本日10月31日は、ハロウィン祭 Halloween である。
もとは古代アイルランドのケルト人の祝祭であったハロウィンは、アメリカでは19世紀にアイルランド人やスコットランド人が移住して以来民間行事として定着したが、すでに現代においては宗教的意味合いを失っている。それはこの祭りを無礼講のコスプレイベントとして受容した日本においても例外ではない。渋谷を筆頭にした繁華街で湧き起こる騒動は、治安維持という側面から見れば確かに問題視されるべきものだが、社会人類学的な観点から見ると、頭ごなしに非難する気にもなれないなァ等と最近何となく思ったりする。
かつてクロード・レヴィ=ストロースは、「冷たい社会」と「熱い社会」という比喩表現を用いて、未開社会と近代社会を比較した。私はこの概念をレヴィ=ストロース本人の著作ではなく、浅田彰の『構造と力』から孫引き的に知ったのではあるが、「冷たい社会」とは変化を拒む硬直した原始的社会を、「熱い社会」とは絶えず発展してゆく加速主義的な文明社会を指しているらしい。
「冷たい社会」と「熱い社会」では、安寧秩序を破壊しかねない人間の原始的衝動(これは「呪われた部分」と形容されているが)を、それぞれの方法で対処しようとする。
「冷たい社会」では、
一方の「熱い社会」では、鬱憤を解消するのではなく、それさえ飲み込んで社会変革のエネルギーへと変換していく。我々の欲望は飽くことを知らない。それはつまり、我々を突き動かす「呪われた部分」────原始的欲求は、文明発展を煽り立てる永久機関となりうるということでもある。
こうした説明を受けた時、近年のハロウィンが従来の子供向けイベントではなく大人の大規模な乱痴気騒ぎへと転じた背景に、ふたつの要素を見出すことができる。ひとつは、ハロウィン騒乱に乗じる者たちが「冷たい社会」的価値観に従属しているかもしれない、という可能性だ。彼らの世界は閉鎖的で、変わらない構造と規則に律されている。「渋谷で騒ぐ若者に東京在住者は殆どいない」と、いつかどこかで聞かされたことがある。
ふたつめは、「熱い社会」であるはずの現代社会が、彼らにとって「冷たい社会」的なそれだと見做されている可能性である。我々の社会は今現在も進行形で前進し続けているはずであるが、それが彼らには殆ど停滞したものだと捉えられている。科学の進歩を、経済の発展を、生産の加速を────未来への期待を、目を輝かせて語る人が今の時代、この国にどれほどいるだろう。
そこまで考えてみると、昨今の「日本的ハロウィン」は、閉塞感漂う現代の若者によって自主的に編み出されていった「ガス抜き」の浅知恵なのかもしれない、という気がして来るのだ。彼らは恒常的に公序良俗を脅かすわけでも、社会や国家を転覆するワケでもない。たった1日2日羽目を外してみるだけだ。意図せずして巻き込まれた方は堪ったものではないが、我々の理性的でない部分を処理する冷却システムなる「祭り」として考えれば、まだ随分と良心的(?)な範疇に留まっているのではないかと思わなくもない。勿論このような屁理屈を押し通し「ハロウィン騒ぎは肯定すべきだ」と主張するワケではないが(繰り返すが秩序維持の側面から見れば規制せざるをえないのである)、ただここで私が言いたかったのは、「日本的ハロウィン」が全くもって社会的な意味を成していないと嘲笑する態度に対しては懐疑的な立場を取りたい、ということだ。
全き道徳倫理に則った安全かつ健全な祭りこそ執り行われるべきだというのなら、それは「祭り」を全く誤解している。それは「祭り」の歴史を、社会的意義を理解していない人の短慮にすぎない。
ハロウィンは本来アイルランドの祭りであった、ということは冒頭で書いた通りだ。その祝祭の名を「サーウィン Samhain」と言う。
古代ケルト人の1年の終わりは、現在の10月31日に相当していた。新年は11月1日から始まったワケだ。実りある季節の終焉を「年末」とし、暗く厳しい冬の幕開けを「年始」としていたケルトの
1年を光(夏)と闇(冬)に分けて捉えていたケルトの人々にとって、大晦日は光と闇が交わる片時であった。そしてそれは、
当時の仮装は、顔を黒く塗ったりヴェールで覆い、身体には白装束や
彼らにとってハロウィンで仮装するということは、決してポジティブなコスプレ衣装を着ることではなかった。それは自然崇拝の中で生きたケルト人たちの、死者に対する鎧────ネガティブな防具を纏うことであった。
だが一方で、死者に対してポジティブな仮装をする祭りも健在している。毎年11月1日と2日、メキシコを中心としたヒスパニック諸国で祝われる「死者の日 The Day of the Dead」だ。
もともと古くからアステカの先住民たちの間では、夏に祖霊の来訪を迎える盆の習慣があったらしい。が、16世紀にスペイン人が入植して、聖人や殉教者を記念する「諸聖人の日(毎年11月1日に執り行われる。「万聖節」とも)」というカトリックの祝祭が持ち込まれる。この「諸聖人の日」が、メキシコ土着の盆と融合して成立した祭りが「死者の日」だ。
日付が近いためハロウィンの関連行事だと誤解されがちだが、ハロウィンがもともとアイルランドの土着信仰(ドルイド教)の行事であったのに対して、死者の日はアステカの伝統とカトリック教会が交雑した結果である。ルーツとなる信仰が全く違うことには留意したい。キリスト教側から見てみれば、ハロウィンは元は「邪教の祭り」であり、死者の日は「異教を吸収した結果」なのである。
「死者の日」の華やかさは、日本の慎ましやかな盆の風景とは真逆のものだ。
家々や墓地や公園は色とりどりの切紙に綾取られ、食べ物や蝋燭を捧げた豪奢な
こうした仮装の背景には、メソアメリカの達観した死生観が関係している。アステカの時代からこの地では、死とは永遠に続く生の一部にすぎず、より幸福な次の時代に転生するための必要なステップと見做されていた。彼らにとって死とは忌むべき不吉なものではなく、嘆くものでも恐れるものでもない。誰にしも平等に、どこにでも現れる普遍的な事象でしかない。
メキシコの街を歩くと、ポップな髑髏のオブジェや女神像(サンタ・ムエルテと呼ばれる。スペイン語で「死の聖母」の意)が数多売られていることに驚くことだろう。髑髏というモチーフがカジュアルに日常に取り入れられているのは、それが死の
「死者の日」における髑髏に扮した仮装も、喪に服すためでも、隣人を脅かすための悪戯でもないのだ。それは帰って来た死者を迎え入れ、共に楽しく一時を過ごすための、ポジティブな正装であった。元来のハロウィンにおけるネガティブな鎧としての仮装とは、あまりに対照的ではないだろうか。
この生者が死者のような姿に扮し、死者と時空を共有して踊ろうとする「死者の日」の光景にこそ、私は実写版「死の舞踏」の景色を見たのだった。
その昔、中世末期の西洋社会では「死の舞踏」と呼ばれる絵画様式が流行していた。
「死の舞踏」では、屍体や骸骨が踊りながら生者を死の国へと
だが一方メキシコの「死者の日」においては、人々は「死の舞踏」の如く死者に無理矢理踊らされてはいない。むしろ死者と踊るために、古代のアイルランドの人々とは対照的な意図を持って黄泉の国の姿に扮し、亡き者たちの再来を心待ちにしている。ここでは積極的に手を差し伸べているのは死者ではなく、生者の方なのである。
私はこれこそ、メキシコの死生観こそ、本当の意味での「
死を拒絶せず、むしろ死者と一緒になって生を謳歌するメソアメリカの祝祭こそ、今尚残る最も原義的な「
「飲みかつ食べよう、明日には死ぬのだから」