漢字が読めない。
大した取り柄のない私が唯一胸を張れる情けない自負とは「読み間違いで掻いた恥の数だけは、誰にも負けない」である。
漢字が読めない。私のYouTube動画には、たまに口の動きと発音が連動していないカットが紛れ込んでいる。このことにすでにお気付きの方がいたらその洞察力には驚嘆するが、実はあれは編集中に漢字を読み間違えていることに気が付いて、後で音だけ録音し直し、映像にツギハギしたカットなんである。自分で書いた原稿を自分で読み間違えているということである。馬鹿である。
学生の時分、一番の得意科目はずっと現代国語であったが、漢字の読みだけはてんでダメだった。現代文読解がどれだけ得意でも、漢字の書き取りでどれだけ点数を稼いでも、読みで全部ポシャにするのが試験での毎度のお約束だった。読めない漢字があまりに多いので、そしてあまりにこっぱずかしいので、私も自身が犯した失態をいちいち覚えてはいないが、辛うじてまだ記憶している最近の失敗談をここで打ち明けてみよう。
「雑木林」――何と読むか? こんな熟語は小学生でも読める。「ぞうきばやし」である。
しかしこれを私は生まれてこのかた20年以上、まさかの「ぞうきりん」と読んでいたのである。
動物園でもあるまいに! まるで景色はサファリパーク。静かな木立の風景が突如『ライオンキング』の世界に豹変である。
何故こうも漢字が読めないのかと、頭を捻ってみたことがある。ただの勉強不足、オツムが足りないという悲しい現実はひとまず横に置いておいて……ある日ふと思い当たったことがある。
私は昔から人と話すことが大の苦手で、これまでの人生、音声コミュニケーションを避けることに全労力を注いで生きてきた。小学生の頃はあまりにクラスメイトと話したくないが故、教室にいる間は勿論、通学の最中ですらひたすらに本に噛り付いていたので、当時のあだ名は「二宮金次郎」であった(歩き読書は危険なのでやめましょう……私も校門で先生に見つかっては怒られていた)。決して私は、読書熱心な子供だったワケではない。人の「目の前の作業に集中している人間には声を掛けづらい」という心理を利用して、携帯電話もない環境でその状況を発生させるため、本というツールを手にしていたにすぎない。
2週間に1度、母親が連れてくれる地元の図書館で、私は武器の選定に精を出した。これからまた2週間、学校生活を再び耐え忍び戦い抜けるか否は、ここで良い本を選べるかどうかにかかっていたのであった。当時すでに日本の街並みの猥雑さや生活の殺風景に辟易していた私は、徐々に西洋ファンタジーにのめり込んでいく。『デルトラ・クエスト』『指輪物語』『ダークエルフ物語』『ドラゴンランス』など、鎖帷子や板金鎧の金属音と魔法の炎できらめく別世界に連れて行ってくれる本を片っ端から手に取っていたと記憶している。この時の西洋趣味が今現在のゴシック趣味へと繋がった話は、500人記念動画で語った通りだ。
ただ私がそうしたファンタジー小説の物語をきちんと理解して楽しんでいたかといえば、実はそうでもない。私はそれらに心の原風景を求めていたので、もっぱらストーリーは二の次で、登場するモチーフひとつひとつに憧れては溜息をついていたのだった。宝石をちりばめた王の黄金の
ひらがなには色――それもほとんどドぎつい原色が付いているので、いろとりどりの芋虫のように見える。例えば「あ」は赤色、「か」は黄色、「さ」は緑色、「た」はまた黄色で「な」は紫色……という風に。文字や数字に色が付いて見えたり、音を聞くと色が思い浮かんできたりする現象を「共感覚」というそうだが、私は別に色が頭に浮かぶだけで見えるワケではないし、色が付随しない文字もあって何ともいい加減な感覚なので、どうも共感覚とは違うらしい。ひらがなは確かにいろかたちは愛らしいが、柔らかくて頼りなくて何だか標本には向かないような気がして、積極的に蒐集しようと思えない。
一方のカタカナは、標本の対象である昆虫そのものよりも、むしろ展翅のための銀ピンだ。それらはただの無色の記号、意味のないランダムな数字の羅列と同じで、いくら眺めても感慨のひとつわかない。カタカナの多い文章は言葉の合間に銀線が張り巡らされているようで、語感がパラついていると感じた時に引き締めてくれる心地良さもあるが、空想の可動域を狭めてくるような鬱陶しさを感じる時もある。
やはり至高の美しさを誇るのは漢字である。それは天上の蝶であり、夢中の蛾であり、極彩の甲虫である。杉松のしなやかさと金銀の冷たさを持ち、錦繍のように繊細でありながらますらおのごとく雄々しく頑強で、画数が多いほどに私はその線の隙間に細い銀ピンを刺し込みたくて堪らなくなる、お前を標本したいという衝動が抑えられなくなる。
煩い教室の片隅で、代り映えのしない通学路で、息の詰まるような自宅で――たったそれだけで構成されていた世界の中で、私は書物を手に取った。そして、その中の異世界に飛び交う無数の活字の群れの中に魅力的な標的を探し出す遊戯に耽った。今も残るノートの罫線の上には、そうして集めてきた数多のきらびやかな言葉たちが静かに並んでいる。彼らには死んだ昆虫のごとく、音が付随しなかった。それらは私にとってコミュニケーションのために揃えた道具ではなかったからだ。それらは発語するためではなく、書かれ、愛でられるためにあり、物事を説明するためではなく、世界を装飾するためにあった。私はそんな音のない言葉たちの、花の化石のような、古い銀器のような、乾いた静けさをこそ愛した。世間ではそれで恥を掻くのだという事実を、私は不幸にも(幸福にも?)長らく知らないでいた。
長野まゆみの著作に『ことばのブリキ
例えば「花ぬすびと」と称された植物の項目には、ハリエンジュ、
私は長野まゆみの理科趣味や理想主義には共感しないが、彼女の言葉への偏執的なこだわりには大いに同族意識を覚える。私なら植物の項目には、
私は長野のようなすずやかな言葉よりは、銀細工のような冷厳さと、ゴシック教会のような荘厳さを湛えた言葉が好きだが、そのおごそかさのためには、上記のようなペダンチックな仮名を振っても決して滑稽に成り下がらないような重厚な「形」もまた重要である。美しい言葉には、美しい「綴り」も必要不可欠なのだ。しかし私たちの音声コミュニケーションは、概してその美しさを取りこぼしてしまう。発語に綴りなんて関係ないからだ。
言葉がその厳格な綴りによって内包していた美しい「音なき音」。衣擦れのような、鈴の鳴るような、流氷が溶けるような、
私は口をつぐむ。現代の私たちは自身の話し言葉をそっくりそのまま文字に、文章に落とし込むことができるけれども、かつてはきっとそうではなかった。話し言葉が決して書き言葉とリンクしなかった、そんな神聖な時代があったのだ。私は決意する。手元にあるこの言葉の標本箱を、決して安易に開けるまい。この硝子蓋の奥に詰まった美しい沈黙を決して穢すまい、と。
そうして会話を拒否し続けて、いつの間にか私は、立派な「コミュ障」になってしまった。
そんな言葉への偏執的な感性が、「雑木林」を「ぞうきりん」と読ませたのだと言ったら、流石に言い訳が過ぎるだろうか。「雑木林」という文字列からはサーカスのような妖しさと、背の高い何かが連立している様子が連想されて、何だかゾウとキリンと読めるような気がしてしまうのである。勿論、そんな戯言が誰にも伝わらないことも充分に理解している。「ぞうきりん」の誤りによってあの時現場に沸き起こった笑いに、私も一緒になって笑っていた。所詮、読み方なんてどうだっていいのだ。書き言葉の美しさ以上に言葉の美しさは在り得ないのだから、話し言葉しか扱えない場面なぞ下衆な態度で臨んでおけばいいのだ。どうだっていい下衆いことにだけは、人間はいくらだって笑っていられる。
話すことを知らないまま、自身の大切な書き言葉だけで通じ合えたなら、僕たちはどんなに美しいいきものになっていただろう、と時々思う。互いの標本箱を見せ合って、そっと微笑みだけを交わすような。
そう思いながら、私は今日もカメラの前で、低俗な話し言葉をまくしたてている。