、地球人と異星人「バッフ・クラン」が些細な衝突をきっかけに不幸な戦争へと陥っていく物語だ。主人公らはバッフ・クランの攻撃を逃れて寄る辺なく宇宙を漂流するが、宇宙船の閉鎖空間の中では乗組員らの確執もあり、『十五少年漂流記』『蠅の王』等に代表されるような「漂流モノ」という物語類型を連想させる。

 またこの異星人「バッフ・クラン」が前髪を切りそろえた独特のスタイルをしており、『スタートレック』のヴァルカン星人を彷彿させる。彼らが使っているレーザー光の刀はどう見ても『スターウォーズ』でジェダイの騎士が振るうライトセーバーだ。

異星人「バッフ・クラン」の軍人の平均的なファッションスタイル。ダサイ。

 終わりの見えない泥沼の戦況で、イデオンパイロットである主人公ユウキ・コスモも傷付き、成長と変化を余儀なくされる。彼がイデオンに乗ることになったのは、父がその古代ロボットを研究している考古学博士だったからだが、死の恐怖に晒され一時は虚脱状態に陥る。そんな折、同じ年頃の息子を持つカミューラ・ランバンという司令官に母親のように接されたことで我を取り戻すことができたのだがそれも束の間、カミューラは戦いで命を落とし、コスモは深い悲しみに囚われる────とここまで、MSモビルスーツの開発者を父に持ち、戦いで精神を疲弊させていく中でマチルダ・アジャンという憧れの女性をも亡くした前作『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイの経緯と大差がない。

 またこの経緯は心理学的にも興味深い。ユング心理学では、人を動かす様々な無意識のパターンを複数の「元型アーキタイプ」として分類している。その内の「グレートマザー」に関しては第16書簡「母殺しのドグマ」で書いた通りだが、他に「アニマ」という元型アーキタイプがあり、それは男性の中にある女性的側面のことらしい(女性の中に在る男性的側面は「アニムス」という)。アニマは男性の精神的成長に伴って、まずは母親のイメージ(イヴのアニマ)、次に恋人のイメージ(ロマンチックアニマ)……と変化するのだが、コスモという少年がカミューラという母親代わりの女性と死別し、その後にキッチ・キッチンという心惹かれる少女に出逢うというのは、まるでコスモの中の成長しゆくアニマを象徴するかのようである。そもそもコスモもアムロでさえも、作品冒頭においてそれぞれの形で実の父親と決別している。アニマの変化よりも先にまず、幼少期の通過儀礼として精神的な父殺しが行われているのが面白い。云々。ja.wikipedia.org

 こうしたメモ群を読み返して思うのは、私は何につけても他作品と比較して、作品そのものを全く見ていないということだった。別段ロボットアニメを研究しているワケでもあるまいに、物語構造や象徴的な要素ばかりが気になって、キャラクターの活躍に胸を躍らせたり、ロボットの超人的なパワーにワクワクしたりといった没入感が一切ない。

 比較文化研究的な行為が昔から大層好きなタチだ、作品を体系の中で捉え構造分析して鑑賞することが非常に有用だという考えは変わらない。しかし気が付けばそればかりに拘って、目の前のものが素直に見えなくなっている。画面の中で繰り広げられるストーリーに一喜一憂するのではなく、そこに寓意を読み取っては一喜一憂している。それは「観賞」ではない、ただの自分の浅はかな知識が役に立つのかを確めては悦に入っているだけではないか。

 まだ全話を見終えたワケでもあるまいのに、初めてイデオンに搭乗した時のコスモの表情を、私はもう覚えていない。

 

 

 

 辺見庸という作家・ジャーナリストが、敬愛する写真家 中平卓馬氏の言葉を引用しながら、自著のあとがきにこういう文章を書いている。

中平卓馬はかつて、みずからの『眼の怠惰』をつよく戒めたことがある。「眼はすでに制度化された意味をひきずったまま、意味の確認しか世界に求めようとしない」(『なぜ、植物図鑑か』晶文社と。実際には鋭敏に過ぎ、勤勉過ぎる目の持ち主であるにもかかわらず、彼は自省をやめることはなかった。(中略)「眼の怠惰」だけは許してはならない。昼に夜に風景の底を見抜かなければならない。とりわけ、これからの時代には。

────辺見庸『永遠の不服従のために』

 中平氏の「眼の怠惰」への戒めに、思わずドキリとする。「見ている」つもりでいて、その実態はただ自身の知っていること、当たり前だと思っていることを目視で再確認しているしているだけではないか

 例えば近年は異常気象の影響で樹々が紅葉しないという。そんなニュースをネットで見かけて、桜の街路樹を見上げて「ああ、確かにちっとも橙に染まっていないな」などと思う。

 私はこの世でオレンジ色が何よりも嫌いで、あんな俗悪で根性悪な色はないと信じており、だからこそユイスマンス『さかしま』においてもデ・ゼッサントは「人工的な華麗さと辛辣な熱っぽさとを具えた、あのいら立たしい病的な色彩、すなわち、オレンジ色」*1で部屋をまとめたのだと確信しているものだから、街からオレンジ色がひとつでも減ることには大いに賛同する。夕暮れだって、あんな神経を逆撫でするようなうす汚い色合いではなく、目の覚めるような鮮やかな青と網膜を突き破るような黄で構成されていた方が余程素晴らしい。弾けた檸檬のような爽やかな香りが空一面に広がった後に、星々が砕けた氷粒のように煌めき始め、漆黒の天鵞絨ビロードの天幕を月がおもむろに引きずって来る、夕闇という需要な幕間はそうやって繰り広げられるべきだ。

 ……等ということを一通り考えて、また愕然となる。ここで私が眼を通して行った作業とは「報道されている内容は本当か」という事実の確認と、そしてそこから引き起こされた連想ゲームにすぎない。ただ自分の中の想像だとか知見だとかを目の前のものと照らし合わせていただけで、樹をよく見て「そういえば紅葉が遅いな」と気が付いたワケではなかった。毎日通っているはずの道なのに、時折こうして点検員のようなことをしながら、ただ通り過ぎているだけであった。

 

 

 

 日々目にしている景色を写真のように網膜に記録した気になって、最早「見」ていない。

 19世紀前半に登場し、世界で初めての実用的な写真技術として人気を博したダゲレオタイプは、露光に10~20分ほどの時間を要したため、その間に大きく動いたものの姿を捉えることができなかった。

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 以下は1838年に、窓から見えるパリのタンプル大通りを撮影したダゲレオタイプだ。左下に靴磨きとその客と思われる2人が小さく映っている以外に人影は見当たらない。しかし撮影時、この大都会の通りには多くの人が行き交っていたはずで、それが一切写り込んでいないのは、彼らが歩いたり走ったり、動いていたからに他ならない。

タンプル大通り。靴磨きとその客は「史上初めて写真に写った人物」と呼ばれている。

 ダゲレオタイプに映らなかった「速度ある人々」。速度が我々をどんどん「見」えなくする。そう言えばその昔はSNSで随分情報収集に励んでいたが、その内SNSを閉じた後に頭の中には何の情報も残されていないことの方が増えた。2年程前に「映画を早送りで観るZ世代」という現代ビジネスの記事がネット上で話題になったが(本にもなっている)、ここでは早送りで作品を観る理由のひとつに「手っ取り早くオタクになりたい」────つまり自分で作品内容を吟味する手間暇を省いて専門的な知識を手に入れたい、作品をじっくり「見」ずして知りたい、という心理があると指摘されている。ただあらすじがざっくりとなぞれれば充分で、作品を堪能するスキルも余裕もないから、再生速度は上げて構わないというワケだ。

 当然目が肥えることはなく、鑑賞力はいつまでも磨かれない。ただ作品を消費するスピードが加速していくだけである。

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 「タンプル大通り」のダゲレオタイプを眺めていると、私たちが立ち止まって「見」ない内に、世界から存在価値を消しつつあるのは、むしろ私たちの方かもしれないと思うことがある。「速度ある人々」が皆掻き消えた、その白黒モノクロームの静止した世界。

 どうしたら「見」ることを思い出せるだろう。絵画を見ても、図像学的なことばかりが頭をよぎる。絵筆の痕跡だとか、絵具の溜まり具合だとか、特殊な色遣いだとかに気が付くのは二の次だ。画集を眺めたりネットで画像検索することで満足して、実物を見ないことに慣れきってしまったツケかもしれない。

 情報は溢れているように見えて、ひとつのコンテンツに詰まった情報量は圧倒的に減っている。失われている「質」という堪能の猶予を、後から後から速度をもって押し寄せる「量」で補っている時代だ。

 

 

 

 そういえば学生時、漫画を描くことに凝っていて、手が上手く描けないので、授業中に自分の左手を延々とノートにデッサンしていたことがあった。毎日色んな角度から手を眺めていると、徐々に今まで気が付かなかったことが見えて来る。

 人差し指と薬指の長さは異なること。人間の手には水かきがあること。第2関節の皺は関節が折れ曲がる真上にあるが、第1関節の皺は関節の真上ではなく、少し爪側に寄っていること。何だか生命線が伸びている気がすること。云々。

 熱中していると、だんだん自分の手が自分のものでないように思われてくる。何やら不思議なかたちをした未知の物体を眺めているような心地になり、その存在が纏う空気、仄かな熱を帯びた霊的な放射体オーラを錯覚する。それが極限まで「見」ることによって存在という非言語的なる言語を理解した瞬間だったか。ただのゲシュタルト崩壊だったのだろうか。

 12世紀、現在のドイツである神聖ローマ帝国ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098~1179)という偉大な修道女がいて、「中世ヨーロッパ最大の賢女」であった彼女は神の啓示を幻視することができたという。彼女の幻視は決してトランス状態に陥った時の妄想などではなく、はっきりと意識が覚醒した状態で知覚され、

「生き生きした光の影」が現れ、その光の中に様々な様相が形となって浮かび上がり輝く。炎のように言葉が彼女に伝わり、また見た物の意味付けは一瞬にしてなされ、長く、長く記憶に留まる。

 といった様子のものだったらしい。真偽はともかく、「見る」体験の強烈な感動を私はここに見出す。それはあらかじめ意味を持ってものを「見」るのではなく、「見」ることで意味付けが強くなされ、永遠の知となりうるような知覚の在り方である。

神からの啓示を幻視するヒルデガルト。白目を剥いているように見えてシュールで好き。

 

 

 

 先ほどダゲレオタイプの名前を出したが、ダゲレオタイプは初めて大衆に広く実用された写真技術であり、世界で初めての写真技術はそれより10年以上前に発明されたセフォール・ニエプスの「ヘリオグラフィ」である。

ja.wikipedia.org その実験の中で1827年頃に撮影された「ル・グラの窓からの眺め」という写真は、非常に不鮮明ではありながら、ニエプスの自宅の2階の窓から外を眺めた景色が収まっている。

「ル・グラの窓からの眺め」

 この写真といい先ほどの「タンプル大通り」といい、「像を収めることに成功した」瞬間の光景がどちらも窓からの眺めであるというのはなかなか印象的である。写真史のスタートを飾るには、あまりに象徴的ではないか。
 「見る」ことを、このカメラの精密で自在なレンズのようにして、行わなければならないと思う。怠惰な眼が未発達な写真技術の如く、ものの姿を仔細を欠きおぼろげにしか捉えないのを戒めながら、意味の確認ではなく、ものそのものを見つめることを忘れてはならないと。姿かたちを読み取り、色彩の微妙な揺らぎを察知し、視覚という非言語的言語による啓示を受け、燃える岩のような超大な存在感に打ちのめされることを、知り続けなければならない。
 そしてそのために、自閉する心のきしんだ窓を、外へと広く開け放たなければならない。まるでダゲレオタイプとヘリオグラフィの、その奇跡的な一枚のように。

*1:J・K・ユイスマンス著, 澁澤龍彦訳『さかしま』河出書房新社(2017)

第26書簡「音楽という不可解」

 インターネットで日頃様々な文化に言及をしていると、音楽の趣味についても尋ねられることがある。しかしその度に、何と答えるべきか、私は返答に窮することになる。

 これまでYouTubeで100本以上の動画の制作し、「文化の経糸を己の感性という緯糸で横断する」を基本理念モットーに、文学、絵画、映画、漫画、アニメ、人形、ファッション、建築、食文化等々────ジャンルの垣根を越えた話柄を自在に展開してきたつもりだが、実は音楽については一度たりとて特集したことも、言い及んだこともない。

 理由はいたって単純シンプルだ。音楽が解らないから・・・・・・・・・である。

 

 

 

 文化の水脈を読み解くに、音楽の存在が欠かせないことは承知している。特に「身分ではなく趣味の良さが人の上下を決める」ようになった戦後サブカルチャーにおいて、その傾向は尚強くなるように思われる。

 ウィリアム・S・バロウズジャック・ケルアックアレン・ギンズバーグなどに象徴されるビート文学のスタイルには、即興性の強い音楽・ジャズの影響がある。そもそもジャズ自体がニューオリンズの黒人コミュニティの中から生まれたという、白人社会における一種の反抗カウンター的なきらめきとしてスタートしている。

ja.wikipedia.org

 黒人としてロックンロールという新興音楽を切り開いたチャック・ベリーリトル・リチャード、そして幼少期から黒人音楽に親しみのちに「ロックンロールの王キング・オブ・ロックンロール」となったのはエルヴィス・プレスリーだが、彼らが歌い上げるロカビリーロックンロールに触発されたのはアメリカだけなく、イギリスの青少年たちもだった。

 第13書簡にも書いたテディ・ボーイズらは、ラジオで流れるアメリカの8ビートに熱狂し、エルヴィスのリーゼントヘア(正確にはクイッフやポンパドゥールと呼ばれた前髪及びダックテイルと呼ばれた襟足)を真似た。そうしたアメリカの新興音楽に強く影響を受けたイギリス少年の中には、のちにビートルズとして名を馳せることになるかの5人もいたらしい。ロッカーよろしく革ジャンにリーゼントヘアというスタイルで活動をしていた彼らが、マネージャーの指示で、上襟に天鵞絨ベルベットをあしらったハイボタン・ジャケット、斜め縞ストライプのレジメンタル・タイ、細身のパンツというモッズスタイルに転向したというのは有名な話。

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 ビートルズを筆頭としたUKロックが、今度は「英国の侵略ブリティッシュ・インベイジョン」としてアメリカの放送電波を我が物にするようになる頃、民俗音楽であるフォーク再興リバイバルさせようという動き(フォーク・リバイバルも同時にあったりして、ボブ・ディランニール・ヤングジョーン・バエズ等を筆頭に、強いメッセージ性を持ったプロテストソングフォークロックが歌い上げられるようになる。それらは加速する資本主義や凝り固まったキリスト教社会、泥沼化するベトナム戦争を批判し、世界各国で噴出していた公民権運動や学生運動スチューデント・パワー反戦運動等と呼応し合った。

 1969年のフォークとロックの祭典「ウッドストックフェスティバル」に集まったのは、「武器ではなく、花を」「愛と平和をラブ&ピース」をスローガンとしたヒッピーたちだが、この「ヒッピー」という呼称は先ほど触れたアレン・ギンズバーグの著書『吠える』の冒頭の詩が由来だ。

”I saw the best minds of my generation destroyed by madness, starving hysterical naked,
dragging themselves through the negro streets at dawn looking for an angry fix,
angelheaded hipsters burning for the ancient heavenly connection to the starry dynamo in the machinery of night, ……”

「俺は見た、狂気に破壊され、裸で病的に震える、僕の世代の最良の精神を、

怒りを鎮めるドラッグの一発を求め、夜明けの黒人街を彷徨っているのを、

夜という装置の内に星のように輝くダイナモとの、古くからの神聖な繋がりに焦がれる、

天使の頭をしたヒップスターたちを……」

(※拙訳)

 偏愛する60年代に言及できたこの辺りで一旦具体例は止めておくが、改めて文学からファッション、薬物ドラッグ文化に至るまで、音楽抜きで語れない事物の多さを実感する。そして神経の網目のようにそれらを繋ぐ音楽の如何なるかを、私は音楽を聴いてではなく、本を読んで勉強する音楽が解らないから・・・・・・・・・である。

 

 

 

 好きな音楽なら、一応あることにはある。人に尋ねられる度に粗末な頭の抽斗ひきだしから粗末な構成プログラムを引っ張り出してこなければならないのが億劫で恥ずかしいので、いっそこの機会に列挙しておくが、趣味の悪さが露呈しているだけの冗長な選曲ラインナップにすぎないため興味のない方は読み飛ばされたし。

 聴き心地が良いのは、暗く無機質で、時に攻撃的なテクノインダストリアルEBM電子音楽Kraftwerkクラフトワーク から始まって The ProdigyプロティジーMinistryミニストリーDIE KRUPPSディ・クルップRammsteinラムシュテイン、KMFDM、EisbrecherアイスブレッヒャーAnd Oneアンドワン、FRONT242、Project Pitchforkプロジェクト・ピッチフォークCombichristコンビクリストEinstürzende Neubautenアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン から、Daft PunkダフトパンクSquarepusherスクエアプッシャーP-MODELといったもう少しポップなものまで。当然、Gary Numanゲイリー・ニューマン だったり Eurythmicsユーズリミックスだったり、80年代のシンセが効いた曲の多いアーティストは諸々聞けてしまう。Falcoファルコはただの贔屓。

 次点にポジティブパンクゴシックロックダークウェーブBauhausバウハウスJoy Divisionジョイディビジョンから、The Sisters Of Mercy シスター・オブ・マーシーDead Can Danceデッド・カン・ダンス、She Past Away、Clan of Xymoxクラン・オブ・ザイモックスswitchblade symphonyウィッチブレイド・シンフォニーSopor Aeternusソポル・エタルヌス等々。Dead Or AliveデッドオアアライブVisageヴィサージニューロマンティックも捨てがたい。

 この辺りに親しみを覚える背景には、それらの異形の末裔であるビジュアル系に思春期の頃夢中だった影響がある。アニメソングや、ブーム創成期を迎えていたボーカロイドの曲も、御多分に漏れず聞いていた。

 その後、格調高い日本語や哀愁漂う戦慄に惹かれて軍歌寮歌、戦前の昭和歌謡に熱中するようにもなるが、通学中によく聴いていたのは霧島昇藤山一郎東海林太郎並木路子といった有名歌手あたりだったか。古い呑み屋を梯子するようになってからは戦後の歌謡にも随分と親しみ、十八番はもっぱら浅川マキ『かもめ』と渡辺真知子かもめが翔んだ日』、大瀧詠一『さらばシベリア鉄道』である。

 ロックも聴くことには聴くが、エディ・コクランバディ・ホリージーン・ヴィンセントロカビリー色の強い初期のロックンロールの方が愉快だ。かすかな西部ウェスタの土着性を感じるからである。よって民謡や民俗音楽にはもれなく目がない(耳がない?)。京劇や布袋劇の劇伴である北管朝鮮半島オンヘヤタリョンといった労働歌、モンゴルの喉歌ホーミー、ロシアの速歌チャストゥーシカ、竹琴の調和ハーモニー美しい東南アジアのガムランから中東の魔術的な 旋律マカームアルメニア高原の民族舞踊であるコチャリの軽快な伴奏、商標的には「ケルト音楽」など総称されることもある、特に北欧色の強いヨーロッパ各地の古い伝統音楽、アメリカ大陸に渡ればタンゴ、ミロンガ、マリアッチ、マランボ……キリがない!

 幼少期から習い事を通してクラシックにも親しんで来たはずではあるが、エリック・サティラヴェルドビュッシー以降の近代音楽でないとイマイチピンと来ない。その中でもギデオン・クラインやパヴェル・ハース、エルヴィン・シュルホフらの、独創的で不協和音美しい実験的な小品には、暗く激しい感傷を覚えてならない。ユダヤ系であった彼らが皆、二次大戦の大量虐殺ホロコーストで命を落としたことが返す返す残念でならない。シェーンベルクヤナーチェクも、こうした無調音楽の面白さを語るには欠かせないだろう。

ギデオン・クライン。強制収容所でおそらく25歳頃に死亡したとされる。
(画像引用:ギデオン・クライン - Wikipedia

 

 

 以上思い付くままに具体例を挙げてみたが、私が普段このような開陳を嫌って避けようとするのは、自身の節操のなさを自覚しているからである

 美食家ジャン=サヴァランの「君が普段食べているものを教えてみたまえ。君がどんな人であるか、当ててみせよう」という至言と等しく(参照:第21書簡「ジュネ・サヴァランの珍食礼賛」、鑑賞した作品の傾向を聞けばその人となりというのは何となく分かるものである。そして私も、文学や視覚芸術においてはもう少し「我が美意識くや」という陳述ができる気がするのだが────それが日頃のYouTubeの動画となっているのだが────音楽に至ってはそうした一貫した美学のようなものが欠片もない。もしかしたら、この頓珍漢な選り好みアラカルトの中にも僅かな通奏底音は存在するのかもしれない。が、音楽理論を学んでいない私にはそれが聞こえない。その無教養が恥ずかしいのである。

 こう言うと、音楽とは頭で理性的に解そうとするものではなくもっと感覚的に聴くものだ、という提言が寄せられそうだ。しかし、音に揺蕩うという浪漫ちっくな行為の実態は往々にして、自らの情動操作のために音楽を一時的な道具として流用しているだけにすぎないのではないか、という疑念がいつも胸の何処かしらにある。三島由紀夫はその状態を「官能的な豚」と呼んでいる。

「音楽というものは、人間精神の暗黒な深淵のふちのところで、戯れているもののように私には思われる。(中略)

 ところで私は、いつも制作に疲れているから、こういう深淵と相渉るようなたのしみを求めない。音楽に対する私の要請は、官能的な豚に私をしてくれ、ということに尽きる。だから私は食事の喧噪のあいだを流れる浅はかな音楽や、尻振り踊りを伴奏する中南米の音楽をしか愛さないのである。」

────三島由紀夫『戦後日記』中央文庫(2019)p.34-35

 三島自身はその「官能的な豚」であることを自身に容認しているが、私は酒でも呑んでいない限り耐えられない。音と気ままに戯れる一方で、その意図と理論ロジックをも解そうと思索努力することこそ最も芸術的な戯れであり、美への誠意だと心得る。

 例えるなれば絵画の美しい女性像に驚嘆しつつ、「青い衣を着ているからこの女性はマリアを描いているのだ」と理解するようなもので、矜持ある者は間違っても「青い衣は女性の哀しみを表しているのだ」というような独善的なトンチキ解釈は犯したくない。しかし音楽に関しては、教養がない私はそのトンチキ解釈を無意識にも犯しかねないのである。それ故、「聴く」行為にますます臆病になる。

 

 

 

 ドイツの劇作家かつ思想家であったレッシングは、18世紀にかの有名なローマ彫刻、ラオコーン像を如何に評価するかという議論「ラオコーン論争」の中で「時間芸術」「空間芸術」という概念を提唱した。その定義に従えば、様々な芸術は凡そこうした区別をすることができる。

 「時間芸術」とは、時間のある一定期間を占有する、出来事の前後関係によって成立する芸術のことだ。例えば映画なら、その鑑賞に2時間ないし3時間の時間を占有される。そして時間と共に刻々と移り変わるスクリーンの内容が、映画という作品全体を成立させている。

 「空間芸術」とは、2次元や3次元といった空間を占有する芸術のことだ。空間を占有するためには物体として存在している必要があるが、時間芸術のように前後関係は必ずしも問われない。レッシングは、ラオコーン像は前後の見苦しい抵抗の様子ではなく、最も決定的な一瞬を形にしたからこそ斯くも優れた印象を与えるのだ、と賛美した。

 時間芸術の内容は動的で、空間芸術の内容は静的だと形容することもできるかもしれない。

ラオコーン像

 私はもっぱら空間芸術のそれらを愛してやまない。それは佇む城である。半永久的に所有できる質量であり、凍り付いた記憶である。流転する刹那的な美にも妙はあることにはあるけれど、完成物として時の止まった人工物の方が好ましいという本音は、第四書簡の冒頭でも綴った通り。

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 それでは「時間芸術」に該当するはずの映画や演劇、詩・小説も何故「空間芸術」と一緒くたに愛好しているのかという話になってくるのだが、結局「聴覚芸術視覚芸術か」という点に集約されていくように思われる。

 五感のどの感覚が優勢であるかは人によって異なるだろうが、魂と連結した感受性の導管パイプが、どうも私の場合は9割方視覚に偏っているらしい。スクリーンの中の計算され尽くした構図に息を呑み、役者の汗の一粒一粒に溜息をつくことができるし、言葉の奇跡的な配列に遭遇した時には、まるで紅玉ルビー瑠璃ラピスラズリ金剛石ダイヤモンドに、夢の鉱脈を発見したような心地だ。第三書簡にも書いたが、私にとって言葉と文字とは、標本箱に蒐集する昆虫、繊細な色を帯びた南京玉ビーズ────聴覚ではなく、視覚に訴えるものである。

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 古代ギリシアの詩人・シモーニデースは「絵はもの言わぬ詩、詩は語る絵」と歌ったし、古代ローマの詩人ホラティウスが『詩論』の中で説いた「詩は絵画のように ut pictura poesis」という文言は、長らく西洋美術の価値観として君臨していた(それにメスを入れたのがレッシングなんだけど)

 中国でも「詩書画一致」「書画同源」「詩画一如」なぞと言って、詩と絵画は切り離せず、絵画と書道は根源は同じであるという考えがあったし、つまり詩は「時間芸術」的ではありながらも、「空間芸術」と密接に連携し、時に「視覚芸術」でもあると言える。私にとっては文学も同様だ。つまり────

 ────個人的にはこういう分別を付けてしまうのだ。映画も演劇も、聴覚を伴う芸術でもあるが、それら要素は私にとっては二の次である。音楽だってレコードジャケットやライブパフォーマンスも含めれば視覚芸術の側面もあることにはあるが、長い音楽史の中でここ100年ほどの最近の話をしても仕方がない。

 もっとも、詩と音楽もまた切り離せないものであると思われる。「音楽」を意味する西洋の各単語 Music(英語)、Musica(伊語)、Musique(仏語)、Musik(独語)等はすべて芸術や学術を司るギリシアの女神「ムーサ Musa」が語源となっているが、古代ギリシャではこの言葉は特に音楽と抒情詩を指していたし、現代でも歌謡は歌詞────詩ありきで成立している。

 しかし詩だけですでに十二分に美しいのに、そこに音が付随すると何だか鬱陶しく煩わしく思われはしまいか。むしろ音に乗せなければならないという制約が、詩の可能性を狭めてしまっているかのように錯覚される時もある。

 彩り鮮やかな詩が絵画とは決して切り離せない存在ではあっても、音楽とは切り離してもそこまで問題にはならないはずだ。音なくしても耽美なる詩はどこまでも甘やかだ。詩なくして成立しない音楽は、もともと脆弱な骨格しか持ち得ていなかっただけにすぎない。

 

 

 

 音楽とは、髪を掻き撫でたり頬を切り裂いたりしてはいつも私を置いて去ってゆく、烈風のようなものだ。それは決して掴むことのできない不定形の不安と寂寥である。突如我が身を襲う、体温以外の不慮の温度である。

「他の芸術では、私は作品へのめり込もうとする。芝居でもそうである。小説、絵画、彫刻、みなそうである。音楽に限って、音はむこうからやって来て、私を包み込もうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられらくなるのだ。すぐれた音楽愛好家には、音楽の建築形態がはっきり見えるのだろうから、その不安はあるまい。しかし私には、音がどうしても見えて来ないのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)

 明晰な美しい形態が、まるで私を拒否するかのように私の前に現れると、私は安心してそれに融け込み、それを合一することができる。しかし音のような無形態なものがせまってくると、私は身を退くのだ。」

──── 同上 p.38

 確固とそびえる美しい建築には誰しも安心して駆け込むことができるだろう。しかし向こうからその建築物さえ巻き上げ迫り来る竜巻に自ら飛び込むことは、至難の業ではないか。小説や絵画、彫刻といった類は明朗に佇む建築物であり、音楽とは嵐の中に隠れた建築物だ。しかし三島が言う「音楽の建築的形態」が私にも一向に見えて来ないために、嵐の中に建築物が隠れていることをいつも見抜けずに、竜巻の接近に慄くばかりである。

 音楽という未だ近づけない不可解。それが解る・・日は、まだまだ遠いように思われる。

第25書簡「落伍者の夜間学校」

 二十歳も少し過ぎた頃、私は遅まきながら家出同然で実家を出たのであるが、煙草と数着の衣服だけが入ったトランクケース片手の栄誉ある独立は、当然のごとくその後しばらくの貧乏生活を私に強要した。

 空の冷蔵庫を開けては途方に暮れたり、ようやく部屋を借りられたと思った矢先に職を失ったり、瓦斯ガスが使えず真冬に冷水で身体を拭ったり、振り返ればそこそこの綱渡りもして来たような気もするが、左程へこたれもせず案外ケロリとしていたのは、先人の極貧を多少見知っていたからだろうと思われる。

 稲垣足穂は丸一日水かパンひときれしか口にできず、拾ったシケモクを吸って失神していたし、内田百閒は「錬金術」と称して借金を借金で返す日々を送っていたし、坂口安吾は家財もろもろ差し押さえられても『負ケラレマセン勝ツマデハ』と国税庁を訴訟までしていた。青春時代に愛読した文豪たちのそうした困窮の小話エピソードを振り返ったり、鳩の餌で食い繋ぎ、ニューヨークで初めて個展をした際には電車賃を浮かすために巨大なキャンバスを担いで何駅分も往復したという草間彌生や、借金して「海の家」を借りたり、出世払いでイタリアン・コンチネンタル・スーツなどをオーダーしていた横尾忠則など、当時好きこのんでいた画家アーティストのことを思い返したりして、「武士は食わねど高楊枝」────それこそ梶井基次郎が自らをそう称していたという「貧乏なディレッタント」を、私も居丈高に自称していた。

「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要とし、より多くを欲しがることだ」

 とは、「世界で一番貧しい大統領」として知られたウルグアイホセ・ムヒカ元大統領が、2012年の国連の「持続可能な開発会議」にて行ったスピーチの一節らしい。老子の「知足者富(足るを知る者は富む:満足することを知っている者は、精神的に豊かで幸福であるということ)」にも通じる言葉だが、物欲にまみれた私はそんな高尚な精神を持っていたワケではなかった。ただ、以下の動画にあるような戦後まもなくの名もなき人々の逞しい姿なんかを見聞きして、成程彼らの苦労はこういうものなのだろうかという自己実験をしていた(させられていた)に近い。

 そういえば、上村一夫の『同棲時代』や林静一の『赤色エレジー』に描かれているような男女カップも、風呂も台所もない木造アパートで暗く煮詰まっていた。

 

 正座した後のような痺れが何日も脚にあるので調べてみたら、どうやら脚気の初期症状らしいということが何度もあった。「江戸煩えどわずらい」に掛かるとは私もいよいよ東京の一員になりつつあるワケだと、そして将軍や公家に多かったこの死に至る病に見舞われるとはすなわち私も高貴なる者である証左だと、当時は随分と愉快でいたが、まこと若さ故にできた貧乏だったと思う。

 かつて第十書簡において、その頃新宿にいたく憧れていたことを綴ったが、家出によってその新宿にいつでも立ち寄れるようになったことが、胸中にあらぬ希望を抱かせていたのかもしれない。地に足の着かない────足が痺れて着けることができない────夢遊病のような日々だった。

「そうしながらも、自分は自分を信じるちからが大きかったため、いまある生活がきっと自分を善くしてくれることを考えていた。茶ものめなかった旅行中のドストイエフスキイや、いつも愛と餓えとの永い彷徨をつづけたヴェルレエヌ、ミレエの窮乏、ミケランゼエロの苦しみ、そうした先人の道程を考えるとき、私はかえって指してゆくところに明るみ光り望み生命いのちを感じた。まだ来ない幸福や喜びや芸術の出生やを、私はあたかも一つの山嶽を前方に凝視するような心持で、それに近づくために忍ばなければならないもの一つ一つに、耐えゆかねばならないと感じた」

 金に窮していたはずなのに、懐に幾何か余裕のできた今よりも、当時の方が余程酒を呑んでいた。アルバイトで得たなけなしの日銭を、その晩の内に使い切ることも茶飯事だった。

 そこには、永井荷風太宰治の放蕩を真似てみたかったという幼稚な羨望も隠れていなくはなかったが、心持ちは生真面目な学徒のそれだった。それまで極力人との関わりを避け、デ・ゼッサントを師として家に籠ることを是とするあまり第12書簡「貧しさと洗練」参照)精神の自閉症に陥っていた自身にとって、酒場で会う人話すこと全てが、ツンとした皮脂の臭いと熱を帯びた、刺激的で、大いなる学びであった。

 酒場は真夜中の学校だった。昼夜の一食を抜いて、ウヰスキー一杯の授業料に充てる価値は、事実あった。

 

 

 

 貧乏すると、腹は勿論だが、何より魂が飢え乾く。

 夕陽がビルの地平線の向こうにすっかり隠れた頃になっても、心の空腹を満たすものが欲しくて、一向にウチに帰る気が起きない。街行く人の喧噪は大きくなり、呼び込みの声が丁々発止と飛び交うようになり、風俗の宣伝車はけたたましく、溝鼠ドブネズミはゴミ箱の蓋を跳ね上げパチンコ玉の速さで瀝青アスファルトの上を駆け抜けてゆく。「腹減ったなァ」という独り言が口から洩れる。これが夜の始業の振鈴チャイムだ。

 煌々と明るい電光看板の数だけ、教科書がある。私達は頭上に輝く時間割ネオンを見て、気が向いた授業を好きに受けることができる。

 焼酎一杯で出来るだけ居座りたくて、なかなか口を付けられない洋杯グラスに、水滴は透明な音符のごとく結露して、溶けた割氷がカランと鳴る。そこに音楽の理屈を発見する。

 客が吐いた煙草の紫煙の中から、自らを語る言葉を拾い、カウンターの隅で言い合いをする男女の痴話喧嘩から啖呵の切り方を学ぶ。くだを巻く中年サラリーマンの横顔に父を見て、酩酊して街の猥雑な景色が瞼に揺らぐ、そのまどろみに母を知る。

 他人ひとの語りに一秒でも長く耳を傾けることが、一枚でも多くの小銭を胸中に貯金する最善の方法だ。まこと貧するは幸いである。ない金がこれ以上減ることはない、増えるだけだ。その金は、学校の外では知識だの見聞などと呼ばれている。

貧乏とはひとりで学ぶことのできる徳である。

 Πενία αυτοδίδακτος αρετή. 

────ディオゲネス

アントニオ・マンチーニ《貧しい小学生》(1876)



 

 

 勿論真昼の定食屋や喫茶店にも、教室は開かれているけれど、くも夜間学校への通学を勧めるのは、そこにはすねに傷を持つ生徒達が少なくないからだ。

 人間は明るい、暗いといった「性格」だの、オタク、ツンデレといった「キャラ属性」だので表せるものではない。そうした記号で認識することで自身の仮面ペルソナを使い分けやすくはなっても、杓子定規で人を解そうとしている限りは、その枠の中に収まりきらない未分化のものへの不安や不快感と、永遠に決別することはできない。

 他者とは理解できない不安な存在である、他者とはどこまでも煩わしい不快なものである。脳裏に浮かぶ「地獄とは他者である」というサルトルの言葉を、栄養失調で荒れた胃袋に安いウヰスキーを無理矢理流し込むようにして、清濁併せ呑む。それが人間を知るということだ。

 こうした、昼の学校では絶対に教えてくれないことを、真夜中の学校では教えてくれる。そのような卑俗で不純な教えなぞ不要という者は見よ。昨今の、規則ルールを記した字面ばかり追って人の目を見つめることを忘れた者たちを。記号の組み合わせでしか人物キャラクターが描けない、人生ドラマを知らぬ者たちを。赦すことを説き伏せることだと勘違いしている者を。悪の対岸には必ず正義が存在すると信じ込んでいる者を。

 彼らは皆、架空フィクション空想ファンタジーでしか物事を見たことがない。人間存在の根源は、そんなところにはない。寺山修司はかつて『書を捨てよ、町へ出よう』と説いた。その映画版の有名な冒頭の文句を、私はこうパロディしてかつて自身の動画にて諳んじた。

「何してんだよ? 部屋の暗闇の中でそうやって腰かけて待ってたって、何も始まらないよ。スマホの中はいつでも空っぽなんだよ。ここに集まってる人たちだって、あんたたちと同じように何かに待ちくたびれてんだな。何か、面白いことはないかってさ」

 「スマホを捨てよ、町へ出よう」とまで言うつもりはないけれど、スマホはあくまで次なる人や場所と出逢うための手間を減らしてくれる便利道具として活用したい。文化とは人あってこそのものである。情報も結局、人にまつわることである。人を介さず/解さずして得られるものなど何もない。この事実からは、人間ホモ・サピエンスが社会的動物である以上、残念ながらなんぴとたりとも逃れることはできない。例え私のような、元来の人間嫌いであっても。

 何も、誰かと仲良くしたり、群れたり騒いだりしろと言うワケではない。ただ粛々と夜の街に出て、綺麗事に疲れて凝り固まった脳味噌を酒精アルコホルで柔らかくして、斜に咥えた煙草を鉛筆代わりに、見聞きしたことを心に書き付けておけば良い。酒代という授業料がなくても、拾ったシケモクでも吸いながら辺りを見回してみれば、駅前の広場であったり、公園であったり路地裏であったり、いくらでも学校は見つかるものだ。

 もしかすれば、金が無い方が、手元のデバイスでの調べ物を一旦止めてみた方が、今日も夜闇の何処かから聞こえてくる始業の振鈴チャイムに気が付きやすいこともあるかもしれない。

 

 

 不登校だった君にも、勉強が得意でなかった君にも、素寒貧で入学費が払えない君も、病んで勉学もままならない君にも、学びの門戸を開いている────それが落伍者のための学校だ。それは主婦が暇をしている長閑な住宅街や、子供たちが無邪気に遊ぶ時間にはあまり見かけられない。

 それは多様な人が同じ坩堝るつぼの中でかき混ぜられている、臭くて、猥雑で、何より眩しい、深夜の繁華街の中にある。

「いろんな学校があるんだよ、坊や!何も教科書持って自転車にのってゆく、黒板のある建物だけが学校だって訳じゃないんだよ。感化院が学校だったり、酒場が教室だったりするんだよ」

「母さんの学校は刑務所だった。古くさいコンクリート建ての学校で、同級生はみんな人殺しだの、掏摸すりだの、強盗ばっかり! でも、母さんは刑務所に、英雄だの冒険だのをさがしに行ったんじゃない。まじめな勉強しにいったんです……」

 

────寺山修司毛皮のマリー』角川文庫(1993)pp.115-116

第24書簡「不在と絶望の表象としての少女」

 10代後半の頃、70年代に発表された少女漫画を熱心に読んでいたことがある。

 萩尾望都ポーの一族』や竹宮恵子風と木の詩』、池田理代子ベルサイユのばら』、大島弓子綿の国星』、木原敏江摩利と新吾』、山岸涼子日出処の天子』、三原順はみだしっ子』、一条ゆかり砂の城et ceteraエトセトラ……。

 所謂いわゆる俗に「花の24年組」と呼ばれたり呼ばれなかったりする、団塊の世代による作品群である。ちょうどその頃私はお耽美・・・な彼是に凝っていて、吸血鬼バンパイアについても熱心に勉強(?)していたから、その延長で『ポーの一族』を手に取ったのがそもそものきっかけだった。尚、その作品名タイトルを知った経路は勿論、今は無きペヨトル工房から刊行されていた美術系雑誌『夜想』である。

 嗚呼、仰げば尊しペヨトル工房────(by.村崎百郎*1

 70年代の少女漫画との邂逅は、それまでの美意識を180度変えてしまうほどのショックを私に与えた。制服なんて着崩してナンボや、と服筒パンツを腰履きし髪を逆立てて登校していたのが、萩尾望都竹宮恵子ギムナジウムもの(西洋の全寮制男子校=ギムナジウムを舞台の中心とした少女漫画のこと)を読み始めてからというもの、制服を皺ひとつなく如何に正しく着こなすかに拘り始め、冬には燕尾の外套コートまで羽織るようになったのを今でも恥ずかしく思い出す。何でも形から入る、浅はかミーハーな若造であった。

 受けた衝撃の大きさは当然作品の卓越性ゆえであるが、それまで少女漫画というものを忌避して読んでこなかったのも一因であるやもしれなかった。実を言えば、それまでは少女漫画なぞ恋愛しか関心事のない女児の与太話だと、白雪姫や灰かぶり姫シンデレラの頃から何一つ進歩のない、前時代の焼き直しだと思い込んでいたのだ。

 勿論これは少女漫画を読んだことがない人間の多大な偏見である。が、主体性のない女性、あるいは男性を前に平気で主体性を捨てる女性への厭悪えんおが物心付いた時からあったから、級友クラスメイトが読んでいた『ちゃお』や『なかよし』といった少女漫画に登場する少女は、恋愛如きですぐ曖昧になる主体性しか持ち得ていないと、心の中で見下していた(勿論、実際にはそんな主人公ばかりではない)。ボーイフレンドと成就するのが何故物語の終着点ゴールであり得るのか全く理解に欠く、と歪んだ先入観を持って、私は70年代のそれらを手にするまで、少女漫画を蛇蝎だかつの如く嫌厭していたのだった。

 そしてそうした少女漫画と女性への軽蔑心が、「少女」という何者かへのイメージをも著しく損なわせていた。「少女」とは、純粋で眩しいものでも、儚く美しいものでもない。幼さ故に知能は低く、言葉も貧しく、しかし淫欲だけはすでに一丁前な「小」さい「女」────「小女」なのだと。

 その憎悪の念を抱いていた頃というのは、私自身が「少女」に該当する年齢であったはずなのに、当時の私の中の「少女」の印象は、私と対峙し、白濁したかすみの向こうで穢れた笑みを浮かべる、不敵で、下品なものだった。

バルテュスの《夢見るテレーズ》のような挑戦的な嬌態が「小女」には垣間見えている。



 

 勿論、そうした「小女・・」だからこそ紡げた物語、成立した文学もある。ここでウラジミール・ナボコフ『ロリータ』を引用しないワケにはいかない。

「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ、……」

────ウラジミール・ナボコフ『ロリータ』

 まだ12歳という年齢でありながら、蠱惑的な気配を漂わせるドローレス・ヘイズ(愛称:ロリータ)。彼女は年増の男性ほど、その抗い難い魅力で惹き寄せていく「ニンフェット nymphet」である。それは年不相応な色香を、年不相応な対象へ放つ者。

 かつて少女文学紹介動画でも紹介した、森茉莉甘い蜜の部屋』の藻羅モイラや、倉橋由美子聖少女』の未紀も、ここに近しいものとして並べて良かろう。意識的にしろ無意識にしろ、年齢とは不釣り合いな、婀娜あだな「媚態」を彼女たちは共通して持っている。この「媚態」を、世間では「女性性」と呼んでいる。

 ここでの少女は「小女」と呼ぶべき、私の忌み嫌う対象ではあるが、それでも私が上記の作品群を愛しているのは、「小女」の持つ不均衡のアンビバレンスな美が作品世界に異端と背徳のかおりをもたらしているからだ。そこでの「小女」は媚態の卑しさを、女性性の臭気を紙面にふりまくものではない。あくまで物語の動力として巧妙に機能している、邪悪な作品装置にすぎない。

 これが現実世界に現れた時、通俗的なメディアに露見する時に、媚態の悪臭を放つ。

 

 

 

 少女が成人男性の性的対象になるのは、本来は「おかしい」ことではある。

 未成年の女児を性的に求めるのは大人として間違っているだとか、ロリータ・コンプレックスは異常者だとか、世間の常識や良識の如何を問うているのではない。その是非は私の知るところではないし、知るつもりもない。私が言いたいのは、理屈や当否はともかく、旧来の社会では成人の情欲の矛先に少女が含まれるのは「おかしい」という前提がまずあって、だからこそナボコフの『ロリータ』は異端文学として成立したし、ロリコンブームは屈折したカウンターとして機能した、ということだ。

 そういう大きな前提が多様性の名のもとに瓦解している今、「少女」はますます「小女」として卑俗で性的なところで消費されるのみになってゆくだろうし、物語の中でさえ、秀逸な異物として在りえなくなってゆくだろう。

www.burikko.net

※ロリコンブームについては虫塚虫蔵氏の膨大な調査記録がとても勉強になるため僭越ながらここに引用させていただく。

 それまでの成人漫画というのは所謂「劇画」でゴルゴ13のようなタッチを想像していただければ良い)、大人同士の性事情が描かれたり描かれなかったりしていた。それが、ロリコンブームのような潮流が起こってから、まだ二次性徴も迎えているか定かでない童顔の少女が性的アイコンとして描かれるようになっていった。

 今や(設定年齢はともかく)発達しきった豊かな乳房や臀部を持つ身体に、贅肉のない枝のような四肢とおさな顔が接合された少女のデザインは、世間に何ら違和感なく受け入れられているが、よく見てみればこれは合成獣キマイラの如きものである。いつか山本直樹(旧ペンネーム:森山塔が、成熟した女体に初めて少女の頭部を載せた漫画家であると聞いたことがあるが、一体誰の発言だっただろう。

 ここまでくると欲望の極致という感じがして最早一種のすがすがしさまであるが、ある意味「幼いが性的魅力は存分にある」というニンフェット的属性を絵で表現した際の、最も分かりやすく即物的な手法ではあるかもしれない。

 

 

 「」びる「態」度と書いて嬌態なんであって、媚びれば大なり小なりの愛嬌くらい生じるものだから、結局のところ世間の一定部分で支持されている「少女の魅力」などというのは、成長の早い段階で幸運にも体得できた女性性を、うら若い「小女」が振りかざしているにすぎないのではないか。などと、今も若干思うことはある。

 しかし70年代の漫画に登場する少女たちにそうした嫌悪感を抱かなかったのは、今思えば不思議なことだ。単純に、同世代の漫画は感覚が近いが故に生々しいが、一昔前の漫画は感覚的な遠さがあるがために適度な距離感を持って読めていた、というのもあるかもしれない。ともあれ、日焼けで茶色くなった頁の中に生きづく少女は、これまで私が知っていたどんな少女よりも透明で眩しくて、心を切なく捉えて離さなかった。

「きみはだまって そこにいる なにもいわずとも そしてわかってくれる────」

────萩尾望都ポーの一族

 今尚狂おしいまでに愛してやまないのは、何といっても『ポーの一族』に登場するリーベルだ。萩尾先生の唄い上げるような、心の琴線のかたちをなぞるような美しい線であるからこそ紙の上に多少顔を見せる気になってくれた、何処かに息付くやさしいプシュケー、こちらに来る衣擦れの音、記憶の薔薇の残り香。ニンフェット的な媚態ではなく、あまりに記号的で空虚な、純真無垢というかせを華奢な一身に受けた「すきとおった銀の髪」を持つ永遠の処女をとめ

 よく読んでみれば、メリーベルも旅先で出逢った少年と一丁前に恋なんかもしているのだが、私は彼女にどこまでも透明な、未分化の愛らしさを感じて、これぞ私の「少女」だと心中で咽び泣いた。女性性が「少」ない「女」────娼婦の戯れではなく幼子が人を恋うような愛しか持ちえない、無臭の硝子細工────それが「少女」だと。

永遠の少女、メリーベル

 

 

 

 だが理想の「少女」像の獲得は、同時に喪失をも意味する。その虚ろな少女は最早現代のメディアに登場することは叶わず、当然、現実世界でも存在しえないからだ。今後の人生の中で、「少女」に新しく出逢うことは永遠に叶わない絶望。

 仮に自身を「少女」であると自覚した子がいたとする。しかし生身の人間である以上は異性の眼に否応なしに晒される。その異性のまなざしを、自身の魅力によって操作しようとするならばそれは「小女」だ。一方でまなざしを拒んだとしても、それによって男性性に対する女性性を意識させられている時点で「性的な分化」を経ているから、未分化のまま天真爛漫であれる「少女」では既にない。

 男性は男に「成っていく」のに対して、女性は自らの中に女を「発見していく」のだとよく言われる。女性性の発見の否定は、際限のない自己否定に陥るのみだ。肉体の成長は、死なない限りは止めることはできないから。

 稲垣足穂は『少年愛の美学』の中で、

「少女と相語ることには、あるいは生涯的伴侶が内包されている」

「女はだれでも『女』に相違いないからだ。女性は模型自然だと云えるが、(中略)庭木や鉢植えが同じ模型自然に属している限り、別に素敵な美女でなくともわれわれを十分に愉しませてくれる」

 と語る。例え女に「小女」だった瞬間があったとしても、「少女」だった瞬間など、一度たりとも有り得なかったのかもしれない。私はあの頃、自分が「少女」であったことに気付かなかったのではなかった。「小女」であることを認められなかったのだ。

 もしも、もしも刹那「少女」だった瞬間が何らかの偶然であったとしても、その先には「性的な分化」のY字路が必ず立ちふさがり、女性性という名の卑しい選択肢しか待ち受けていない。それは望まなくとも引きずり出される、永遠に平和が訪れることのない戦場である。

 

 「少女」の発見とは、自分が生まれ持った呪いの、発見でもあったのかもしれない。

 

 

 

*1:今野裕一『ペヨトル興亡史』冬弓舎(2001)p.184

第23書簡「滅びに生まれる物語」

 昨日、祖母が死んだ。

 馴染みの呑み屋で安酒を舐めている最中だった。カウンターの隅に打ちっていた携帯電話スマートフォンひび割れた液晶画面が光って、片手に濡れたグラスを離さないままもう片方の手で画面を開けば、親族からの、祖母の訃報だった。

 琥珀色の麻薬ドラッグを舌の奥で転がしながら、ここ数日のことに思いを巡らせてみた。祖母が亡くなる前に虫の知らせのような予兆でもあっただろうかと、つまらぬことが気になったからだった。

 だが酒精アルコホルに浸された頭の抽斗ひきだしを覗いてみても、別段これといって思い当たるような出来事はなかった。悪夢を見ただとか、金縛りにあっただとか、何者かに枕元に立たれたりだとか、少しくらいあってくれても良いものだが、現実にそんな非日常ハプニングは概して起こらない。

 ただあったとすれば、ここ数日ずっとポカ・ドジ・ヘマ続きで、何もかもにほとほと嫌気が差していたくらいだ。そしてこんなことは、いつもの日常でしかない。酒を呑んでいたのも、毎度お決まりの自棄やけっぱちにすぎない。

「私達は盃をなめはじめた。私は深い飲酒者が永い時間をかけて愛飲するように、ちびりちびりと深い溝そこへはまり込んで行くように、次第に意識を円満にやわらげてゆくようにした。酒は意識を五彩あやなす錯然とした或る夢幻的な心持に、たびたび誘おうとした。しかし私はもはや酔えなかった。あたまの中にシンが立ったように、醒めて冷えきったものがあった。」

 

 

 

 1度で良いから怪奇現象や心霊事件に巡り合ってみたい、と常々願っている。が、これまでにそうした経験をしたことは、残念ながら皆目ない。日本でも有数の人死にがあった場所で生まれ育ったはずだが、未だ成仏されない怨霊も首のない武将も蛇になった姫も、誰一人として挨拶に来てくれなかったとなると、余程霊感がなかったか、あるいは相当嫌われていたと思われる。「同族嫌悪」という言葉が頭に浮かぶ。

 自分が願っても手に入れられない体験を他人がしているというのは、まこと癪な話である。私は以前 第21書簡 にて、胃袋ではなく脳髄の空腹を満たすたびに、古今東西の美味珍味を舌の記憶箱に詰め込むべきという話をした。

dilettantegenet.hatenablog.com

 

 それは食事とは味覚の記憶を増やす、まさに人間ホモ・サピエンスにとって至上の快楽たる「知る」行為そのものだからであるが、心霊体験や神秘体験もこれと同じだと言える。日常の中ではなかなか知覚しえない「知」に一瞬でも触れ得るのが、幽霊の目撃だったり、妖怪との戦いであったり、宇宙人との交信であったりすると私は信じている。それは現実ではない、脳の錯覚だって構わないのだ。

 それを、金銭という権力の行使や己の努力では如何いかんともし難く、「霊感」だの「第六感」だの現代科学では説明のつかない先天的な感覚なくしては得られないと言われたら、持たざる者は持つ者を悋気りんきして当たり前だろう。本当は不要なものだったとしても、誰かが持っているものを自分は持っていないと気付けば、猿でさえ心穏やかでいられなくなるのだからいわんや人間をや、である。

 隣の芝はいつだって、どんな幽霊の顔よりも青い。

 

 私も叶うことなら霊感や第六感を獲得したいと、化学物質を摂取したり、オカルト版なぞを読んで珍妙な儀式やまじないに凝っていた時期もあったが、学生時代に小泉八雲『怪談』柳田国男遠野物語を読んでからは、そうした怪談や心霊現象への見方が少し変わった。

 説明するまでもないが、この書簡を最近は若い読者も受け取ってくれているようなので念のため注釈しておくと(いつも読んでくれてありがとう)、『怪談』とは、日本の各地で様々な形で伝えられてきた妖怪や幽霊の奇譚を、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが文学的に書き直してまとめた1904年の作品集である。誰もが知っている雪女耳無し芳一ろくろ首のっぺらぼうといった魑魅魍魎が登場する物語は、この『怪談』の中で分かりやすく洗練され、今尚語り継がれる有名な怪談となった。

 『遠野物語』は、柳田国男岩手県の遠野地方で聞いて回った様々な昔話と風習の、膨大な記録である(1910年発表)雪女河童天狗といった妖魔にまつわる伝承は勿論、うば捨て神隠といった伝説、ザシキワラシオシラサマゴンケサマといった神への信仰や祟りなどが多数収録されており、そこから東北の土着の自然観や死生観をも炙り出していることから、日本の民俗学の先駆けとして名高い。

 学生時代にこうした書籍を読んだことで、それまでただ漠然と知っていただけの怪談に、いつ、どこで語られていたのかという情報が与えられることになった。すると、それまでホラーやオカルトの話題を、摩訶不思議でショッキングなコンテンツとしてその瞬間だけ楽しむ、表面的に消費するだけだった自分が、何となく恥ずかしくなった。

 幽霊や妖怪の物語、そして信仰とは、その土地や民族なりの、生きていくための知恵であったり、恐怖や畏怖という心の在り方であったり、不思議な自然現象を理解する方法であったり、そしてやりきれぬ想いや哀しみの慰め方でもあるのだと気付いたからだった。

 

 

 

 例えば、雪女の伝承は日本各地に多数散在しているが、その土地は先述の岩手県は勿論、青森県から宮城県山形県から新潟県、長野県から岐阜県まで……他にも挙げきれないほど類型の伝承を持つ土地があるが、いずれもが、冬になると深い雪に覆われる地域であることに大差はない。

 それは厳しい寒さと激しい雪が長らく自然の脅威として存在した場所であり、その土地の人々の恐怖の形や畏怖の念の矛先が、「雪女」として顕現しているのではないかということは安易に想像される。

上村松園《雪女》(1922)

 また、目を離した隙に失踪してしまった子供、口減らしのために止むを得ず殺さざるをえなかった子を「神様が隠されてしまった」「天狗に連れて行かれた」とすることで、喪失感や罪悪感が幾何いくばくか和らぐこともあるだろう。これは怪談や信仰が、人の心を納得させる手段として機能している例である。

 

 

 

 以上は決して「昔の人の昔なりの考え方」ではない。自然の理不尽な暴力によって未曽有の大災害を受けた土地で、心霊体験の報告が増えたという例がある。

 2011年3月11日に起こった東日本大震災の、後のことだ。

gendai.media

 津波の甚大な被害を受けた石巻市にて、タクシーの運転手が霊と遭遇したという話は、当時大学4年生であった工藤優花さんが卒論研究で取材したことで話題になり、ニュースでも取り上げられていたため有名かもしれない。下記記事から一例を引用してみる。

www.huffingtonpost.jp

 運転手は石巻駅で、30代ほどの女性を乗せた。目的地を尋ねると、大津波で更地になったはずの場所に行きたいと言う。その女性は夏だと言うのにコートを着ていたので、運転手が熱くないか伺ったところ、震える声で「私は死んだのですか」と返ってきた。驚いてミラーを見ると、後部座席には誰もいなかった……という。

 また別の運転手は、同じく夏の深夜に、小学生くらいの女の子を乗せた。家まで送ってくれという女の子だが、彼女も季節外れの厚着をしている。「お母さんとお父さんは?」と尋ねると、彼女は「ひとりぼっち」と答えた。目的地付近に着くと、女の子は「おじちゃんありがとう」と言ってタクシーを降り、その瞬間に姿を消した。

 工藤さんはこうした心霊体験が報告された理由を、以下のように考察している。

「私の主観では、生存者の無念の思いが大きいのかなって思います。自分の生まれ育った故郷がボロボロに破壊されて、家族や地元の人がたくさん亡くなったという事実ってすごく心の傷になると思うんですよ。しかも亡くなった人の多くは津波が原因ですが、地震から津波の到着までは、少し時間があります。生き残った人たちには『その間に助けられたはず』という思いがあるんです」

石巻のタクシー運転手は、なぜ幽霊を見たのか? 工藤優花さんが語る被災地の「グレーゾーン」

 その時本当に霊が居たのか否かは論点ではない。人の心の傷トラウマや受け入れ難い現実が、ひとつの物語として発露していることに着目したい。

 

 


 サイモン・マースデン Simon Marsden(1948-2012)というイギリスの写真家がいる。霊が出るとされている曰く付きの廃墟を、対象物が退廃的デカダン単色モノクロームで浮かび上がる赤外線写真で撮影する人だ。作品集は何冊も出ているが、邦訳されているのは『幽霊城』『悪霊館』のみで、最近になってようやくこの2冊を手に入れた。

 『幽霊城』の方は先日の堕獄祭に際して、視聴者様から頂戴したものである。改めてこの場をお借りして御礼申し上げます。

 廃墟があまねく好きで、従って当然マースデンの写真も好きで、手元に置いておきたく所望した写真集であったが、いざ頁を開いてみると写真の横にビッシリと建造物にまつわる怪談が記されていることに驚いた。さながら一種の「写真付きホラー小説」のような仕上がりだ。

 例えばブラム・ストーカーの吸血鬼ドラキュラのモデルとなったヴラド3世が、オスマン帝国との戦いの拠点としたポエナリ城をマースデンは撮影しているが(『幽霊城』に収録されている)、そこに添えられている説明文の一部を抜粋すればこうである。

イースターの礼拝の後、地主貴族やその一族200人がドラキュラ軍に捕らえられた。まず老人とその妻たちが町の城壁の上で串刺しにされた。若い者たちは鎖につながれて、60マイル離れたポエナリの廃墟まで荒野を歩かされた。ポエナリに着くまでに多くが死んだが、生き残ったものたちは幽閉された。」

────サイモン・マースデン『幽霊城』エディシオン・トレヴィル(2005)p.114

 この後も、ヴラド3世の残酷で猟奇的な逸話が延々と続いている。後年にかなり脚色されたとされている伝承のショッキングな部分ばかりを嬉々として並べるのは如何なものかという気もしないでもないが(ヴラドの暴虐はオスマン帝国からルーマニアを守るためだったとして、彼を英雄視する向きもある)、崩れかかった城壁や彼が葬られた修道院の薄暗い写真を見ていると、そうした妄想がとめどなく溢れて来ることも、また理解できた。

写真はマースデンの作品ではなくWikipediaより。

 くも廃墟の佇まいに心掻き乱される理由は、そこに儚さや無常の観を見出すからだろうが、では何故それを見出すのかといえば、ヴラド3世の逸話のように、そこでかつて営まれていたであろう生活や繰り広げられたドラマを追憶してしまうからだろう。

 この冷酷無情のワラキア公が、如何ほどにまで残虐行為を楽しんだのかは最早誰も知る由はないが、ポエナリ城の荒涼とした姿には思わず「もしかするとそんな物語も在ったかもしれない」という恐ろしいホラーな妄想を掻き立てられるし、そうした幻像を錯覚してこそ、ポエナリ城はその人にとって特別なものになりうる。

 人工的に作られた物がその瞬間に朽ちたとしたら、きっと同じような感慨は抱くまい。何故ならそこには一瞬たりとも、物語が生じる隙がないからだ。

 

 

 

 無くしてしまったものに、失われてしまったものに、思い出という物語があったから、例えあり得なくともその続きを想像してしまう。あるいはそれに、そこにどんな事件や顛末があったのだろうという物語をつい想像してしまうから、例えすでに滅びてしまった後だろうと、その存在は特別になることができるし、特別で在り続けることができる。

 滅びから生まれるものがある。それは特別な物語である。人はそれを空想ファンタジーや思い出と呼んだり、時に怪談と呼んだりする。そしてそれは、いつかは再び失われることを宿命付けられている、滅びに生まれついた物語であろう。

 祖母が怪奇現象でも引き起こしてくれたら、と想像した私も、いつかは滅びるように。

 

「私は亡霊の世界をさまよっていたようだ。そして私自身が夢の影のように思える」

────アルフレッド・テニソン『ザ・プリンセス』

第22書簡「狂犬に学ぶ死生学」

 犬が好きか、猫が好きか、と聞かれたら、犬だと答える。

 別段、深い理由はない。幼少期に住んでいた家に、ほんの通路程の幅ではあるが、遊蝶花パンジーだの鬱金チューリップだの君影草スズランなどが季節毎におずおずと花開いてみせる、およそ花壇と呼べるのではないかという庭があった。母が熱心に手入れをしていたのだが、隣家の猫が、毎日そこに小便を引っ掛けて行くので、今でも私の猫のイメージはあの強烈な安母尼亞アンモニア臭にまみれたままだ。

 私は一時まで、花なぞただの植物の珍妙な性器にすぎないと思っていたので第四書簡「花のエロティカ」参照)、猫の後ろ足で土を掛けられたおれた花を見たところで何の感も湧かなかった。しかしささやかな庭園の主であった母は激怒して、猫の侵入を防ごうと偏執狂の如く、刺の付いたマットを敷き詰めたりスプレーを撒いたりして、その躍起な姿は醜態極まりなかった。

 そして母の不機嫌のとばっちりは当然、娘である私に飛んでくる。母の理不尽な叱りを受けながら、猫の身勝手さを、随分と逆恨みしたものだった。それは日常に鬱屈と無言の反発を感じながらも小便を引っ掛け逃げ去る勇気すらなかった私の、一種の羨望でもあった。

dilettantegenet.hatenablog.com

 

 隣の一家は、野放図な猫たちだけでなく、大きなゴールデンレトリバーをも飼っていて、その犬は、家屋の脇にある暗くて狭い通路に閉じ込められていた。

 下校の最中にチョイと覗くと、濡れた麻袋のように混凝土コンクリートにへばり付いていたその犬は、あの目尻の下がった、どことなく寂し気な目でこちらを一瞥いちべつする。そして子供のぬか喜びのような幼稚な態度は決して見せず、あくまで「私は挨拶という礼節を重んじる者なのだ」という慇懃な足取りでこちらに歩み寄り、その湿った黒い鼻を、柵の間から丁重に差し出してみせるのだった。

 散歩の時以外、その陰鬱な通路に監禁されているゴールデンレトリバーの、哀れな黒い目に、当時は自身の不自由を重ねて共感シンパシーを覚えていた。そしてそのような環境に置かれながらも不満の表情を知らぬまま、混凝土コンクリートの上にジッと前足を揃えて明るい柵の外を見つめていた犬の姿が、今でも記憶に染み付いている。

 

 

 

 そうした幼少期の思い出に引きずられて、今だに猫には反感を覚えて、犬の方を何だか好ましく感じてしまう。あのゴールデンレトリバーがそうであったように、犬にはどこか、暗くて、哀しくて、うらぶれたイメージがある。

 そう言えばいつか私の知人が、かつて人生に行き詰まりを感じて自殺を思い立った時、頭に浮かんだのは、昔飼っていた犬の後ろ姿だったという話をしていた。

 「公園で散歩している最中に、犬のリードを離してしまって。ウチの犬、遠くに駆けて行った後に、こっちを振り向いて、立ち止まったんだよね。

 その姿がずうっと頭に残ってて、ああ俺、今すぐコイツがいるところに行きたいなァって、その時思ったんだよね」

 亡者が現世に逃げ出さないよう冥界ハデスで番をしているのは三頭犬ケルベロスだし、木乃伊ミイラを作り死者を冥界オシリスまで導くのは犬の頭をしたアヌビス神である。

 犬の持つ仄暗さにどこか優しさを錯覚するのは、それが死に近いものであるからかもしれない。

頑張って番犬してるけどオルフェウスの琴の音でスヤスヤ寝ちゃう、キュートなケルベロス
アゴティーノ・ヴェネツィアーノ《オルフェウス》(1528)

 

 

 

 先日、雑司ヶ谷鬼子母神に、唐組の第71回公演『透明人間』を見に行った。

 二次大戦中、中国の福建省で軍用犬の調教師として従軍していた合田という男は、「時次郎」と「モモ」という愛犬をそれぞれ従えていたが、二匹とも不衛生な戦地で狂犬病に罹患し、行方知れずになってしまった。戦後、合田は新しく出逢った犬にまた「時次郎」と名を付けて可愛がり、辻は福建で出逢った売春婦に「モモ」と名付けて、慎ましやかな生活を送るようになった────

 そうした背景バックグラウンドを持って、物語は小汚い焼鳥屋の2階で幕を開ける。街に狂犬病が出たと聞いて駆けつけてきた保健所の役員・田口(役:奥田優)と、合田(役:久保井研)、亡くなった辻の息子(役:稲荷卓央久)、そして焼き鳥屋の従業員である少女「モモ(役:大鶴美仁音と、かつて辻にそう呼ばれ愛された女「モモ(役:藤井由紀)が一堂に会して、それぞれの思惑が濁流のように混ざり合ってゆく。

 それは水と、水に浮かぶ水中花と、水を怖がる────つまり狂犬病に罹った犬と、犬の代わりに愛された女の物語である。

karagumi.or.jp

 

 唐十郎の戯曲はいずれもそうではあるが、今回も書かれた当時の社会情勢や、歴史的背景を抑えておかねば少し分かりづらいだろう。

 まず大戦中に、警備や伝令などの任務を負って、何万頭もの犬が軍用犬として中国大陸に出征していったことを知っておかねばならない。しかし新たに台頭した近代兵器を前に畜生などあまりに無力で、犬の殆どが戦死し、病死し、厳しい食糧不足の中、貴重な蛋白源として人に喰われた。

 そして1950年代までは、日本でも多くの犬や人が、狂犬病に感染して死亡していたことも、把握しておかねばならない。(1957年以降は狂犬病の国内感染は発生していない)

sippo.asahi.com


 作中、狂犬病に感染していないのなら恐れずに水に潜ってゆけるはずだと、軍用犬「モモ」は、石を括り付けた天竺牡丹ダリアを投げ込んだ沼に放たれた。しかしモモは水面を犬掻きするだけで、一向に沈んだ花を咥えようとしない。今にも銃殺の判断が下されそうになったその時、辻は冷たい沼に飛び込んで、降りしきる雨の中、死にも狂いでモモを逃がすのである。

辻の息子:「親父は沼に飛び込み、モモの足を持って水底深く潜っていった。水底のダリアをつかみ、それをモモのくわえさせると、

 『浮かんで、行け、どこまでも逃げて行け。そして、また会う時、この水中花の誓いを忘れるな。おまえがもう俺を忘れていても、俺はまた、この水中花に似たものを、おまえにかざそう。そしたら、きっと俺と思え』

 と浮かび上がって、さあ行けと、その体を岸に追い立てた。水中花をくわえながら走り去る犬が、峠の下で一度、振り向く。

 その顔に犬のほほえみを見たと、親父は言った!」


 それはまさに、かつて自裁を決意した私の知人の脳裏に浮かんでいた光景ではなかったか。人の絶望と犬の狂犬病の間には、水いらずの・・・・熱い絆がある。唐はそれを、本作の中で辻の息子にこう喋らせることで説明している。

辻の息子:「ネズミはネズミ、人間は人間だ。が、それが共に一つの感受性を分かちあうことがある。そのつつもたせをやったのはノミだった。

 しかし、忘れるな。そのペストがあったからこそ、人間とネズミは共に震えることができたんだ。その一点において、人間とネズミは、同じ感受性を持ち得たと言えるだろう。

 ネズミが嫌なら、もっといい例もある。それはほれ、いまだ菌の分からん恐水症よ……」

 芝居を観ながら、私はいつか狂犬病の予防接種をしたことを、少し後悔したのだった。

 

 

 

 狂犬病の予防接種をしたのは、インドに渡航することを決めた際だった。

 インドは現在でも、狂犬病による犠牲者が世界で最も多い国だ。街中どこにでも野犬がおり、そして野犬を初め、野良猫や猿、栗鼠リスや蝙蝠などに狂犬病ウイルスを保有した個体がうじゃうじゃいる。よって旅行者は狂犬病の予防注射を打ってから渡航することが極めて推奨される。もし狂犬病に罹患して発症すれば、100%死に至る

インドでは殺生が忌避されるため、野放しになった野犬がそこらじゅうにいる。

 インドの野犬は、意識が耳の穴から溶け出てしまいそうな灼熱の日中は、路上の方々にへたり込んでいる。目を瞑って微動だにしない犬も多く、顔に纏わり付く蠅すら払おうとしないので、一瞬死んでいるのか生きているのかさえ分からない。実際、何匹かは野垂れ死んでいただろう。

 路上に点々と染みを作っている、汚れ乱れた毛並みがくっきりとあばらの形に浮いた、痩せた、ボロ雑巾のような犬。それに憐憫の情を感じるのは、犬の生き様を侮蔑し、人間は哀れなケダモノではないと驕慢な勘違いを犯している者だ。飢え、傷付いて、それでも人に情けを請わず、そのみずぼらしい体躯を堂々と白昼に晒して見せる野犬の毅然たる態度に、私は無頼の犬儒学派キュニコスの神髄を見た。それはガンジスのほとりにいるどんな行者サドゥーよりも偽りのない、威厳ある姿だった。

ja.wikipedia.org

 

 そんな野犬たちの様子は、比較的涼しい夜間になった途端に豹変する。

 餌を探して鬣犬ハイエナのごとく勇ましく街を徘徊し、縄張りという尊厳プライドを賭けて、そこいら中で熾烈な闘いが勃発する。早朝にバイクタクシーを拾おうとした私は、きっと彼らの縄張りに侵入してしまったのだろう、数匹の野犬に襲い掛かられた。

 あの時ほど身体中の毛穴が開いて、臨戦の興奮というものを覚えたことはそうない。そこで肩を怒らせ対峙しているのは、犬と人間ではなかった。1匹と1匹の、対等のケダモノの睨み合いが、そこにはあった。

 周囲をくまなく威嚇して吠えしきる犬を脅し、脚に噛み付こうとする犬を蹴り飛ばして、通りかかったバイタクシーに飛び乗り何とか事なきを得た。実際1度隙を見せてしまい大腿部に噛み付かれたのだが、硬い布地の服筒ズボンを履いていたために、無傷だったことはまこと幸いであっただろう。

 興奮冷めやらず肩で息をしながら、ひんやりとした朝霧の中を軽快に突っ切ってゆくバイクタクシーに揺られつつ、私は一種の感動を覚えていた。私はあの路上の貧しい賢者である犬と、初めて同じ土俵でやり取りをしたのだ、と。

 猫ならこうはいくまい。人間より脆弱であることで、ホモ・サピエンスとの生存競争を忌避した動物には、知恵はあっても美学がない。あの時の野犬は私を思いっきり噛み殺すこともできただろうし、またその鋭い犬歯から私の皮下へと恐水症を伝染させて、私を狂死させることもできただろう。同時に私も、道端の石を振るっていれば、あの犬を撲殺することができただろう。

 犬に教わった、死を賭けた仄暗い公平性。その美しさに私は心打たれていた。

 

 

 

 何の意味も益ももたらさない野垂れ死にを「犬死いぬじに」という。概してネガティブな意味で用いられる言葉だが、「犬死いぬじに」ほど崇高な死に方もそうないものである。人や社会のお役に立つという大義の外で、ぽつねんとこと切れることができるなら、そんな自由で気高い死があるものだろうか。それは自らの死を、誰かの感傷や世の中の美談として勝手に消費させることを許さない、死を自分だけの揺るがぬ事象とする、毅然たる最期である。

 狂犬病という美学を体内に秘めて、暗い優しさをもって、犬は、いつもそのことを教えてくれるような気がしている。

『老いた羊飼いの死を悼むシェパード』エドウィン・ランドシーア(1837)

第21書簡「ジュネ・サヴァランの珍食礼賛」

 食べることが好きだ。もしこの胃袋が一杯になることを知らなかったなら、この身体が愛する洋服たちのための人形マヌカンでなかったなら、私は止むことなく口に物を運び続けているだろう。

 何処で読んだか記憶が曖昧だが、他人の胃袋を借りて食事をする創り話がある。

 ある処に食べることが人生の何よりもの愉しみである貴族がいたが、老齢になり内臓の具合も芳しくなく、昔のように思う存分食事ができなくなってしまった。そこで彼は、明日の生活にも窮している貧しい男にこう持ち掛ける。

「君の衣食住の一切を保証し、報酬もたんまりと弾む。その代わりに、食べることが何よりもの至福であるこの老いらくの胃袋になってはくれまいか。なに、何も難しいことはない。私が味わい、嚥下えんげしたものを、代わりに消化し排泄してくれれば良いだけのことなんだ」

 胃袋が頑丈なことだけが取り柄だった貧しい男は、欣喜雀躍きんきじゃくやくとしてこの申し出を受け入れる。今後の生活の一切が心配無用になるどころか、美食家である貴族の贅沢極まりない献立メニュウを毎日味わうことができるなんて!

 だが、いくら貴族が豪勢な料理を口にしようと、男は自身が咀嚼しているワケではないのでその美味を享受することはできなかった。貴族が呑み込んだ後の、一体それが何だったかも分からない半固形物が胃の中に流れ込み堆積していくだけである。空腹に悩まされることがなくなったと安堵したのも束の間、際限なく食べ続ける貴族のお陰で次第に消化が追い付かなくなり、体調不良に悩まされる日々が続き、男は最後には仕事を投げ出してしまう……というような御話。

 こんなことが現実に出来たならどんなに良いだろう、と空想する。食べることの弊害は、腹が膨れることだからだ。

 

 

 

 私は多種多様な味、調理の妙を舌という口腔器官に出来る限り記録し、その料理の背景にあるやんごとなき地理的事情や、生存の必要と不必要な享楽の合間を行き来する歴史の浪漫ロマンに、美酒がもたらす極上の酩酊の如く酔いたいのである。この飽くなき食欲は脳髄の空腹のためにあるのであって、間違ってもこの鈍間のろまな胃袋のためではない

 もし時代と環境が許したのなら、きっと羅馬ローマの貴族の如く、吐くために食べ、食べるために吐き続けていただろう。だがその前に立ちふさがる時間と金銭という大きな障害が、未だに私に頽廃の饗宴を許さない。何より元が貧乏性だから、せっかく摂取したものを土に還すなんて、といささかの躊躇ためらいいがある。常日頃「精神の貴族」を自称する者としては、何とも情けないやら、ケチ臭い内実である。

3~4世紀頃のモザイク画。卓を囲んで寝そべり、床を散らかしながら饗膳を貪っている。ちなみにローマの貴族が吐きながらも食べていたというのは後世のキリスト教社会ででっち上げられた俗説。

 

 シラノ・ド・ベルジュラックの『月世界旅行記』では、月に行った主人公がそこの住人にもてなされるのだが、一向に饗膳が運ばれてこないので訝む。すると住人が「ここでは空気を頂くのですよ」と言うので、試しに指図された通りの作法で空気を味わってみると、それは清々しい香気のような味わいがしたと歓喜する。

 私はこれさえ羨ましくて仕方がない。地球で呼吸するたびに、窒素ニトロゲンの円熟したくや、酸素オキシゲンの湯がいた馬鈴薯のような素朴な風味、炭素カーボン阿蘭陀オランダ水のような爽やかで澄んだ甘味、アルゴンの炒ったばかりの香辛料スパイスのような鼻腔に抜ける香ばしさなぞがしたら、どんなに愉快で嬉しかろう!

 それに空気ならどれだけ貪っても胃袋が満杯になることはない。願ったり叶ったりである。

 毎日一冊の本を読み終えてもこの世の全ての書籍は読破できないように、毎日違う献立メニュウを心掛けても、ホモ・サピエンスのたかだか数十年の蠅の如き惨めな生涯では、この世に存在する滋味の全てを味わい尽くすことはできない。一日三食ではまるで足りないのだ。

 寸刻を惜しんで食べ続けて、ようやく現存する料理の僅かな一部を堪能したに足ると言えるかどうか……きっととても言えないに違いない。少しでもそう思ってしまったのは、私の知り得る世界がまだあまりに狭いからだろう。動物は餌の皿に顔を突っ込むと、周囲が何も見えなくなるものである。

 

 

 

 最早失われた珍味のことを思うと、銀食器具カトラリーを────否、ここは西洋がらず箸にしておこう────箸を噛んでへし折ってしまいそうなくらい、もどかしくて堪らなくなる。例えば古代日本で食べられていたなどは、その妙味が気になって仕方がないひとつである。

 「蘇」の製法と分量について確認できるのは、平安時代律令をまとめた『延喜式』や政務のイロハを事細かに記した『政治要略』の中の、「作蘇之法、乳大一斗敗、得蘇大一升(蘇の作り方は、乳大一斗から蘇大一升を得る)の一文のみという。あとは中国の『斎民要術』や『本草綱目』等に「」の作り方が記載されており、これらを鑑みるに、牛乳を長時間煮詰めて濃縮した食品であるということはひとまず合致するらしい。

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www.jstage.jst.go.jp

 

 700年からは文武天皇の指示によって諸国より宮中へ「蘇」が貢納されるようになり、平安貴族たちの修正会しゅしょうえ修二会しゅにえ大饗おおあえなどで振る舞われた他、薬餌やくじ神饌しんせんとしても重宝された。酪農が一般的でなかった古代日本においての、珍しく高価な珍味であったのだ。

 嗚呼、いにしえの貴族のみが口にできた失われし味!

 そんなことを言っていたら、去年、復元された「蘇」を土産物に頂戴する機会があった。

 素朴な甘みと、奥歯の間で崩れて溶けるような食感。チーズともバターとも違うえもいわれぬ品の良い風味に陶然としながら、やはり脳髄の空腹は満たされなかった。何故なら、我々が現在飲用している牛乳はホルスタイン種の牛から搾取したものであるが、「蘇」が作られていた時代、日本にホルスタインは居なかったからである

 当時日本で飼育されていた牛種、「蘇」の精製に使用された牛乳の成分含量が現時点で分かっていない以上、やんごとなき上達部かんだちべたちが舌鼓を打っていた「蘇」の本当の味というのは、未だに乳白色の薄絹ヴェールの向こうなのだ。

 もしタイムスリップができたなら、私はその時代ならではの食べ物を片っ端から口に放り込んでいくに違いない。味覚の記憶が増えることこそ、「食べること」の醍醐味である。そしてそうやって「知る」ことこそ、人の何よりもの快楽ではないか。

 

 

 

 フランスの法律家で、『美味礼讃』を刊行し美食家としても知られたジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランは、このような有名な言葉を残している。

君が普段食べているものを教えてみたまえ。君がどんな人であるか、当ててみせよう。

Dis-moi ce que tu manges : je te dirai ce que tu es.

 これはまさに金言と呼ぶべき言葉で、その人が普段食べているものを聞けば、何となくその人となりが想像できるのである。ちょうど、どんな本を読んでいるかを聞けば、その人の素養が想像付くのと同じだろう。

 ここで、一等ホテルで連日豪奢なフレンチや風雅なイタリアンを口にしている者は上品で好ましく、四畳一間で日々インスタントラーメンを啜り糊口を凌いでいる者は低俗で卑しい、というような判断ジャッジングをするのは全くナンセンスである。

 上記のような2人を挙げた場合、前者は富む者で、後者は貧する者であるということは確かに分かるだろう。それも勿論「どんな人であるか」の要素のひとつではあるが、その人の本質とはまるで関係のない、あくまでその時点での金銭事情にすぎない。

 私ジュネ・・・・サヴァランがジャン・サヴァランの言葉に少し注釈をさせていただくとすれば、「普段食べているもの」以上に「普段どのように食事の選択をしているか」が、その人の性質を最も分かりやすく暗示している。

ブリア=サヴァラン(1755~1826)

 

 「実際に普段食べる物」は諸般事情に左右される。しかし「今、そして普段食べたいものの選択」は、例え実現しなくとも、その人なりの欲求と思想に貫かれたものであるはずだ。そしてその選択には、美学がなければならない。美学とはこれまでに培った見聞、経験に裏打ちされた、その人独自の精神論のことである。間違っても「夜景のキレーなレストランで、ドレスを着て、赤いバラが飾られてて、白い布が掛けられたテーブルで、なんか美味しいおニクと、高いワインを飲んでたい」という痴呆のブルジョアぶりままごとのことではない。

 かの森茉莉も「金を使ってやる贅沢には創造の歓びがない*1と看破している。これが生まれながらの貧乏人の卑屈ではないところが心強い。これに共感している私は貧乏人の卑屈である。

 念のため補足しておくと、森茉莉はかの文豪・森鴎外の娘で、蝶よ花よと溺愛されて育ったお嬢様であったのだが、戦後一人暮らしを始めてからは生活の貧苦も随分と経験した人である。そのような中、高価なものを買える贅沢よりも、精神が贅沢であることの方がよっぽど重要であるという信念に至り、その独自のユニークな審美眼や美的センスは彼女の『贅沢貧乏』といったエッセイ群から窺い知ることができる。

 彼女の「貧乏サヴァラン(全集ほか、本エッセイを表題に様々な食事にまつわるエッセイを纏めた『貧乏サヴァラン』で読むことができる)では、「マリア森茉莉のこと)は貧乏な、ブリア・サヴァランである」と、赤貧の中でも、自分の味覚に絶対に妥協できない日々の七転八倒が綴られている。

 夜用の即製冷紅茶のためには、大きな角砂糖くらいに切った、昔ながらの氷の味がするダイヤ氷がなければならない。

 朝は必ず手製のサンドウィッチを食べるが、具材は鎌倉ハム牛酪バタ、固茹で卵、トマトはこしまきの如き赤いのではなく、玲瓏玉の如き薔薇色がかった朱色のもの、玉ねぎの涙の出るような薄切り、マヨネエズと辛子に塩胡椒。

 刺身は鯛より平目。

 ビスケットは上等の粉の味の中に牛乳ミルク牛酪バタの香いが仄かに漂い、彫刻のように彫られている羅馬字やポツポツの穴が規則正しく並んでいて、カッチリ固いくせ、噛むと細かな雲母状の粉が散って、胸や膝にこぼれるようでなければならない。云々。

 高価な食材を選択することが本質ではない。その選択が如何なる美学に基づいており、それがどれほどの強度で、または柔軟性を持って貫かれているのか、いないのかが「その人がどんな人であるか」の本質なのである。

 

 

 

 私の選択の規則ルールはこうだ。食べたことのあるものより、食べたことのないものを選ぶ。食べたことのないものの中では、ある程度味の想像が付く国内の料理よりは、まるで想像の付かない海外の料理を選ぶ。それが例えゲテモノだろうと躊躇は許されない。

 素朴な素材に、思う存分香辛料スパイスを効かせたものが好みだ、香辛料スパイスの調味の数だけその後ろに豊かな文化がある。

 牛肉は旨味すべて平らげられるよう、骨付きで煮込んでいる方が好ましい。ターリーとシャシリクは傷だらけのスレンレス皿で食したい。アブサンは甘ったるすぎてはいけないし、大きすぎる高杯ではなく、人差指と親指で摘めるくらいのリキュールグラスで呑むのが好ましい。ウゾやアラックはアブサンより旨い。それらに関しては、粗雑で荒々しい味わいである方が良い、羊肉ラムと良く合うからだ。

 牛乳ミルク牛酪バタの効いた洋菓子よりは、山羊の乳と開心果ピスタチオをふんだんに使った中東の菓子を愛している。インジェラとダボが、世界で最も美味しいパンだという信念は未だ揺らがない。

 刀削麺は包丁を奪われた庶民が刀で麺を切ったという伝承通り、削ぎ落したような不揃いな切り方でなくてはならない。茘枝ライチ楊貴妃のために血を吐いて死んだ馬に微笑みながら、自ら皮を剥き指先を濡らして官能的に食さねばならない。

 紅茶はMARIAGE FRERESマリアージュ・フレール。定番のマルコ・ポーロと、香辛料スパイス薫るアレクサンドラ・ダヴィッド・ネールは台所から切らしてはならない。しかし目が覚めている間じゅう紅茶を飲んでいる私の生活では茶葉の消費量が馬鹿にならないので、普段使いはTWININGSトワイニングで我慢。ただしTWININGSトワイニングアールグレイだけは飲めたものではないので、それだけFAUCHONフォションHARNEY & SONSハーニーアンドサンズなどで代用してもヨシとする。珈琲はあまり飲めないが、気まぐれで老舗喫茶で注文した際に、景徳鎮など中華趣味の陶磁器で出されると大変喜ばしい。間違っても無骨なマグカップで飲むことはしない。云々。

 

 

 

 ……食べることは確かに好きだけれど、こうして書いてみると、私はやはり味覚の記憶を増やしたいだけなのだという気がして来る。驚異の部屋ヴンダーカンマーに世界中の珍品を蒐集するように、古今東西の珍しく美しい味を、舌の記憶箱に目一杯に詰め込んでいくこと。その望みのためだけに、食欲は濛々と湯気を立て温泉の如く無限に湧き出てくる。これは多分、美食家でも健啖家でもあるまい。結局、「好事家」なのである。

 嘉肴かこうありといえども食らわずんばその旨きを知らずという『礼記らいき』の教えがある。

 聖人君子の道も学ばなければその難しさと素晴らしさを解すことはできないし、大人物も実際に用いてみなけければその器量を計ることはできない。だから何事もまずは実践してみるべし、という教訓なのだが、私はこれを日々文字通り、「御馳走があっても食べてみなければその美味しさは分からない」という意味で乱用している。

 健康法だか痩身法ダイエットだか知らないが、食べ控えるなどもっての他である。羅馬ローマの貴族の如く吐くまで、否、精神の貴族として死ぬまでは、食べうる限り食べねばならぬ。人として生きることとは、死骸を切り刻み貪り喰らうことであるが、同時に「知ること」の悦びを知ることでもあるはずだ。

 食べることとは「知る」ことだ。だから我々は、胃袋ではない────脳髄の空腹を満たすたびに、食べなければならない。

 

*1:森茉莉 作、早川暢子 編『貧乏サヴァラン』ちくま文庫(1998)p.39

第20書簡「悪魔の人生論」

 昨日3月30日は、90年代の終わりに「ネットアイドル」として注目を浴びた南条あやの命日だった。

 彼女は「精神を病んだ私」の徒然つれづれをインターネット上にあけすけに綴り、そのポップで巧みな文章力と屈託のないキャラクターで一部のネットユーザーから絶大な支持を得ていたが、1999年に向精神薬の過剰摂取によって、18歳でこの世を去った。

 南条あやの名を今尚取り上げることについては、賛否両論がある。肯定的な意見は主にこうしたものだ。彼女の文章テクストの秀逸さや特異さは語り継ぐべきものである、インターネット黎明期に登場した「ネットアイドル」という奇妙な存在はインターネット史を省みる上でも触れられてしかるべきだ、云々。一方否定的な意見は、彼女の遺稿の中にある以下の詩を引用して主に展開される。

『名前なんかいらない』

起きなくてはいけない時間に起きて
しなくてもいい仕事をして
名前を呼ばれるなら
誰にも名前を呼ばれたくない
何もかもを放棄したい
そして私は永遠に眠るために今
沢山の薬を飲んで
サヨウナラをするのです
誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが
私の最後の望み

 南条あやの遺稿をまとめた書籍『卒業式まで死にません』にも収録されているこの詩を引用して、彼女は亡くなった後は決して誰にもその名を口にしてほしくはなかったはずだとする意見がある。しかし私は、この言説には懐疑的な立場だ。

 南条あやという少女は、通院の過程で医師より「境界性人格障害」の診断を下されている。これは適切な自己愛や自己イメージを育めなかった結果、情操や対人関係に問題を生じ、 自傷行為や自殺企図といった過激で衝動的な行動に走る病で、実際に南条あやも日常的にリストカット瀉血を繰り返していたことが、彼女の日記から伺える。

 そこには現実存在である「鈴木純(「南条あや」はネットで活動する上でのPNペンネームである)の混乱した自己イメージや低い自己肯定感が見て取れるが、それとは鏡合わせのようにして、彼女はネット上で「南条あや」として積極的に自己発信をしていた。彼女が本当に誰にも関心を持たれず、省みられることも望んでいなかったのなら、これほどにまで熱心に、しかも仔細まで「自分」が如何なる存在であるかを公に綴らなかったはずだ。

 確かに彼女は「誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが 私の最後の望み」と書いた。しかしそれは彼女自身というより、彼女の自己肯定感の低さが書かせたものであり、反対にその胸中で高じていた狂おしいまでの承認への欲求を見逃してはならない。彼女の「他者の眼差し」への渇望は、看護師や患者が常に「構って」くれていた閉鎖病棟を彼女が「天国のような場所でした」と表現していることからも明らかだ。「鈴木純」という少女の名は静かに看取るべきでも、死の数日前までネットの片隅で存在を叫び続けた「南条あや」の名は、忘れられるべきではない。それが、批判を覚悟の上で、私が彼女を動画で取り上げた理由でもある。

「人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死」

 

 

 今月中旬、大阪のロフトプラスワンで「好事家ジュネのサブカル病理学」と題してトークショーを開催した。去年9月のトークショーの倍近い方々にお越しいただき、その分多くの視聴者と言葉を交わしたことで、私自身様々な気付きや学びを得た。現地にお運びくださった皆様へ、配信でお聞きくださった皆様へ、この場で改めてお礼申し上げたい。

www.loft-prj.co.jp 「病理学」とタイトルした通り、当日は、我々の心の「病み=闇」が生じる原因、そしてその処方箋としての文化の有用性を主軸とした話をした。「病み」の実態は多種多様ではあるが、何らかの背景原因によって「自分を肯定できない」ことに苦しんでいる状況は分かりやすい例だろう。実際私のトークショーの現場でも、今現在の自分を肯定できないことに悩んでいるという観客が何人か見られた。

 こうした懊悩を目にするたび、また自分自身もそのような心境に陥った時、私の脳裏にはいつも、二階堂奥歯の鋭い一文がよぎる。

「私は生きていることに絶望などしない。なぜなら希望を持っていないから。それは生を悪いものとして低く評価しているということではなくて、評価をしていないということである。生を呪うのは裏切られた者だけで、そして裏切られるのは信じていた者だけなのだ。」

────二階堂奥歯『八本脚の蝶』

 肯定できない自分に絶望するのは、肯定できる自分がどこかにいるはずだ、あるいは肯定できる自分になりたいという、希望と期待があるからだ。その夢は勿論、若かりし頃の私にもあった。しかし今、南条あやのみならず、二階堂奥歯の年さえ追い越してしまった私が感じるのは、そうした脆く生暖かい幻想こそ、苦しみの最たる元凶なのではないかということだ。

 我々は皆、両親の選択の下にこの世に存在することを押し付けられた、意識を持つ肉塊である。我々の両親もまた、その両親もまた、然りである。

「きみの父親はきみの母親を抱いたとき、きみの意思を訊ねただろうか。彼はきみにこの今の時代を見たいか、あるいは別の時代まで待つかときみに訊ねただろうか。またきみが愚か者の子に生まれても我慢するか、あるいは立派な人物の子に生まれたいという野心があるのかと。なんたることだ。きみこそが、このことに関わりのある唯一の人間関係だのに、きみだけが意見を聞いてもらえなかった唯一の人間なのだ。」

────シラノ・ド・ベルジュラック『日月両世界旅行記』赤木昭三訳

 

 その「気付いたら存在していた」だけの細胞の集合体に、果たしてどれほどの価値が生じるだろうか。「存在し続ける」ことに付加価値が生じることは仮にあっても、今この瞬間に「存在すること」に一切の自由意志も意志決定も許されなかったという事実そのものに、楽観的ポジティブな意味合いを見出すことは可能だろうか。それは悪魔の証明だ。ないことは証明できないが、あることの証明もまた、主観的な人生観を語る他ない。

存在しないよりは存在するほうがましだ、ということを証明するいかなる方法もない。

────シオラン『悪しき造物主 』金井裕訳

 

 ただ遺伝子が乗り捨ててゆく舟として創造されただけの個体に、もし「人間的な」意味や価値を発見したいと願うなら、それはその個体が「どうあるか」ではなく「何をしたか」という点に求めるべきだろう。地位も性自認も職種も病名も、自己紹介の際に多少便利な名札にすぎない。重要なのは我々が何者であるかではない、我々が成した仕事の如何なるかだ。この「仕事」とは、職業や金銭を稼ぐことを意味しない。大なり小なりの影響を現実世界に及ぼす動作全てを指す。

 それは英雄の偉勲であり、赤ん坊の束の間の微笑みである。

 賢者の書であり、為政者による民衆の虐殺であり、毎日花に水をやることであり、食前で手を合わせることである。

 貴方が今この画面をスクロールしている、その他愛もない仕事さえ1秒先を無数に分岐させ、仕事の無数の積み重ねはのちに歴史や文化と呼ばれるようになる。それは生涯をかけた作品作りに似ている。仕事="work"の語源は「動作する」ことを意味する古英語”weorc”だが、もうひとつ、何かを作ることを意味する古英語"wyrcan"も元にあるという。だから”work”という単語は「仕事」のみならず「作品」をも意味する。

 なれば、存在する意味や価値を渇望する者は、「どうあるか」────自身が価値ある作品になろうと足掻くのではなく、「何をしたか」────個人の歴史や文化慣習といった名もない無形の作品・・・・・・・・・を遺す仕事に注力すべきだろう。ビジネスで成果を残せということでも、作家や芸術家になれということでもない。自身の「仕事」────つまりあらゆる動作に、常に意識的でいるべきだということだ。

 そうして意識的になって、人は気付くだろう。自身の言動に価値を求め続けることの虚しさに。

 

 

 

 そもそも、自分存在が無意味で無価値であったところで、一体それの何が問題なのか。本当に病んでいるのは、人間は無価値だと断定することではない。人間には価値が付与されねばならないとする教育と思想の方だ

 そんなものが天から与えられなくとも、「私」の造物主たる両親に有難く説いていただかなくとも、我々は今日も豚のように餌を貪り糞をして、痴呆のように眠るだろう。この心臓は早馬のように脈打ち、血潮は四肢を懸河けんがの如く駆け巡り、肺からはしきりに汽罐ボイラーの如く灼熱の蒸気が吐き出されている。価値などという御大層なものを頂戴しなくとも、イヤになるほどに我々は生きていられるのだ。

 ここで「すなわち存在すること、生きることは無価値である」という極論で終始するのはナンセンスだろう。私は前回の記事で、既成概念を疑った結果、非生産的な虚無主義ニヒリズム冷笑主義シニシズムに陥って自己批判性を失った前時代の幼稚さを批判している。

dilettantegenet.hatenablog.com

 

 すべては無価値、ではない。価値あるものはこの世に確かに存在する。それは己が「自らの意志と選択で」価値を付与したものの先に見える

 世間で有難いとされているから有難がるのではない。ネットで面白いとされているから面白がるのではない。私が素晴らしいと豪語しているから賞賛するのではない。またその価値付けは、ただの細胞分裂の結果にすぎない「私」という肉塊に与えられるものでもない。

 卑しい自身の獣の嗅覚と魂の感性で選び取ったもの、そしてそれを通して見えて来る、非物体の、しかし揺るがぬ究極の「永遠の実在イデア」……これこそが絶対的な価値である。我々はそれに、文化や芸術という媒介物を通して時折触れることが叶う。

ラファエロ・サンティ《アテナイの学堂》
中央左がイデア論を説いたプラトン

 例えるならば、私にとっての「永遠の実在イデア」とは、「暗く悪しく美しい」と形容するほかない絶対美である。私はそれを、様々な書籍を通して、映像を通して、絵画を通して束の間垣間見る。この遠くの真なるものを覗き見る望遠鏡テレスコープとして、全き別次元に移行ワープする幻覚剤エンセオジェンとして作用する書籍や映像や絵画といった「作品」を、私は低俗ではあるが完全な自由意思によって選択する。もし意味や価値というものが生じることがあるとすればそうした「自らの意志による選択」というはたらき────すなわち「仕事」にこそそれは生まれるだろう。私「好事家ジュネ」が今貴方の見ている画面の向こうに存在していることや、私が「好事家ジュネ」であることには、何の意味も価値もない。

 

 

 

 以前、私はこのようなツイートをした。

 これに対して、「カルチャーを楽しむこともまた人生ではないか」という反応を受けた。私はこの、人生という陳腐な尺度の中に何もかも包括してしまう考え方を否定する。

 「人生」という概念は、ものの見方を独我論エゴイスティックに歪める視野狭窄の罠だ。一度その概念に囚われると、自在であるはずの生は辿るべき直線的な道として捉えられ、美しい死は悲劇的な最終地点にすぎなくなる。日々起こる様々な興味深い事象は、計画されたものであったかそうでなかったかのどちらかでしかなくなり、何が早すぎて遅すぎたか、何が今相応しく相応しくないかという、対立した二項でしかものが考えられなくなる。仕舞には、自身の人生という履歴に価値があるのか、辿ってきた道程に意味はあるのかという、不要な懊悩が際限なく生まれてくる。

 「人生」という物差しで物事を考えている限り、社会の荒波の中で生命維持を続けることはできても、想像力で時も場所も無限に飛来することができる「としてきる」ことからは永遠に不自由になる。

 我々は気が付くとここに存在して、今この瞬間にもたまたま存在しているだけの一物体にすぎない。大いなる森羅万象の前に、刹那よぎったかもしれない小さな影法師にすぎない。そんな矮小な尺度────つまり人生という狭い視野から全てのものを推し量っても、浅ましく不毛なだけである。

「私たちはたえず遇有を実体ととりちがえ、結果を原因と、手段を目的と、私たちの船を永住の家と、私たちの体や知性を私たち自身と、私たち自身をなにか永遠のものととりちがえてしまうのです」

────ルネ・ドマール『類推の山』巌谷國士

エティエンヌ・クルノー Étienne Cournault によるドーマルの肖像画

 

 

 

 自分を肯定できないのは、肯定する必要もないもの(「肯定できないもの」ではないことに注意)に無意味に延々と向き合っているからだ。もし「自己肯定」という行為が可能ならば、それは「そうせざるを/ならざるをえなかった」結果としての現状を客観的に認識し、諦め、受け入れることだろう。「肯定できる新しい自分」になれる未来など存在しない。何故ならその「肯定できる新しい自分」は、今の自分とは違う「他者」だからだ。新しい自分を肯定しても、今思い悩んでいる自分自身を肯定したことにはならない。

 私は冒頭で南条あやに触れたが、彼女の悲劇性もここにあろうと思われる。彼女は「南条あや」としてネット上に多数のファンを獲得したが、その活躍は鈴木純という現実の少女を肯定したことにはならなかった。もし彼女が自身を肯定できた未来があったとすれば、それはネットアイドルとしての栄光とは切り離されたところで、彼女が現実の自分と、自分を育んできた環境を赦せる未来だ。しかし赦すことは、とても辛く苦しい。その行為も一種の自己否定だからだ。だから斯くも辛く苦しいのなら、自己肯定なぞ無理にする必要もない。

 これは虚無主義ニヒリズムではない。人間や人生などという卑小なものではなく、それらとはまるで関係ないところで永久とわに存在し続ける無限の知と美にこそ価値を見出すべきという、生きる基軸の置き所の話である。希望も期待を諦めた者のみが、この地獄を────現象界を生き抜けるだろう。同時に我々は地獄にいるからこそ、天国の────自身が「永遠の実在イデア」とするものの美しさを解することができるだろうし、その絶対的価値もまた強く信じることができるだろう。

 

 『神曲』の中で、ダンテが詩人ウェルギリウスに導かれくぐった地獄の門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.」と記されていた。

 それは、かつて我々が通った産道であった。

ウィリアム・ブグロー《地獄のダンテとウェルギリウス

第19書簡「さらば、90年代」

 先日2月16日、新宿のロフトプラスワンで開催されたトークセッション「90年代サブカルチャー大総括〜鬼畜系とは何だったのか〜」にゲストの一人として出演させていただいた。90年代の露悪的で非道徳な「悪趣味ブーム」の振り返りや、そしてそのサブジャンルとして先鋭化した「鬼畜系」の仕掛け人となった青山正明村崎百郎についての再評価が当時の経験者や批評家らによって行われ、こうした過激な文化が時代的にも取り上げ辛くなっている中、少しでも過去の清算を試みることができた夜になったのではないだろうかと感じている。あの場にお呼びくださった鴇田氏に、改めてお礼を申し上げたい。

t.livepocket.jp

 私は青山や村崎の著作を、発行から20年近く経ってから読んだ世代であるが、初めて頁を開いた時に感じたのは「こんなことを書いてしまって、こんなものを読んでしまって良いのだろうか」という躊躇ためらいだった。例えるならそれは成人漫画を初めて開いた時のような戸惑いに似ているかもしれない。

 次に胸中に湧き起こったのは、無法者アウトローによって社会の偽善が暴かれていく様を眺めるような「小気味良さ・・・・・」であった。特に村崎百郎に対しては、あの強烈なキャラクター性も相まって、とりわけ反英雄アンチヒーローパンクロッカーのような偶像をかつて彼の文章から見出していたことを、恥ずかしながらここで正直に告白しておかねばならない。

 この反英雄アンチヒーローとパンクロッカーという村崎百郎の2つの側面とそれに対する憧れについては、イベント中に言及できなかったことであるので……というよりあまりに個人的すぎる過去の思い出にすぎないので、少し冗長になることを断った上で、以下に懺悔がてら書き出しておきたい。

 

 

 

 村崎の出身高校の後輩(2年下だった)であった京極夏彦氏は、村崎が被っていたゴミ袋の頭巾を「悪いものが外に漏れないように社会順応するための装置」「一種の拘束具だった」という風に形容している。しかし私はかつて、あの頭巾を「被ることで悪役ヒールに変身する覆面」だと信じていたことがあった。

村崎百郎の正装(?)
引用:森園みるく私の夫はある日突然殺された』(2017) アムコミ, Kindle版, p..4

 村崎は決して、社会常識や人権意識に欠けた人間ではなかったはずだ。しかし熾烈ないじめの経験や、一般的には精神科の受診を勧められそうな「電波が聞こえる」という特殊体質が、彼の中に「自分は除け者」というような被害意識ルサンチマンを抱かせる。この被害意識ルサンチマンこそ、村崎百郎にあって青山正明には希薄なものであり、「弱い私は救われ、私を虐げている強い者たちは倒されるべきだ」という階層ヒエラルキー転覆への希求を扇動するものであり、鬼畜系が(その是非はともかく)一部の人間に魂の救済を与えた所以ゆえんになったと私は思っている。

「本当は、私だって叶うなら着飾ってちやほやされたりしたかった。だけどそれが絶望的に叶わない時、数百円で買えるそれらの雑誌(『別冊宝島』『BURST』『危ない一号』『世紀末倶楽部』等)は、確実に私を救ってくれた。」

────第447回:90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻(雨宮処凛

maga9.jp

 

 日頃そこそこ社会に迎合している人間なら、法的/社会的制裁のリスクを鑑みて、村崎のように「鬼畜な言動」を臆面もなく実行することにはまず躊躇するだろう。しかし村崎の場合、胸中で煮詰まり続ける「私は虐げられている」という怨恨がそうした躊躇をねじ伏せてしまっており、そのスイッチを作動させる行為こそ「頭巾を被る」ことであるに違いないと、かつての私は信じていたのだった(その場合は勿論、ルサンチマンを自身の所業の大義名分にしてしまっていたことこそ村崎の過ちだったという批判にも繋がる)。彼の暴力性には、加害の愉悦より、先回りして自己防衛しようとするような、傷付くことへの恐怖心を感じる瞬間があった。

 そうして発露した、村崎の下品で反社会的なパフォーマンスには、必ずこんなメッセージがセットになっていた。

「本当に自分のやりたいことをやりなよ」

「人は人としてこの世に生まれた限り、好きなことを好きなようにやるべきだ」

「己の欲望に忠実に、徹底的に利己的であれ」

────村崎百郎『鬼畜のススメ』(1996)データハウス, p.6-8

 鬱屈を代弁してくれる存在が、そして例え嘘であったって夢物語だったっていい、強いメッセージを与えてくれる存在が、よすがのない者にとって如何にカリスマたりうるか。しかも村崎は、こうしたメッセージを至る処で何度も何度も繰り返すのである────まるで歌詞の1番も2番も3番も、大事なサビのフレーズはみんな同じであるように。それはまさに、弱者のための攻撃的なパフォーマーたるパンクロッカーの姿だった。

 

 

 

 ……と、村崎に対してかつて抱いていたいびつな憧憬の話が長くなったが、そうして彼らの著作の中で披露される悪事の小気味良さの後に私が覚えたのは、「自分だけが禁忌タブーを通して真理に触れたのかもしれない」という誤った優越感だった。それは確かに一種の「カタルシス」であったということを、正直に白状せねばならない。

 しかしここでハッキリさせておきたいのは、そのカタルシスを理由に悪趣味ブームや鬼畜系を全面支持するつもりは毛頭もないということだ。個人的に肯定したいこと、人間的に愛していることと、社会的に肯定されること、法律的に優先されるべきことは別だということを、改めて強調しておきたい。

 悪趣味ブームを担っていた当事者たちはあくまで「悪い冗談」のつもりであっただろうし、そこに卑しい「小気味良さ」があったことも否定できない。が、それは社会的に無害であることとイコールではない。悪ふざけを冗談と受け取れない読者や後続のフォロワーが出てしまった以上、その始末は後世の人間が付けなければならない。これを負の遺産と呼ばずして、何と呼ぶのか。

 こう書くと、大変「人権意識の高い」「良識派」であると冷笑されるかもしれない。しかし理屈はもっと単純だ。このような文化を肯定することは、それ即ち、自身がいつか差別され地位や居場所を剥奪される側へ回る可能性を高めるということに他ならない。村崎が提唱したように徹底して利己的であるなれば、自己保身のために、徹底して社会倫理を守る努力もまたすることになるのだ。

 利己主義エゴイズムとは、常に勝手気ままに一人行動をすることではない。時には自身のために、周囲まで利用するのが究極の利己主義エゴイズムと心得る。村崎はゴミ漁りという趣味を謳歌しながら、それを露出したのが動画ではなく紙媒体であったから、あくまで「フィクションかもしれない」という推測の域を出ず、挑発的でありながらも罪に問われることはなかった。これこそ私が「知的センス」と呼んだ彼の巧みさなのだが(まァ結局はそんなハイコンテクストなところまで読み取れなかった読者が続出しちゃったんだが、そうして徹底して自分のことを考えていけば、自ずと他者の損益についても考えることになり、迷惑系YouTuberのように社会に害を及ぼすことを直接的に公表したりはしなくなるのだ。

 「可哀想だから他人に痛い思いをさせてはいけない」のではない。「結果的に自分が痛い思いをすることになるかもしれないから、自己保身のためには他人にも痛い思いをさせてはいけない」────それこそ本当の「自分の痛みをもって他人の痛みを知る」ではないか。

 

 

 

 悪趣味ブームは、一抹の懐かしさを持って個々人に振り返られることはあっても、二度と蘇ってはならない。と言うより、多分そもそも蘇ったところでまるで無意味だろう。

 『90年代サブカルの呪い』の中でロマン優光氏も指摘している通り、こうした露悪的で挑発的な表現手法は「物理的に積極的に動かなければ接することができない紙という半ばクローズドなメディアがメインだったから成立していたこと」*1で、インターネットが流行の主戦場となっている現代では、このようなカルチャーを再興したところで「無意味な争いが起きるだけであり、ネット上では廃れていくだけ」*2だと思われる。

 そんな過ぎ去ったものの中から得られる優越感など、まやかしにすぎない。その捻くれた特権意識は、いつか巡り巡って自分自身を否定することになる。

「最初は、誰も全体からの離脱に不安を感じる。つぎに自分を除けものにする全体にたいして、不満をいだく。さらに、かれは全体の批判者として立ち、個性の名において全体を否定する。脱落者から優越者への道は、あらゆる心理過程の最短距離を走る。が、ひとたびこの里程標を超えると、かれは自己の優越性を保持するため、際限もなく優越者でありつづけねばならなくなる。

 (中略)孤独者はふたたび全体への復帰を求めずにはいられなくなるのだ。かれは、生きるということが全体との一致においてはじめて可能であることを思い知らされる。」

────福田恆存『人間・この劇的なるもの』(2013)新潮文庫, p.95-95

 

 

 

 さて。ここまで書いておいて何だが、私が悪趣味・鬼畜系に与する書籍に不謹慎な愉悦を覚えていたのは学生時代に遡るものの、それらをきちんと90年代という時代と照らし合わせて改めて読み直したのは、実はここ1、2年の話である。それまで延々と60~80年代頃のサブカルチャーを逡巡していたことを反省して、YouTubeでも特集するがてら、最近ようやく90年代も勉強し始めたというのが正直なところだ。偉そうに講釈垂れ流してごめんなさい。

 しかしこの時代を学べば学ぶほどに、それは紛いもなく自身を構築した時代であったという驚きと感慨に襲われた。私は90年代は殆ど記憶のない未就学児として過ごしたが、あの未来への期待値の低さを、大人への不信感を、冷笑的であることがカッコイイというような態度を────世紀末の空気を、確かに知っていた。

 かつて自販機本や雑誌のライター、編集者を勤めていた香山リカ氏は、80年代から90年代にかけてのサブカルチャーをこう評している。

「すべての表象から文脈や歴史をはぎ取って相対化し、権威や規範にとらわれず、自分はどこにもコミットしないまま、“ひとつの主義主張と距離を置けなくなる人”には冷笑的な態度を取り、ひたすら心地よさやおもしろさを追い求め、それ以上、何かを問われそうになったら、『そんなの何もわからないよ』と未成熟な子どものように逃げ出す」という性質を帯びたものだ。

────かつてのサブカル・キッズたちへ~時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう(香山リカ

imidas.jp

 

 野間易通氏によればこうである。

「『すべての物語は等価』という新しいメタ物語によって正義をも相対化した結果、あらゆる道徳が価値を持たなくなった状況である」

────野間易通『実録・レイシストしばき隊

 

 既存の枠組みの瓦解、共同幻想の消滅、巨大災害と凶悪犯罪が呼ぶ破滅的結末カタストロフィの予感────かつて皆が同じように見ていた「大きな物語」が失われた結果、どんな思想にも寄り掛かれなくなり、冷笑的な態度で自己保身を図るようになる(=ひきこもり)。自分の基軸がない不安は過度な承認欲求へと繋がり、振り向いてほしいが故に挑発したり、満たされないから暴走したりと、承認を得るための手法は往々にして過激化する(=境界性人格障害)。そうして他者と適切な距離を計れないが故に、いつまでたっても想像力と共感性に欠けたまま(=アスペルガー症候群)────

 こうした90年代素振りに見られる「ひきこもり」「境界性人格障害」「アスペルガー症候群」的な傾向が、1995~96年に放映された『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジ、アスカ、レイという青少年たちにそれぞれ投影されているというのは、齋藤環氏の指摘だ(『博士の奇妙な思春期』の記述だったと記憶しているが再読が間に合わなかった、確認が取れ次第追記する。すみません)

 まるで病的である。それは自身の中で無限に逡巡するだけの、生産性のない負の連鎖である。しかしこれを何故か斜に構えたカッコイイポーズだと履き違え(あるいはそう思い込まなければ己を守れなかった精神的脆弱さを抱え)、悪趣味ブーム、果ては鬼畜系という潮流を育んでしまったのが、90年代という時代とその功罪だったのではないかと思う。そしてそのような虚無主義ニヒリスティックな精神を抱えながら、まるで自覚することもないままのうのうと生き永らえて来てしまったのが、何を隠そう私自身なのだった

 あらゆる価値の間にイコールの記号を押し込み、すべてを無価値としてしまう悪戯イタズラ)遊戯な遊戯は、幼少期の私を確かに育んだだろう。しかし共同幻想が瓦解し、希望も理想も曖昧なままに多様性ばかりが叫ばれる今、我々は寄る辺のない子供ではなく、個々の確かな信念を持った大人にならなければならない。正解のない精神の基軸を、各々が孤独に模索すること、そしてそれを柔軟に保持するために孤軍奮闘すること。それこそが2020年代を生きる我々の前に立ち塞がっている試練ではないか。

 90年代を振り返ったことで、私はようやくその戦いのスタートラインに立つ決意を抱くに至った。そしてそのスタートを切るために必要な決別の句を、最後に宣言しておかねばならない。

 さらば、90年代。

 悪辣な、二度と蘇ってはならない────そして、懐かしい時代。

 

”So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.”

(こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運びさられながらも、流れに逆らう船のように、力の限りこぎ進んでいく)

────フィッツ・ジェラルド『グレートギャツビー』(訳:野崎 孝)

*1:ロマン優光『90年代サブカルの呪い』(2020)コアマガジンKindle版, p.149

*2:同上

第18書簡「メンヘラ表現変幻考」

 「病み」がポップなアイコンとなって、随分と経った。「メンヘラ」というネットスラングが現実世界でも通じるようになって、久しくなった。

 この「病み」とは勿論、身体を犯すそれではない。心に巣食い精神を蝕む、見えない病魔のことである。

 私は2010年代を所謂「メンヘラ」として過ごしたが、その時代に見て来た「病み」の光景は日々少しずつ消滅し、新しい景色に移り変わっている。当事者であった頃は、投薬でも入院でもして早く楽になりたいと自身の陥っている状況を医療的側面からしか捉えていなかったが、こうして距離ができてから改めて振り返ってみた時、「病み」がここ数十年のサブカルチャーを語る上でひとつの重要な語句キーワードになっているかもしれないということに思い至った。

 そこで今回は、ネットにおける「病み」の表出の変化を、思い出せる限り自分なりに辿ってみる。目的は第一稿として、この「メンヘラの表現考」についての覚書を記しておくことにあり、あくまで現時点でこのような推察をしているというものにすぎないので、まだ輪郭が甘いのはご容赦。不正確な部分についてはご指摘いただけると有り難い。

 

 

 「病んでいる」ことは本来忌避されるはずの状態だ。人間社会において求められるのは、規律正しく社会を動かしてゆける、心身共に健康な個体だからだ。それを障害する可能性がある「病んでいる」個体は、治療の対象になる。

 勿論我々は、健康な個体のみが生き延び、不健康な個体はあまねく淘汰される社会には生きていない。何故なら我々ホモ・サピエンス生存戦略は、弱肉強食ではなく適者生存だからだ。強い者も弱い者も、健康な個体も病める個体も一律に生かし、できるだけ多種多様な遺伝子を確保プールすることで、自然界の熾烈な環境変化による絶滅に備えている。社会とはそのための────遺伝子の多様性を保守するための仕組みシステムに他ならない。

 しかし以上はあくまで「種の存続」という次元の話。「社会の正常稼働」という次元から捉え直した時、現実は残酷になる。種々雑多な個体を生かす社会機能を存続させるためには、先述の通り、社会を規律正しく稼働させられる健康な人間が一定数必要になる。そしてその個体は多ければ多いほど望ましい。結果、社会に参画することで存在意義レゾンデートルを体感するよう進化したプログラミングされた人間は、明朗快活、元気溌剌ハツラツ、お日様が自身の脳天から昇ってくる精神世界を目指し、何日も太陽に当たっていないような「病んでいる」状況は忌避するべきだと考えるに至る。その様な風潮の中では、「病み」は当然隠すべきものであり、決して堂々と公開するものでもましてや持て囃されるものでもないだろう。

 ……というのが、これまでの社会であった。

 それがここ20年そこらで、大きく変わったと感じている。

 ちなみに繰り返すが、これは精神の健康レベルの話をしているのであり、伝染病に罹患した個体や、基礎疾患や身体障害を持った個体の話をしているのではないので悪しからず。

 

 

 

 「病み」が、個々人の個性であるようにポップに語られるようになったスタートラインは、90年代にあると踏んでいる。

 そもそもまず「病んでいる」以前に、暗くて病的に見える人間が往々にしていじめや嘲笑の対象になっていたことは、過去を振り返れば明らかである。勿論、湿っぽくて物憂げであることが美質とされた時代もあったにせよ、戦後の動向を覗いてみれば、少なくとも80年代は陰気であることを蛇蝎の如く嫌う時代であったことが分かる。

 今なお残る「ネクラ(根暗)ネアカ(根明)」というスラングが、当時流行語になった背景にも、複雑怪奇な人間の性質を二項対立で捉えてしまうほどに、明るく陽気であることへの固執と、辛気臭いと思われることへの過度な恐怖が感じられる。

1982年から連載された大友克洋AKIRA』。「健康優良不良少年」という金田少年の有名すぎるこの台詞には、心身共に闊達であることと不真面目であることを同時に重要視する、80年代らしい感性が見て取れる。

 この時代に「おたく」という偶像が作り上げられ同時に叩かれたのも、同じ風潮によるものだろう。第五書簡「好事家の矜持」でも触れた、『漫画ブリッコ』に掲載された中森明夫氏のコラム「『おたく』の研究」(1983年)には、「日陰でウジウジ」「クラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない」ような、コミックマーケットに来る少年少女へ対する侮蔑的な表現が並んでいる。

 しかしこのテキストで本当に揶揄されているのは、マンガやアニメ映画を好んでいるそのことではない。それらを愛好している青少年が、「普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ」していることに露骨な嫌悪感が示されているのだ。そこには、まるで「ネクラ」という被差別階級が「ネアカ」というブルジョワジーのように振る舞うことが許せないとでも言うような、見下したような視線が内在している。80年代特有の「ネクラ」に対する過剰なアレルギー反応と蔑視そのものだ。

www.burikko.net

 このように、ただクラスの中で何となく暗くて冴えないだけで、いじめの標的になったような時代に、「病み」を堂々と公言できる環境が殆ど存在しなかったことは想像にかたくない。せめてもの救いに、顔も知らない雑誌読者同士の文通があったり、想いの丈を地下のライブハウスで代弁してくれるバンドマンがいた程度ではないだろうか。

 ……そう言えば「メンヘラ」に初めて人権を与えたミュージシャンは大槻ケンヂだったというテキストの記憶があるのだが、どこで読んだかが思い出せない。

【2023.02.01追記】

 読者より、「メンヘラ」的な人々が認知されるようになった布石として、テレビ朝日『トゥナイト』(1980~1994年放映)の風俗街リポートにてAV監督の山本晋也が発していた「ほとんどビョーキ」というフレーズがあるのではないか、と指摘いただいた。「面白ければ(差別やいじめさえも)何でもいい」という当時の面白至上主義が、それまで忌み嫌われた「病み」を逆手にとったこのフレーズ誕生の背景にあるように感じられる。

 さらに、精神的にアブナそうなキャラクター像で認知された戸川純や、「プッツン女優」として知られた藤谷美和子石原真理子の非常識な行動が話題をさらい、当時絶大な影響力のあったテレビと芸能界に居場所を作ったことで、その後の「メンタルが不安定そうな女性」が幾何か登場しやすくなったのではないか、とのこと。個人的な備忘録として、そして引き続きの検証のために追記しておく。

 また、「メンヘラ」というスラングの普及とそれが指す意味合いの変化については下記の論文が参考になったため、後学のためリンクを貼っておく。

「メンヘラ」の歴史と使用に関する一考察

 

 

 

 そんな状況が180度転換したのが、90年代後半だ。インターネットが登場したのである。

 1995年のWindows95の発表によって、日本では95年~00年前半にかけて、パソコン、そしてインターネットが一般家庭に急速に普及した。個性的な個人サイトやブログが乱立し、「あやしいわーるど」や「あめぞう」、「2ちゃんねる」といった電子掲示板が現れた。人類史上かつて存在しなかった、顔のない無数の誰かと出逢える匿名の世界の顕現。これまで決して口外できなかった胸中に鬱積した言葉たちが、電子の海に流れ出ていく。

 病める精神の揺らぎをあけすけに記録した、若い書き手による個人サイトがいくつも登場した。彼らの殆どはすでにこの世になく、サイトもドメインが切れて閉鎖されているため、このままインターネットの深海に眠らせておくべきと判断してここでは名前を引用しないが、大量に散らばった処方箋のシートや、傷口がぱっくりと開いた腕から血が滴っている写真、砕いた向精神薬をスニッフしたレポート、眠剤遊びのイロハ等々……そこにはアングラでショッキングな「病み」の断片が散らばっていたものだった。

 そうした情報に添えられた「アタシって狂ってるでショ?」というような文章には、どことなく露悪趣味や、異端ぶることで承認欲求を満たそうとする深層心理が見え隠れすることもあった。彼らのそういう自己表現の仕方には、当時の悪趣味系ブームも多少関与しているような気がしなくもない。反社会的で非常識、残酷で冷笑的な姿勢スタンスが、「スカした世の中の偽善性を見抜いている」クールなポーズとして、一部の界隈に蔓延していたのである。

 80年代の「ネクラ」なることを忌避する軽佻浮薄な風潮の中、ディスコのお立ち台で交差する強烈なスポットライトは、傍らにある影の濃度をまた一方で強めていったに違いない。時間と共にどんどん伸び広がる影法師は、次に控えている90年代にまで覆いかぶさってゆく。そうして、明るい昼があれば暗い夕刻があるように、前時代の軽薄な空気の鏡合わせのようにして芽を出したのが、90年代悪趣味系の潮流だった。

 このブームを、それまで散々苛め抜かれてきた「ネクラ」の根性曲がりの結果と形容すると、本質を欠いてしまうだろう。が、そうポーズすることが、何かしらの弱者性を抱えていた(感じていた)人に、間に合わせの優越感を与えることがあったのは確かだ。

 インターネットが普及し始めてすぐ、「病み」をあけすけに披露する人が現れたのは、ネットが憚ることなく「病み」を吐露できる新世界であったからと同時に、そのような過激な自己演出に、いびつな価値が見出されていた時代でもあったからではないか。

 

 こんな風に書くと、インターネット黎明期の「病み」サイトはどれほど「闇」の深いものだったのかと想像を巡らせる人がいるかもしれないが、たまにアップされる写真は衝撃的こそすれ、サイトのメインを構成するテキスト自体は、平易で軽妙な文章が殆どだった。悲観的で厭世的な詩文が中心だったサイトもあることにはあったが、多くは長音記号(ー)三点リーダ(……)を気ままに乱用した崩れた口語体で綴られており、「!」マークや「♪」マークが文末に連なるハイテンションな筆致も散見された。ただ苦しみを吐き出すためだけに「病み」の如何なるを記していたのなら、文章の「読みやすさ」への配慮は不要だ。そうでないということは、そこには多少読み手への意識があり、一抹の承認欲求と共に日記が書かれていたということである。

 当時は自分のサイトの日記ページに投票ボタンを設置しておくと、読者の投票数によって「日記猿人」のようなWeb日記リンク集のランキングに表示されるという仕組みもあって、それに参加していた「病み」サイトもあった。同じく読み手を意識していた証左である。

 そしてそうした流れの中、1998年に現れたのが、かつて私のチャンネルで特集した『卒業式まで死にません』の著者、南条あやだった。

 彼女の日記は、エピソードや緩急が巧みな「読ませる」文章力が光っていたのみならず、純粋な好奇心によって培われた向精神薬への異常な知識量が、そこに具体性と、具体的すぎるが故のグロテスクさを与えていたのが特異だったように思う。しかしその書き口は読者サービスに溢れた自虐的でコミカルなものであり、どこまでも「ポップ」だった。

 一般家庭にインターネットとパソコンが普及しきるまでの期間、個人サイトが盛隆だった00年代前半までに、この読ませる「病み」サイトで何となく確立された「病み」の表現スタイル────内容は深刻でありながら筆致に深刻さを感じさせまいとする────が、次の「メンヘラ」テキストのスタイルへと繋がっていく。

 

 

 

 00年代後半、我々とネットの関係に革新をもたらす小さな筐体が誕生した。

 2007年に、Appleが発表した「iPhone」である。

 それまでになかった「スマートフォン」という斬新なマシンによって、世界は誇張抜きでガラリと変わった。自己表現の場は個人サイトからSNSに移り、「病み」を吐露する場所もSNSへと移行していった。

 「メンヘラ」に最も好まれたのは、Twitterである。個人的でセンシティブな「病み」の話題は、匿名でなければ投稿しづらい。なので本名での利用が推奨されるFacebookは憚られる。また、「病んでいる」人は、お洒落で映える写真を撮れるような心の余裕も時間の猶予もない。なのでInstagramは劣等感が募るだけの枷にしかならない。

 結果、思ったことを思った瞬間に書き込むことができ、それが日記にも病状記録にもなり、さらにあわよくば近しい人と繋がることのできるTwitterが、脳内に渦巻く自責と他責の言葉を常に吐き出し続けなければ破裂パンクしてしまいそうな「病んでいる」人にとって、最も好都合なだったのだ。

 そしてここで、また文才ある・・・・「病んでいる」ユーザーが、頭角を現すようになってゆく。

 

 

 

 2010年前後にTwitterに綴られていた「病み」は、どんなにマイナスな状態であっても、笑い話として仕立て上げられていた。

 片付かない部屋、辞められない自傷昼夜逆転した自堕落な生活、荒れた親子関係や乱れた性関係……自力ではとても律せなくなった崩壊した私生活を、美味しいネタであると言わんばかりに嬉々として文字にしていた ──── ように感じさせる陽気な筆致が印象的だった。

 そのあまりに過激なツイートの中には、多少でっちあげられた部分や針小棒大な箇所もあっただろう。しかし、ちゃんとオチのある話は、例え嘘だったとしても読んで損な気はしないのだ。文字数の上限があるために、個人サイトで乱用されていた余計な装飾記号は削ぎ落され、140字内にピッタリと起承転結が収まった、自虐的な笑いに満ちた彼らのツイート。それはまるで、独りでブラックなコントを繰り広げているようだった。決して冗長でなく、平易な言葉で簡潔に、尚且つ笑いも取るその技量は最早芸人の域であり、自身の「病み」を、笑えるテキストコンテンツとして積極的に発信することを、当時Twitter(の一部界隈)では「メンヘラ芸」と呼んでいた。

 「メンヘラ芸人」として当時私がチェックしていたツイッターユーザーは何人もいたが、そのスタイルの元祖であり、最も手腕が光っていたのは、メンヘラ神だったのではないか。

twitter.com

 彼女のプロフィールについては検索すればいくらでも出て来るのでここでは触れないでおくが、こうした「メンヘラ芸」に、かつて90年代の個人サイトに漂っていた露悪趣味のにおいは最早希薄であることに気付く。悪趣味系ブームに触発された若者に見え隠れしていたような「異常なワタシを畏れてほしい」という羨望よりも、彼らのツイートの前面に打ち出されているのは、「異常なワタシを笑ってくれ」という諦念にも似た痛ましさだ。

 自分が「病んでいる」ことを自分で茶化しきってしまう、この乾いた「開き直り」こそ、2020年代の明るい「病み」に繋がっていく心的傾向メンタリティではないかと見ている。もちろん当の本人はそんな簡単に割り切れないからこそこのようなツイートしていたのであろうが、苦しめば苦しむほどマイナスのエネルギーが熱暴走するが如くますます明るく振る舞ってしまう────この内面にあるものと表出するものの解離は、今現在の、「病んでいる」のにポップに見えてしまうというアンビバレンスな「病み」の在り方とよく似ている。

 メンヘラ神を中心とする「メンヘラ芸人」たちがアルファツイッタラーとしてTwitterを賑わしていた同時期に、江崎びす子氏による「メンヘラチャン」が発表されたことにも注目しておきたい。

 それまで原宿のストリートファッションを中心に、水色や薄ピンク、ラベンダー色といったパステルカラーを基調として、メルヘンでファンタジックな意匠を施した、「ゆめかわいい」という潮流が存在していた。江崎氏はこの「ゆめかわいい」色彩感覚に、カッターナイフや錠剤といった「病み」を象徴するモチーフを盛り込んで、オリジナルキャラクター「メンヘラチャン」を打ち出したのであるが、これが「病みかわいい」という新しいジャンルの火付けとなった。

 「病み」が、優越感を得る小道具や自虐のネタではなく、「可愛いけど毒のあるファッションの一部」として提示されたこのビジュアルデザインも、深刻なのに深刻に見えない今現在の「病み」、そしてそれを標榜する青少年のファッションに、大きく影響を与えているように思われる。

 

 

 

 こうして「病み」は攻撃性の低いポップなファッションアイコンになり、「メンヘラ」はちょっと変わった一芸、あるいは刺激的な肩書きになっていった……という推察。ネットの深淵を覗けば、小学生でさえ「病みかわいい」服に憧れている今日この頃。「病み」が過度に差別される社会も何だが、「病み」があまりに持て囃される時代も、それはそれで難しいものだなァと思う。皆が寄ってたかれば、それは少数派の特権ではなくなる。

 「病んでいる」ことにアイデンティティを見出していた人たちの、立つ瀬がなくなるんじゃァないだろか?

 

 ”Je serai un grand mort.”

   私は立派な死人になる

────Jacques Rigaut ジャック・リゴー

 

「人間は、中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ。」

────寺山修司