ケー・ドルセー41番地

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毎月月末、館より届く鈍色の便り

第18書簡「メンヘラ表現変幻考」

 「病み」がポップなアイコンとなって、随分と経った。「メンヘラ」というネットスラングが現実世界でも通じるようになって、久しくなった。

 この「病み」とは勿論、身体を犯すそれではない。心に巣食い精神を蝕む、見えない病魔のことである。

 私は2010年代を所謂「メンヘラ」として過ごしたが、その時代に見て来た「病み」の光景は日々少しずつ消滅し、新しい景色に移り変わっている。当事者であった頃は、投薬でも入院でもして早く楽になりたいと自身の陥っている状況を医療的側面からしか捉えていなかったが、こうして距離ができてから改めて振り返ってみた時、「病み」がここ数十年のサブカルチャーを語る上でひとつの重要な語句キーワードになっているかもしれないということに思い至った。

 そこで今回は、ネットにおける「病み」の表出の変化を、思い出せる限り自分なりに辿ってみる。目的は第一稿として、この「メンヘラの表現考」についての覚書を記しておくことにあり、あくまで現時点でこのような推察をしているというものにすぎないので、まだ輪郭が甘いのはご容赦。不正確な部分についてはご指摘いただけると有り難い。

 

 

 「病んでいる」ことは本来忌避されるはずの状態だ。人間社会において求められるのは、規律正しく社会を動かしてゆける、心身共に健康な個体だからだ。それを障害する可能性がある「病んでいる」個体は、治療の対象になる。

 勿論我々は、健康な個体のみが生き延び、不健康な個体はあまねく淘汰される社会には生きていない。何故なら我々ホモ・サピエンス生存戦略は、弱肉強食ではなく適者生存だからだ。強い者も弱い者も、健康な個体も病める個体も一律に生かし、できるだけ多種多様な遺伝子を確保プールすることで、自然界の熾烈な環境変化による絶滅に備えている。社会とはそのための────遺伝子の多様性を保守するための仕組みシステムに他ならない。

 しかし以上はあくまで「種の存続」という次元の話。「社会の正常稼働」という次元から捉え直した時、現実は残酷になる。種々雑多な個体を生かす社会機能を存続させるためには、先述の通り、社会を規律正しく稼働させられる健康な人間が一定数必要になる。そしてその個体は多ければ多いほど望ましい。結果、社会に参画することで存在意義レゾンデートルを体感するよう進化したプログラミングされた人間は、明朗快活、元気溌剌ハツラツ、お日様が自身の脳天から昇ってくる精神世界を目指し、何日も太陽に当たっていないような「病んでいる」状況は忌避するべきだと考えるに至る。その様な風潮の中では、「病み」は当然隠すべきものであり、決して堂々と公開するものでもましてや持て囃されるものでもないだろう。

 ……というのが、これまでの社会であった。

 それがここ20年そこらで、大きく変わったと感じている。

 ちなみに繰り返すが、これは精神の健康レベルの話をしているのであり、伝染病に罹患した個体や、基礎疾患や身体障害を持った個体の話をしているのではないので悪しからず。

 

 

 

 「病み」が、個々人の個性であるようにポップに語られるようになったスタートラインは、90年代にあると踏んでいる。

 そもそもまず「病んでいる」以前に、暗くて病的に見える人間が往々にしていじめや嘲笑の対象になっていたことは、過去を振り返れば明らかである。勿論、湿っぽくて物憂げであることが美質とされた時代もあったにせよ、戦後の動向を覗いてみれば、少なくとも80年代は陰気であることを蛇蝎の如く嫌う時代であったことが分かる。

 今なお残る「ネクラ(根暗)ネアカ(根明)」というスラングが、当時流行語になった背景にも、複雑怪奇な人間の性質を二項対立で捉えてしまうほどに、明るく陽気であることへの固執と、辛気臭いと思われることへの過度な恐怖が感じられる。

1982年から連載された大友克洋AKIRA』。「健康優良不良少年」という金田少年の有名すぎるこの台詞には、心身共に闊達であることと不真面目であることを同時に重要視する、80年代らしい感性が見て取れる。

 この時代に「おたく」という偶像が作り上げられ同時に叩かれたのも、同じ風潮によるものだろう。第五書簡「好事家の矜持」でも触れた、『漫画ブリッコ』に掲載された中森明夫氏のコラム「『おたく』の研究」(1983年)には、「日陰でウジウジ」「クラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない」ような、コミックマーケットに来る少年少女へ対する侮蔑的な表現が並んでいる。

 しかしこのテキストで本当に揶揄されているのは、マンガやアニメ映画を好んでいるそのことではない。それらを愛好している青少年が、「普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ」していることに露骨な嫌悪感が示されているのだ。そこには、まるで「ネクラ」という被差別階級が「ネアカ」というブルジョワジーのように振る舞うことが許せないとでも言うような、見下したような視線が内在している。80年代特有の「ネクラ」に対する過剰なアレルギー反応と蔑視そのものだ。

www.burikko.net

 このように、ただクラスの中で何となく暗くて冴えないだけで、いじめの標的になったような時代に、「病み」を堂々と公言できる環境が殆ど存在しなかったことは想像にかたくない。せめてもの救いに、顔も知らない雑誌読者同士の文通があったり、想いの丈を地下のライブハウスで代弁してくれるバンドマンがいた程度ではないだろうか。

 ……そう言えば「メンヘラ」に初めて人権を与えたミュージシャンは大槻ケンヂだったというテキストの記憶があるのだが、どこで読んだかが思い出せない。

【2023.02.01追記】

 読者より、「メンヘラ」的な人々が認知されるようになった布石として、テレビ朝日『トゥナイト』(1980~1994年放映)の風俗街リポートにてAV監督の山本晋也が発していた「ほとんどビョーキ」というフレーズがあるのではないか、と指摘いただいた。「面白ければ(差別やいじめさえも)何でもいい」という当時の面白至上主義が、それまで忌み嫌われた「病み」を逆手にとったこのフレーズ誕生の背景にあるように感じられる。

 さらに、精神的にアブナそうなキャラクター像で認知された戸川純や、「プッツン女優」として知られた藤谷美和子石原真理子の非常識な行動が話題をさらい、当時絶大な影響力のあったテレビと芸能界に居場所を作ったことで、その後の「メンタルが不安定そうな女性」が幾何か登場しやすくなったのではないか、とのこと。個人的な備忘録として、そして引き続きの検証のために追記しておく。

 また、「メンヘラ」というスラングの普及とそれが指す意味合いの変化については下記の論文が参考になったため、後学のためリンクを貼っておく。

「メンヘラ」の歴史と使用に関する一考察

 

 

 

 そんな状況が180度転換したのが、90年代後半だ。インターネットが登場したのである。

 1995年のWindows95の発表によって、日本では95年~00年前半にかけて、パソコン、そしてインターネットが一般家庭に急速に普及した。個性的な個人サイトやブログが乱立し、「あやしいわーるど」や「あめぞう」、「2ちゃんねる」といった電子掲示板が現れた。人類史上かつて存在しなかった、顔のない無数の誰かと出逢える匿名の世界の顕現。これまで決して口外できなかった胸中に鬱積した言葉たちが、電子の海に流れ出ていく。

 病める精神の揺らぎをあけすけに記録した、若い書き手による個人サイトがいくつも登場した。彼らの殆どはすでにこの世になく、サイトもドメインが切れて閉鎖されているため、このままインターネットの深海に眠らせておくべきと判断してここでは名前を引用しないが、大量に散らばった処方箋のシートや、傷口がぱっくりと開いた腕から血が滴っている写真、砕いた向精神薬をスニッフしたレポート、眠剤遊びのイロハ等々……そこにはアングラでショッキングな「病み」の断片が散らばっていたものだった。

 そうした情報に添えられた「アタシって狂ってるでショ?」というような文章には、どことなく露悪趣味や、異端ぶることで承認欲求を満たそうとする深層心理が見え隠れすることもあった。彼らのそういう自己表現の仕方には、当時の悪趣味系ブームも多少関与しているような気がしなくもない。反社会的で非常識、残酷で冷笑的な姿勢スタンスが、「スカした世の中の偽善性を見抜いている」クールなポーズとして、一部の界隈に蔓延していたのである。

 80年代の「ネクラ」なることを忌避する軽佻浮薄な風潮の中、ディスコのお立ち台で交差する強烈なスポットライトは、傍らにある影の濃度をまた一方で強めていったに違いない。時間と共にどんどん伸び広がる影法師は、次に控えている90年代にまで覆いかぶさってゆく。そうして、明るい昼があれば暗い夕刻があるように、前時代の軽薄な空気の鏡合わせのようにして芽を出したのが、90年代悪趣味系の潮流だった。

 このブームを、それまで散々苛め抜かれてきた「ネクラ」の根性曲がりの結果と形容すると、本質を欠いてしまうだろう。が、そうポーズすることが、何かしらの弱者性を抱えていた(感じていた)人に、間に合わせの優越感を与えることがあったのは確かだ。

 インターネットが普及し始めてすぐ、「病み」をあけすけに披露する人が現れたのは、ネットが憚ることなく「病み」を吐露できる新世界であったからと同時に、そのような過激な自己演出に、いびつな価値が見出されていた時代でもあったからではないか。

 

 こんな風に書くと、インターネット黎明期の「病み」サイトはどれほど「闇」の深いものだったのかと想像を巡らせる人がいるかもしれないが、たまにアップされる写真は衝撃的こそすれ、サイトのメインを構成するテキスト自体は、平易で軽妙な文章が殆どだった。悲観的で厭世的な詩文が中心だったサイトもあることにはあったが、多くは長音記号(ー)三点リーダ(……)を気ままに乱用した崩れた口語体で綴られており、「!」マークや「♪」マークが文末に連なるハイテンションな筆致も散見された。ただ苦しみを吐き出すためだけに「病み」の如何なるを記していたのなら、文章の「読みやすさ」への配慮は不要だ。そうでないということは、そこには多少読み手への意識があり、一抹の承認欲求と共に日記が書かれていたということである。

 当時は自分のサイトの日記ページに投票ボタンを設置しておくと、読者の投票数によって「日記猿人」のようなWeb日記リンク集のランキングに表示されるという仕組みもあって、それに参加していた「病み」サイトもあった。同じく読み手を意識していた証左である。

 そしてそうした流れの中、1998年に現れたのが、かつて私のチャンネルで特集した『卒業式まで死にません』の著者、南条あやだった。

 彼女の日記は、エピソードや緩急が巧みな「読ませる」文章力が光っていたのみならず、純粋な好奇心によって培われた向精神薬への異常な知識量が、そこに具体性と、具体的すぎるが故のグロテスクさを与えていたのが特異だったように思う。しかしその書き口は読者サービスに溢れた自虐的でコミカルなものであり、どこまでも「ポップ」だった。

 一般家庭にインターネットとパソコンが普及しきるまでの期間、個人サイトが盛隆だった00年代前半までに、この読ませる「病み」サイトで何となく確立された「病み」の表現スタイル────内容は深刻でありながら筆致に深刻さを感じさせまいとする────が、次の「メンヘラ」テキストのスタイルへと繋がっていく。

 

 

 

 00年代後半、我々とネットの関係に革新をもたらす小さな筐体が誕生した。

 2007年に、Appleが発表した「iPhone」である。

 それまでになかった「スマートフォン」という斬新なマシンによって、世界は誇張抜きでガラリと変わった。自己表現の場は個人サイトからSNSに移り、「病み」を吐露する場所もSNSへと移行していった。

 「メンヘラ」に最も好まれたのは、Twitterである。個人的でセンシティブな「病み」の話題は、匿名でなければ投稿しづらい。なので本名での利用が推奨されるFacebookは憚られる。また、「病んでいる」人は、お洒落で映える写真を撮れるような心の余裕も時間の猶予もない。なのでInstagramは劣等感が募るだけの枷にしかならない。

 結果、思ったことを思った瞬間に書き込むことができ、それが日記にも病状記録にもなり、さらにあわよくば近しい人と繋がることのできるTwitterが、脳内に渦巻く自責と他責の言葉を常に吐き出し続けなければ破裂パンクしてしまいそうな「病んでいる」人にとって、最も好都合なだったのだ。

 そしてここで、また文才ある・・・・「病んでいる」ユーザーが、頭角を現すようになってゆく。

 

 

 

 2010年前後にTwitterに綴られていた「病み」は、どんなにマイナスな状態であっても、笑い話として仕立て上げられていた。

 片付かない部屋、辞められない自傷昼夜逆転した自堕落な生活、荒れた親子関係や乱れた性関係……自力ではとても律せなくなった崩壊した私生活を、美味しいネタであると言わんばかりに嬉々として文字にしていた ──── ように感じさせる陽気な筆致が印象的だった。

 そのあまりに過激なツイートの中には、多少でっちあげられた部分や針小棒大な箇所もあっただろう。しかし、ちゃんとオチのある話は、例え嘘だったとしても読んで損な気はしないのだ。文字数の上限があるために、個人サイトで乱用されていた余計な装飾記号は削ぎ落され、140字内にピッタリと起承転結が収まった、自虐的な笑いに満ちた彼らのツイート。それはまるで、独りでブラックなコントを繰り広げているようだった。決して冗長でなく、平易な言葉で簡潔に、尚且つ笑いも取るその技量は最早芸人の域であり、自身の「病み」を、笑えるテキストコンテンツとして積極的に発信することを、当時Twitter(の一部界隈)では「メンヘラ芸」と呼んでいた。

 「メンヘラ芸人」として当時私がチェックしていたツイッターユーザーは何人もいたが、そのスタイルの元祖であり、最も手腕が光っていたのは、メンヘラ神だったのではないか。

twitter.com

 彼女のプロフィールについては検索すればいくらでも出て来るのでここでは触れないでおくが、こうした「メンヘラ芸」に、かつて90年代の個人サイトに漂っていた露悪趣味のにおいは最早希薄であることに気付く。悪趣味系ブームに触発された若者に見え隠れしていたような「異常なワタシを畏れてほしい」という羨望よりも、彼らのツイートの前面に打ち出されているのは、「異常なワタシを笑ってくれ」という諦念にも似た痛ましさだ。

 自分が「病んでいる」ことを自分で茶化しきってしまう、この乾いた「開き直り」こそ、2020年代の明るい「病み」に繋がっていく心的傾向メンタリティではないかと見ている。もちろん当の本人はそんな簡単に割り切れないからこそこのようなツイートしていたのであろうが、苦しめば苦しむほどマイナスのエネルギーが熱暴走するが如くますます明るく振る舞ってしまう────この内面にあるものと表出するものの解離は、今現在の、「病んでいる」のにポップに見えてしまうというアンビバレンスな「病み」の在り方とよく似ている。

 メンヘラ神を中心とする「メンヘラ芸人」たちがアルファツイッタラーとしてTwitterを賑わしていた同時期に、江崎びす子氏による「メンヘラチャン」が発表されたことにも注目しておきたい。

 それまで原宿のストリートファッションを中心に、水色や薄ピンク、ラベンダー色といったパステルカラーを基調として、メルヘンでファンタジックな意匠を施した、「ゆめかわいい」という潮流が存在していた。江崎氏はこの「ゆめかわいい」色彩感覚に、カッターナイフや錠剤といった「病み」を象徴するモチーフを盛り込んで、オリジナルキャラクター「メンヘラチャン」を打ち出したのであるが、これが「病みかわいい」という新しいジャンルの火付けとなった。

 「病み」が、優越感を得る小道具や自虐のネタではなく、「可愛いけど毒のあるファッションの一部」として提示されたこのビジュアルデザインも、深刻なのに深刻に見えない今現在の「病み」、そしてそれを標榜する青少年のファッションに、大きく影響を与えているように思われる。

 

 

 

 こうして「病み」は攻撃性の低いポップなファッションアイコンになり、「メンヘラ」はちょっと変わった一芸、あるいは刺激的な肩書きになっていった……という推察。ネットの深淵を覗けば、小学生でさえ「病みかわいい」服に憧れている今日この頃。「病み」が過度に差別される社会も何だが、「病み」があまりに持て囃される時代も、それはそれで難しいものだなァと思う。皆が寄ってたかれば、それは少数派の特権ではなくなる。

 「病んでいる」ことにアイデンティティを見出していた人たちの、立つ瀬がなくなるんじゃァないだろか?

 

 ”Je serai un grand mort.”

   私は立派な死人になる

────Jacques Rigaut ジャック・リゴー

 

「人間は、中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ。」

────寺山修司