食べることが好きだ。もしこの胃袋が一杯になることを知らなかったなら、この身体が愛する洋服たちのための
何処で読んだか記憶が曖昧だが、他人の胃袋を借りて食事をする創り話がある。
ある処に食べることが人生の何よりもの愉しみである貴族がいたが、老齢になり内臓の具合も芳しくなく、昔のように思う存分食事ができなくなってしまった。そこで彼は、明日の生活にも窮している貧しい男にこう持ち掛ける。
「君の衣食住の一切を保証し、報酬もたんまりと弾む。その代わりに、食べることが何よりもの至福であるこの老いらくの胃袋になってはくれまいか。なに、何も難しいことはない。私が味わい、
胃袋が頑丈なことだけが取り柄だった貧しい男は、
だが、いくら貴族が豪勢な料理を口にしようと、男は自身が咀嚼しているワケではないのでその美味を享受することはできなかった。貴族が呑み込んだ後の、一体それが何だったかも分からない半固形物が胃の中に流れ込み堆積していくだけである。空腹に悩まされることがなくなったと安堵したのも束の間、際限なく食べ続ける貴族のお陰で次第に消化が追い付かなくなり、体調不良に悩まされる日々が続き、男は最後には仕事を投げ出してしまう……というような御話。
こんなことが現実に出来たならどんなに良いだろう、と空想する。食べることの弊害は、腹が膨れることだからだ。
私は多種多様な味、調理の妙を舌という口腔器官に出来る限り記録し、その料理の背景にあるやんごとなき地理的事情や、生存の必要と不必要な享楽の合間を行き来する歴史の
もし時代と環境が許したのなら、きっと
シラノ・ド・ベルジュラックの『月世界旅行記』では、月に行った主人公がそこの住人にもてなされるのだが、一向に饗膳が運ばれてこないので訝む。すると住人が「ここでは空気を頂くのですよ」と言うので、試しに指図された通りの作法で空気を味わってみると、それは清々しい香気のような味わいがしたと歓喜する。
私はこれさえ羨ましくて仕方がない。地球で呼吸するたびに、
それに空気ならどれだけ貪っても胃袋が満杯になることはない。願ったり叶ったりである。
毎日一冊の本を読み終えてもこの世の全ての書籍は読破できないように、毎日違う
寸刻を惜しんで食べ続けて、ようやく現存する料理の僅かな一部を堪能したに足ると言えるかどうか……きっととても言えないに違いない。少しでもそう思ってしまったのは、私の知り得る世界がまだあまりに狭いからだろう。動物は餌の皿に顔を突っ込むと、周囲が何も見えなくなるものである。
最早失われた珍味のことを思うと、
「蘇」の製法と分量について確認できるのは、平安時代の律令をまとめた『延喜式』や政務のイロハを事細かに記した『政治要略』の中の、「作蘇之法、乳大一斗敗、得蘇大一升(蘇の作り方は、乳大一斗から蘇大一升を得る)」の一文のみという。あとは中国の『斎民要術』や『本草綱目』等に「
700年からは文武天皇の指示によって諸国より宮中へ「蘇」が貢納されるようになり、平安貴族たちの
嗚呼、いにしえの貴族のみが口にできた失われし味!
そんなことを言っていたら、去年、復元された「蘇」を土産物に頂戴する機会があった。
今日のおやつ。奈良土産の「蘇」と「御城之口餅」。蘇は製法が失われた古代日本の幻の乳製品。推測レシピを元に再現したものを頂きました。チーズより優しい風味でほのかな乳の甘みが美味でした。
— 好事家ジュネ (@DilettanteGenet) 2022年11月20日
御城之口餅は豊臣秀吉が絶賛した伝統的な餡子入りきな粉餅。舌の上で蕩ける柔らかさだった…!#好事宴 pic.twitter.com/wPs9Pl0xoO
素朴な甘みと、奥歯の間で崩れて溶けるような食感。チーズともバターとも違うえもいわれぬ品の良い風味に陶然としながら、やはり脳髄の空腹は満たされなかった。何故なら、我々が現在飲用している牛乳はホルスタイン種の牛から搾取したものであるが、「蘇」が作られていた時代、日本にホルスタインは居なかったからである。
当時日本で飼育されていた牛種、「蘇」の精製に使用された牛乳の成分含量が現時点で分かっていない以上、やんごとなき
もしタイムスリップができたなら、私はその時代ならではの食べ物を片っ端から口に放り込んでいくに違いない。味覚の記憶が増えることこそ、「食べること」の醍醐味である。そしてそうやって「知る」ことこそ、人の何よりもの快楽ではないか。
フランスの法律家で、『美味礼讃』を刊行し美食家としても知られたジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランは、このような有名な言葉を残している。
君が普段食べているものを教えてみたまえ。君がどんな人であるか、当ててみせよう。
Dis-moi ce que tu manges : je te dirai ce que tu es.
これはまさに金言と呼ぶべき言葉で、その人が普段食べているものを聞けば、何となくその人となりが想像できるのである。ちょうど、どんな本を読んでいるかを聞けば、その人の素養が想像付くのと同じだろう。
ここで、一等ホテルで連日豪奢なフレンチや風雅なイタリアンを口にしている者は上品で好ましく、四畳一間で日々インスタントラーメンを啜り糊口を凌いでいる者は低俗で卑しい、というような
上記のような2人を挙げた場合、前者は富む者で、後者は貧する者であるということは確かに分かるだろう。それも勿論「どんな人であるか」の要素のひとつではあるが、その人の本質とはまるで関係のない、あくまでその時点での金銭事情にすぎない。
私
「実際に普段食べる物」は諸般事情に左右される。しかし「今、そして普段食べたいものの選択」は、例え実現しなくとも、その人なりの欲求と思想に貫かれたものであるはずだ。そしてその選択には、美学がなければならない。美学とはこれまでに培った見聞、経験に裏打ちされた、その人独自の精神論のことである。間違っても「夜景のキレーなレストランで、ドレスを着て、赤いバラが飾られてて、白い布が掛けられたテーブルで、なんか美味しいおニクと、高いワインを飲んでたい」という痴呆の
かの森茉莉も「金を使ってやる贅沢には創造の歓びがない」*1と看破している。これが生まれながらの貧乏人の卑屈ではないところが心強い。これに共感している私は貧乏人の卑屈である。
念のため補足しておくと、森茉莉はかの文豪・森鴎外の娘で、蝶よ花よと溺愛されて育ったお嬢様であったのだが、戦後一人暮らしを始めてからは生活の貧苦も随分と経験した人である。そのような中、高価なものを買える贅沢よりも、精神が贅沢であることの方がよっぽど重要であるという信念に至り、その
彼女の「貧乏サヴァラン」(全集ほか、本エッセイを表題に様々な食事にまつわるエッセイを纏めた『貧乏サヴァラン』で読むことができる)では、「マリア(森茉莉のこと)は貧乏な、ブリア・サヴァランである」と、赤貧の中でも、自分の味覚に絶対に妥協できない日々の七転八倒が綴られている。
夜用の即製冷紅茶のためには、大きな角砂糖くらいに切った、昔ながらの氷の味がするダイヤ氷がなければならない。
朝は必ず手製のサンドウィッチを食べるが、具材は鎌倉ハムに
刺身は鯛より平目。
ビスケットは上等の粉の味の中に
高価な食材を選択することが本質ではない。その選択が如何なる美学に基づいており、それがどれほどの強度で、または柔軟性を持って貫かれているのか、いないのかが「その人がどんな人であるか」の本質なのである。
私の選択の
素朴な素材に、思う存分
牛肉は旨味すべて平らげられるよう、骨付きで煮込んでいる方が好ましい。ターリーとシャシリクは傷だらけのスレンレス皿で食したい。アブサンは甘ったるすぎてはいけないし、大きすぎる高杯ではなく、人差指と親指で摘めるくらいのリキュールグラスで呑むのが好ましい。ウゾやアラックはアブサンより旨い。それらに関しては、粗雑で荒々しい味わいである方が良い、
衝撃的なパンに出会ってしまった……エチオピアの主食「インジェラ」、モチモチ食感と乳酸菌の酸味が美味しすぎて普通のパンが食べられなくなった。写真のように皿に敷いた上にワット(煮物)を乗せて、端からちぎってはワットを巻いて食べるので、皿も汚れないし手も汚れない。革命的すぎる。#好事宴 pic.twitter.com/yaiKmiiMXu
— 好事家ジュネ (@DilettanteGenet) 2023年2月21日
刀削麺は包丁を奪われた庶民が刀で麺を切ったという伝承通り、削ぎ落したような不揃いな切り方でなくてはならない。
紅茶は
……食べることは確かに好きだけれど、こうして書いてみると、私はやはり味覚の記憶を増やしたいだけなのだという気がして来る。
「
聖人君子の道も学ばなければその難しさと素晴らしさを解すことはできないし、大人物も実際に用いてみなけければその器量を計ることはできない。だから何事もまずは実践してみるべし、という教訓なのだが、私はこれを日々文字通り、「御馳走があっても食べてみなければその美味しさは分からない」という意味で乱用している。
健康法だか
食べることとは「知る」ことだ。だから我々は、胃袋ではない────脳髄の空腹を満たすたびに、食べなければならない。