ケー・ドルセー41番地

ケー・ドルセー41番地

毎月月末、館より届く鈍色の便り

第ニ書簡「血と女」

 『孤狼の血 Level2』を映画館に観に行った。人に誘われて付き添っただけだったので、原作となった柚月裕子の小説は勿論、前日譚となる映画1作目すら観ていなかったのだが、案外そつなく出来ていてちゃっかりシッカリ堪能してしまった。帰宅してからAmazonPrimeですぐに前作を観たくらいには良かったと言っていい。小説を原作とした1作目を知ってしまうと、完全にオリジナルストーリーである2作目の派手で過剰な演出が少し目に余るような気もしなくはないが、そこはまあご愛嬌。

 私は普段、邦画をあまり観ない。おセンチな学芸会には興味がないからだ。例えるなら運動会だの文化祭だの、感動と共感を強要するためだけに作られたハリボテが子供の時分から私は苦手だ。黒澤明小津安二郎が監督した時代のもはや古典の域に入る映画であると、例えどんな無粋な役者が出てこようが別世界の作品として観れてしまうのだけれど、最近の映画になるともう目も当てられない。犬の如く奇声を張り上げてみたり、子供でももっと神妙な表情を知っているぞと言いたくなるほど、険しいのだかトボけてるのだか、ふざけた顔真似をしてみたり、役者自身がどう演技すべきかをまるで分かっていないから、観ている側もどう観れば良いのかサッパリ分からない。何故日本の役者はこんな惨憺たる有様なんでしょうと知人にボヤけば、作品に何も思い入れがないからだろう、という返答。彼曰く――これは園子温監督のエピソードだそうだが――オーディションにやって来たあるフランス人の役者に参加理由を尋ねると、彼は園監督の作品を片っ端からあまねく観ていて、まるで当然のようにその素晴らしさを、思い入れを滔滔と語ってみせたらしい。またこれは私も敬愛する唐十郎の劇団の話であるが、ある女優はこう語ったという。

「この手の中に唐さんの脚本があるだけで、私は生きていける」

 勿論この話は知人からの又聞きなので真相は如何ほどというところだが、監督や主宰という作品作りにおける船頭へのリスペクト、作品そのものへの敬愛――それなくして本当の脚本読解も演技の研鑽もあり得ないのではないかと、そして昨今そんな熱意や愛を湛えた俳優は日本においてますます数を減らしているばかりではないかと、知人の話を聞きながら考えたりしていた。

 ちなみに斯くも偉そうな役者論を捲し立てている私自身は、おが付くほどの立派な大根である。その昔寺山修司唐十郎好きが高じて演劇人を志したことがあるが、あまりの才能の無さに2日で辞めた。以前、寺山修司を特集した動画の中で久方ぶりにちょっとした小芝居に挑戦してみたが、台詞の棒読みもいいところで、周囲の人には随分と笑いのネタにされたものだ。最近の役者の醜態を見ていられないというのは、実は一種の共感性羞恥でもある。

 

 話が逸れた。『孤狼の血』は、広島に割拠するヤクザたちの抗争と、それを取り締まる警察の腐敗を描いた物語だ。1作目で先輩刑事の意志を継いだ暴力犯捜査係・日岡秀一松坂桃李は、2作目において、刑期を終えシャバに放たれた上林組組長・上林成浩しげひろ 鈴木亮平と激しく衝突することになる。冒頭では昨今の俳優への不平不満を連ねてしまったが、松坂桃李はさておき、鈴木亮平の鬼が憑いたようなただならぬ演技には本当にヒヤリとさせられてしまう瞬間が何度もあった。このふたりの火花散らした戦いが2作目の見どころで、暴力に次ぐ暴力の連続、終盤の血だるまの乱闘にはもはや一種のカタルシスすら漂う。そんな男たちの喧嘩と殺戮を安全快適な観客席で眺めながら、私は「やっぱり男が血を流して殴り合っているのはイイわねえ」などとトンチンカンな悦に入っていた。最近あまりバイオレンスを観ていなかったが故の感動もあるが、他者に傷付けられ、他者を傷付け血を流すのは、やはり男に限る。

f:id:DilettanteGenet:20210929090700p:plain

ちなみにこの直後に吉田恵輔監督の『空白』も観たが、打って変わって気弱な店長を演じる松坂桃李に「この人いつ怒鳴り出すんだろうなあ」と思っている内に終わってしまった。

 

 じゃあ女はと言えば、女は取っ組み合って血を流したり流させたりなんかしない。女の乱闘なぞ誰が見たいんでしょう……それはただキーキーと騒がしいだけの猿の乱痴気だ。銃も手にせず、刃も握らず、自らの体内からだくだくと血の涙を流してみせる――それが女である。

 その昔、日本を含むアジアの一部の地域には「忌小屋いみごや」という家屋が存在したと聞く。月経中の女性を家族や村人から隔離しておくための小屋で、それはホルモンバランスの乱調によって疲弊した女性の療養のためだったとも、男性に不浄をうつさないためだったとも言われているが、仮に後者だったとしても(倫理的な是非はさておき)別段驚くには値しない。男にとっての血は外傷によって流れるものであって、それがひとりでに勝手に流れ出るなぞあり得ないことなんである。そりゃ気味が悪くて目に入らない場所に遠ざけておきたくもなるだろう、と私でも思う。

 

 ただここで私が言いたいのは、「股から血を垂れ流すのが女です」という与太話ではない。あらゆるジェンダーセクシャリティが肉体という監獄から自由になりつつある現代において、性差の判別を生体機能に依存することはすでにナンセンスだ。今後すべての性が人類という大区分の前に解体されてゆくその先では、「男性的/女性的」という類別表現すらも忌諱され、淘汰されていくのかもしれない――などと未来を空想しながら、まだ辛うじて「男性的/女性的」という形容詞が有効である今現在、私がそれを用いるとすれば、その区別は「傷の在処」「血の流し方」に依りたい、という話をここではしたい。

 月経はあくまで例え話だ。外傷もないのに月が満ちるとひとりでに血が零れ出すように――内に無数の傷を抱え込み人知れずおびただしい血を流すような、そんな心持ちを私は「女性的」と呼びたい。

 

 女の執念深さ、恨みの強さを物語るエピソードは枚挙に暇がない。神話や民話においても、女は一度復讐仇討ちを決意したら最後、化けて出たり死んだ後にも呪い続けるというという。そのド根性っぷりにはもはや一種のたくましさすら感じる。なるほど、『安珍清姫伝説』では、美僧・安珍に婚約を反故にされた清姫が嘆き死んで大蛇に化けるが、その火を吐きながら安珍を追いかける様、釣鐘の中に隠れた安珍を焼き殺してしまう様は、女の執念斯くやという描写だ。また女の呪いと言えば『四谷怪談』のお岩さんなぞが思い浮かぶが、裏切者の夫を呪い殺すに留まらず、一家根絶やしにまでしてしまうのだからその怨念たるや何とも凄まじい。神話においても、ヘーラーだのイワナガヒメだの嫉妬に狂って蛮行に走るのは大抵女神で、古今東西執着心の塊として描かれるのは見事に女だらけだと笑いたくもなるが、この理由こそ、女の血の流し方に由来するのである。

f:id:DilettanteGenet:20210930025749j:plain

日高川草紙絵巻』より。釣鐘の中に隠れた安珍を焼き殺す清姫……だったもの。

 男の血は傷付け傷付けられてその肌の上を流れる、と先程書いた。信頼する人に陥れられた、愛人に裏切られた云々、対人関係の中で被った傷は、剥き出しの敵意や当てのない暴力、とめどない慟哭、自暴自棄な態度――すぐに怒りや悲しみとなって外に流れ出す。そうした可視の流血こそ「男性的」だ。この流血は目に見える分恐ろしく、また悲惨であるようにも思われるが、手当をしなくとも吹きすさぶ風にその内乾いて、傷は曖昧に塞がってしまうという強さも一方で持ち合わせている。『孤狼の血』で私が感動していたのは、殺し合うヤクザたち、殴り合う日岡と上林の血まみれの姿に、そんな「男性的な流血」を見ていたからだ。

 一方で、女の血は目に見えないところに流れる。コミュニティから除け者にされた、容姿を貶された、無能と呼ばれた、恋人に捨てられた……云々、そのすべての傷は外皮ではなく胸の内に蓄えられる。この時点ですでに出血はしているのだが、身体の内側で静かに引き起こっているそれに誰も気が付くことができない。外気で血を乾かすこともできない、腹でも切らなければ自力で体内に絆創膏を貼ることも包帯を巻くこともできないので、絶えず傷を負い続けたり傷があまりに深いと、いつまでも流血を止めることができない。そうしてだくだくと流れ続ける血液は、身体の中に溜まりに溜まり、あるタイミングで一斉に溢れ出す。まるで堰堤ダムが決壊するがごとく、血の涙となって、真っ赤な呪詛となって。

 しかしこれは周囲の人間には想定外の出来事である。何故ならこの女の流血は体内で行われていたことだから、彼女がこれまでに如何に傷付き続けていたかということを、誰も知り得なかった。周囲は何故この女が突然怒り出したのかを理解できない。何故彼女の恨み辛みが斯くも深いのか、戸惑うばかりだ。そして首を傾げながら苦し紛れに言うのである。「女は執念深い」と。

 だが事実は違う。彼女は突然その怨恨を爆発させたのではない。誰にも悟られない、しかし止め処ない内なる出血が、彼女の身体の内側に憎悪の呪術を塗りこめて塗りこめて、ついに彼女を執念の鬼に変えてしまったのである。「女性的な流血」、それはいつかオーバーフローする不可視の流血である。

 

 自傷をする人の割合が男性より女性が多いこと、あるいは自傷行為が「女々しい」とされがちな理由もここにあろうと思われる。こういう「女性的」な人々は、傷を体内に受け、抱えてしまい、どうにも出血を止められないでいる。しかし流れ続ける血が飽和すると邪悪な怨鬼と化してしまうのは神話や民話にすでに散々描かれている通りである。それは自分の形を失うことであり、自分に戻れるかも分からない常闇の一本道である。例えるならそれまで「メンヘラ」の肩書きで済んでいたのが、閉鎖病棟の住民だろうか、檻の向こうの囚人だろうか――それを自らが望むならいざ知らず、きっと彼らが望まない何かに、確実にこの世ならざるアウトサイダー変化へんげしてしまう。

 そこで彼らは身体を切り裂いて瀉血する。恨み辛みが自らの魂を本当に歪めてしまう前に、剃刀を、カッターナイフをその外皮に押し当てて、今にも体内から溢れ出しそうな血の海を抜くという応急処置を行うのである。この行為は同時に「男性的な流血」への憧憬をも意味する。内なる「女性的な流血」しかできない苦しみに疲弊した彼らは、自らを自らの手で傷つけることで疑似的「男性的流血」を作り出し、痛ましくも「男性的」な一種の清々しさを体験しようとする。そしてあわよくば、世間に冷たく吹きすさぶ風が傷をどす黒く乾かして、流血を止めてくれることを望む。しかし外傷が塞がったところで、それは放水口が閉められてしまったことと同じだ。内側に抱えた傷が癒えない限り、自傷という瀉血行為が不要になる日は来ない。その傷を塞ぐのは、幾何かの月日でも、向精神薬トランキライザーでも、貴方の破れかぶれな愛でも良い。

 

 その昔、歌舞伎町で男を足蹴にしている女を見かけて、何て見事な「男性的流血」だろう、と感心して眺めていたことがある。男性の方もただ蹴られているだけでなく、何とか女性の脚を引っ掴んで転倒させてやろうと七転八倒しているから殊勝である。傷を受けたらすぐ血を、感情を迸らせる。これぞ「男性的な流血」の流儀なんである。「男性的/女性的な流血」が、どんなセックス(生物学上の性別)ジェンダー性自認に起こり得るかは人それぞれであるが、できれば「男性的な流血」を心得た方が生き易さという側面からは推奨されると思われる。しかし「女性的な流血」に一種の理想的な、病的であるが故のあはれ、恐ろしいが故の艶めかしさを錯覚してしまうのもまた事実だ。私が時折立ち寄るゲイバーのママは、かつてこう言った。「愛されたいより愛したいが先走るのよ」。黙して孤独に流血する覚悟の、何と愚かしくも気高いことよ。

 「女性的な流血」をする誰かが清姫のごとく猛り狂う大蛇に、お岩さんのごとく復讐の亡者に化ける前に、何か差し出せるものはあるだろうか、と時々思う。三島由紀夫が『仮面の告白』に書いた一文にはこうある。

「傷を負った人間は間に合わせの包帯が必ずしも清潔であることを要求しない」

 私がYouTubeにアップしている浅ましい動画が、この不埒な悪文ブログが、誰かの包帯になることもあるだろうか。