ケー・ドルセー41番地

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毎月月末、館より届く鈍色の便り

第15書簡「呪われたハロウィン」

 本日10月31日は、ハロウィン祭 Halloween である

 もとは古代アイルランドケルト人の祝祭であったハロウィンは、アメリカでは19世紀にアイルランド人やスコットランド人が移住して以来民間行事として定着したが、すでに現代においては宗教的意味合いを失っている。それはこの祭りを無礼講のコスプレイベントとして受容した日本においても例外ではない。渋谷を筆頭にした繁華街で湧き起こる騒動は、治安維持という側面から見れば確かに問題視されるべきものだが、社会人類学的な観点から見ると、頭ごなしに非難する気にもなれないなァ等と最近何となく思ったりする。

 かつてクロード・レヴィ=ストロースは、「冷たい社会」と「熱い社会」という比喩表現を用いて、未開社会と近代社会を比較した。私はこの概念をレヴィ=ストロース本人の著作ではなく、浅田彰の『構造と力』から孫引き的に知ったのではあるが、「冷たい社会」とは変化を拒む硬直した原始的社会を、「熱い社会」とは絶えず発展してゆく加速主義的な文明社会を指しているらしい。

 「冷たい社会」と「熱い社会」では、安寧秩序を破壊しかねない人間の原始的衝動(これは「呪われた部分」と形容されているが)を、それぞれの方法で対処しようとする。

 「冷たい社会」では、非日常ハレ としての「祭り」を周期的に行うことで解消を試みる。そこでは多少の乱暴だったり性的な逸脱であったり、常軌を逸した放蕩が許されている。今尚残る様々な祭りのルーツを辿っていくと異様グロテスク な実態が見えてくることがよくあるのは、それがかつて日常生活 の鬱積の「ガス抜き」として機能していたからだ。

 一方の「熱い社会」では、鬱憤を解消するのではなく、それさえ飲み込んで社会変革のエネルギーへと変換していく。我々の欲望は飽くことを知らない。それはつまり、我々を突き動かす「呪われた部分」────原始的欲求は、文明発展を煽り立てる永久機関となりうるということでもある。

 こうした説明を受けた時、近年のハロウィンが従来の子供向けイベントではなく大人の大規模な乱痴気騒ぎへと転じた背景に、ふたつの要素を見出すことができる。ひとつは、ハロウィン騒乱に乗じる者たちが「冷たい社会」的価値観に従属しているかもしれない、という可能性だ。彼らの世界は閉鎖的で、変わらない構造と規則に律されている。「渋谷で騒ぐ若者に東京在住者は殆どいない」と、いつかどこかで聞かされたことがある。

 ふたつめは、「熱い社会」であるはずの現代社会が、彼らにとって「冷たい社会」的なそれだと見做されている可能性である。我々の社会は今現在も進行形で前進し続けているはずであるが、それが彼らには殆ど停滞したものだと捉えられている。科学の進歩を、経済の発展を、生産の加速を────未来への期待を、目を輝かせて語る人が今の時代、この国にどれほどいるだろう。

 そこまで考えてみると、昨今の「日本的ハロウィン」は、閉塞感漂う現代の若者によって自主的に編み出されていった「ガス抜き」の浅知恵なのかもしれない、という気がして来るのだ。彼らは恒常的に公序良俗を脅かすわけでも、社会や国家を転覆するワケでもない。たった1日2日羽目を外してみるだけだ。意図せずして巻き込まれた方は堪ったものではないが、我々の理性的でない部分を処理する冷却システムなる「祭り」として考えれば、まだ随分と良心的(?)な範疇に留まっているのではないかと思わなくもない。勿論このような屁理屈を押し通し「ハロウィン騒ぎは肯定すべきだ」と主張するワケではないが(繰り返すが秩序維持の側面から見れば規制せざるをえないのである)、ただここで私が言いたかったのは、「日本的ハロウィン」が全くもって社会的な意味を成していないと嘲笑する態度に対しては懐疑的な立場を取りたい、ということだ。

 全き道徳倫理に則った安全かつ健全な祭りこそ執り行われるべきだというのなら、それは「祭り」を全く誤解している。それは「祭り」の歴史を、社会的意義を理解していない人の短慮にすぎない。

 

 

 

 ハロウィンは本来アイルランドの祭りであった、ということは冒頭で書いた通りだ。その祝祭の名を「サーウィン Samhainと言う。

それはケルト人たちの宗教的リーダーであった「ドルイド」僧の下、執り行われた。

 古代ケルト人の1年の終わりは、現在の10月31日に相当していた。新年は11月1日から始まったワケだ。実りある季節の終焉を「年末」とし、暗く厳しい冬の幕開けを「年始」としていたケルトこよみ は、真冬の最中に突然年が繰り越されてしまう現在のグレゴリオ暦よりも非常に自然で、体感的に分かりやすいと個人的には感じている。ケルト人たちは11月1日の「正月」に、夏の収穫に感謝し、余剰生産物を分かち合い、篝火かがりび の周りで踊り明かした。このサーウィンの祭りの前日10月31日に行われた前夜祭こそ、現在の「ハロウィン」の原型であるとされている。

 1年を光(夏)と闇(冬)に分けて捉えていたケルトの人々にとって、大晦日は光と闇が交わる片時であった。そしてそれは、現世うつしよ 幽世かくりよ の境界が曖昧になる時をも意味した。先祖の霊が帰ってくるというのは日本の「盆」にも似た宗教観ではあるが、ケルトの世界ではこの祖霊と一緒になって、良からぬ有象無象の悪霊までもやって来ると考えられていた。そのためケルト人は、祖霊をもてなすと同時に、悪霊に大人しく家から出て行ってもらうために食事を用意したという。これが後に、いたずら小僧たちに菓子をやって家から追い払う「トリック・オア・トリート Trick or Treat」の風習に繋がっていったのだが、もうひとつ悪霊対策として人々が行ったのが「仮装」であった。

死を運ぶ首無しの騎士「デュラハン」も、アイルランドで信じられていた悪しき精霊のひとつである。
ワシントン・アーウィング『スリーピーホロウの伝説』より、アーサー・I・ケラーの挿絵(1906)

 当時の仮装は、顔を黒く塗ったりヴェールで覆い、身体には白装束やわら を纏ったようなものが多かったという。これは勿論幽霊をイメージしてのことで、理由は様々言われているのだが、その内の一つに「悪霊退散のため」というものがあった。先祖の霊と共に俗界に紛れ込んだ悪い「シー Aos síアイルランド圏における精霊。女性型は「バンシー」)」は、人々に災いをもたらし、子供を黄泉の世界へ攫って行ってしまうとされた。ケルト人は悪しきシーのような恰好をすることで、シーを脅かし、あるいは同族であるように見せかけて、身を守ろうとしたのだ。

 彼らにとってハロウィンで仮装するということは、決してポジティブなコスプレ衣装を着ることではなかった。それは自然崇拝の中で生きたケルト人たちの、死者に対する鎧────ネガティブな防具を纏うことであった。

 

 

 

 だが一方で、死者に対してポジティブな仮装をする祭りも健在している。毎年11月1日と2日、メキシコを中心としたヒスパニック諸国で祝われる「死者の日 The Day of the Dead」だ。

「死者の日」に先祖へ捧げられる祭壇は色鮮やかに飾り付けられる。
Wikipediaより引用

 もともと古くからアステカの先住民たちの間では、夏に祖霊の来訪を迎える盆の習慣があったらしい。が、16世紀にスペイン人が入植して、聖人や殉教者を記念する「諸聖人の日(毎年11月1日に執り行われる。「万聖節とも)」というカトリックの祝祭が持ち込まれる。この「諸聖人の日」が、メキシコ土着の盆と融合して成立した祭りが「死者の日」だ。

 日付が近いためハロウィンの関連行事だと誤解されがちだが、ハロウィンがもともとアイルランドの土着信仰ドルイド教の行事であったのに対して、死者の日はアステカの伝統とカトリック教会が交雑した結果である。ルーツとなる信仰が全く違うことには留意したい。キリスト教側から見てみれば、ハロウィンは元は「邪教の祭り」であり、死者の日は「異教を吸収した結果」なのである。

 

 

 

 「死者の日」の華やかさは、日本の慎ましやかな盆の風景とは真逆のものだ。

 家々や墓地や公園は色とりどりの切紙に綾取られ、食べ物や蝋燭を捧げた豪奢な祭壇オフレンダ が据え置かれる。祖霊を家族の下へ導く道標になるとされているセンパスチル cempasúchil ────通称マリーゴールドの橙の花が街中を埋め尽くすが如く飾られ、そこに無数の頭蓋骨カラベラ が添えられる。人々は顔を髑髏しゃれこうべ のようにペイントし、思い思いの華美な衣装に身を包み、踊り、食べ呑み、家族と団欒の時を過ごし、故人を偲ぶ。

仮装の一例。これはまだシンプルな方。
Wikipediaより引用

 こうした仮装の背景には、メソアメリカの達観した死生観が関係している。アステカの時代からこの地では、死とは永遠に続く生の一部にすぎず、より幸福な次の時代に転生するための必要なステップと見做されていた。彼らにとって死とは忌むべき不吉なものではなく、嘆くものでも恐れるものでもない。誰にしも平等に、どこにでも現れる普遍的な事象でしかない。

 メキシコの街を歩くと、ポップな髑髏のオブジェや女神像サンタ・ムエルテと呼ばれる。スペイン語で「死の聖母」の意)が数多売られていることに驚くことだろう。髑髏というモチーフがカジュアルに日常に取り入れられているのは、それが死の象徴シンボル だからであり、そして住民が死に対して否定的な感情を抱いていない証左である。

メキシコの「魔女市場」ことソノラ市場で撮った写真(2018)
招き猫やカーリー(?)と一緒に骸骨頭のサンタ・ムエルテ像も陳列されていることから、これが不吉な死神などではなく、御利益をもたらしてくれる神だと見做されていることが分かる。

 「死者の日」における髑髏に扮した仮装も、喪に服すためでも、隣人を脅かすための悪戯でもないのだ。それは帰って来た死者を迎え入れ、共に楽しく一時を過ごすための、ポジティブな正装であった。元来のハロウィンにおけるネガティブな鎧としての仮装とは、あまりに対照的ではないだろうか

 

 

 

 この生者が死者のような姿に扮し、死者と時空を共有して踊ろうとする「死者の日」の光景にこそ、私は実写版「死の舞踏」の景色を見たのだった。

 その昔、中世末期の西洋社会では「死の舞踏」と呼ばれる絵画様式が流行していた。

ミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』(1493)

 黒死病ペスト による死者や百年戦争による犠牲者が後を絶たなかった当時、それは「死を想えメメント・モリ Memento mori」の表象としてあちこちの教会や墓地に掲げられていた。何故「舞踏」なのかと言えば、当時あまりに卑近すぎる死に恐怖した人々が半狂乱になり失神するまで踊り続けたという集団ヒステリーが実際に起っていたそうで、その狂騒がイメージの源流になっているからだという。

 「死の舞踏」では、屍体や骸骨が踊りながら生者を死の国へといざな っている様子が描かれる。そこでは教皇や皇帝から狂人まで、あらゆる人間が死者に等しく手を引かれている。いくら現世で巨万の富を得ようが神に届かんばかりの地位を築こうが、死を前には何も意味をなさないという「すべては虚しいヴァニタス Vanitas」の寓意だ。困惑し、抵抗し、泣き叫んでいる生者の姿が多数描かれていることから、当時の西洋人にとって死者の来訪はネガティブな恐れるべきものであり、その骨張った手はできれば取りたくないものだったであろうことは容易に想像できる。

ハンス・ホルバイン『死の舞踏』

 だが一方メキシコの「死者の日」においては、人々は「死の舞踏」の如く死者に無理矢理踊らされてはいない。むしろ死者と踊るために、古代のアイルランドの人々とは対照的な意図を持って黄泉の国の姿に扮し、亡き者たちの再来を心待ちにしている。ここでは積極的に手を差し伸べているのは死者ではなく、生者の方なのである

 私はこれこそ、メキシコの死生観こそ、本当の意味での「死を想えメメント・モリ」だという気がしてならない。そもそも西洋社会においてさえ、「死を想えメメント・モリ」という慣用句フレーズ が栄枯盛衰的な訓戒と虚無主義ニヒリズム のニュアンスを持つようになったのは、黒死病ペスト 猖獗しょうけつ を極めていた中世以降の話だ。この警句はもともと、キリスト教が浸透する以前の古代ローマの時代から使われていたものだった。そしてその時の意味するところとは、「いつか死ぬのだから今を楽しめ」というものだったのだ。

 死を拒絶せず、むしろ死者と一緒になって生を謳歌するメソアメリカの祝祭こそ、今尚残る最も原義的な「死を想えメメント・モリ」の核心だと思われてならない。そして元来祝祭とはまさに斯くが如く、「熱い社会」の搾取よって有耶無耶にされ続けてきた生の衝動を最も開放できる稀有な機会であるはずなのだ。「祭り」の荒くれた熱気を否定する者は、死についてまるで深く考えた試しのない、しかし生を無自覚に否定している者であろう。その生は暗く冷たい鉄格子の中、黙することこそが理性だと取り違えたまま終わりを迎えるだろう。

 理性なき・・・・ハロウィン騒動とは、我々の無意識の暗部から再び蘇った、現代の生の讃歌である。その衝動は「呪われた」ものであるに違いない。しかしかのシオランは、かつて「人間は、自分が呪われた存在だということをたやすく忘れてしまう。世の始まりからして、呪われているせいである」と看破した。人間そのものがハナから祝福された存在でないのだ。ならば別段、我々の「呪われた部分」を特別憎み抑圧する必要などどこにもあるまい。ただ死者と手を取り合って、今この瞬間の生を高笑いするのみである。今日だけは。

 

「飲みかつ食べよう、明日には死ぬのだから」

────旧約聖書イザヤ書』22章13節